EXTRA:『贈与論』マルセル・モース

EXTRAについて

 本の指定者が3人のうちの誰かではなくて、「伴読部」である―ということです。

 前回(第6回)までで本の指定者が2巡し、またそれぞれの感想をアップしてきたわけですが、実は毎回その後があって、感想アップ後には「お互いの感想を読んだ感想」などを元に3人のあいだでメールのやりとりをいくらかしています。で、5回6回と回を重ねてゆくなかで、伴読部の輪郭もちょっと見えてきて、そこに今回の指定本『贈与論』も浮かびあがってきた。3人とも未読であると「判明」し、かつ、いずれ読みたい/読んでおこうと思っている本(積読本)ということだったので、「伴読部EXTRAみたいな感じで読んでみるのもいいかもしれませんね」というast15さんの発案。「EXTRAって響きになんか心くすぐられる…!」「じゃあ7月に差し込みましょう」。

 というわけでで今回はEXTRA。

「贈与論」

 今日の受け取り手は、明日は贈り手になる。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 お土産がわかりやすい。あれはべつに強制されているものじゃなく、買う買わないは本人の意思・判断に任されているものであって、つまり表面上は任意。けれども実のところ、お土産を買って帰ることは半ば義務である。以前誰かが自分に(もしくは自分の所属する場に)お土産を買って帰ってきてくれたというような前例があればこの義務の側面はなお強く働きかけてくるようになる。買わなくていっかなーと思っていても、買うかどうか迷わせ、買わずに帰ると(誰かに責められたわけでなくても)なんとなく後ろめたさを感じさせる。

 『贈与論』は、「なんでお土産を買うのだろうか?(そういうことになってるんだろう?)」という疑問を探る、そんな1冊。「贈与」にまつわる義務感はどこから来るのか、その精神的なメカニズムとは何なのか―これを“未開”と言われる社会に見られる「ポトラッチ」という慣行から探ってゆく(贈与による契約とはどんなものか?)。

 ちなみにポトラッチとは、クワキウトル族やハイダ族、トリンギット族といったアメリカ大陸北西部のインディアンのあいだに見られる贈与慣行のことである。冠婚葬祭のような儀礼的な機会に催された儀式や祭宴などで、主催者が招待客に大量の贈答品をばらまき、それを受けた招待客は、後日、さらに盛大な祭宴を催す。その際、受け取った贈答品に負けない立派なお返をしなければならず、あるいは、敵対関係にある場合などはもらった贈答品を焼いたり海に投げ捨てたりと、破壊する(「ポトラッチ」はチアヌーク語で「食べ物を与える」とか「消費する」とかいう意味だそうだ)。また、インディアンのあいだには「競争と敵対の原理」が強く働いており、ポトラッチの本質に注目するならば、それは「贈与」にある。
 
 モースは『贈与論』を、ポリネシアメラネシアなど南洋諸島の調査・研究による考察から始める。そっくりポトラッチ、ではないものの、クラ交易をはじめ、ポトラッチの基本的な要素の見出される慣行がこの地域・民族にも広く見られるのだという―というよりも、南洋諸島を考察することで「贈与」という行為の意味がより明確になってくると言った方が正しいかもしれない。南洋諸島とインディアンの贈与の話が、前半、第1章と第2章で行なわれる。ここまでで「贈与とは何か」がほぼ説明されていると言っていい。後半、第3章と第4章では、前半で見てきた「贈与」は、実は、ヒンドゥーや中国、ゲルマンにも見られるし、というか現代社会にも見られる…?と展開してゆく。

 さて、「贈与」という言葉が当てられているものの、「表向きは任意、実は義務」である。あるいは、たとえば、そこには「3つの義務」があるという。「贈り物を与える」義務と「贈り物を受け取る」義務、そして「お返しをする」義務。この「贈与」「受領」「返却(反対給付)」は三位一体で、不可分の関係にある。やや長いけれど、本書で紹介されていた、マオリ族のインフォーマント(情報提供者)であるタマティ・ラナイピリ氏の「ハウの話」を引用します。

ハウは吹いている風ではありません。仮にあなたがある品(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そして、その人はお返し(ウトゥ)として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで私が彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返しをしなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいものであっても、望ましくないものであっても、それをしまっておくのは正しいとは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことが起こり、死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、森のハウなのです。

 「タオンガ(ないし個人的な所持品)は、霊的な力としてのハウを持っている」「贈り物には元の所有者の一部が宿っており、それは受け取り手に影響力をもつ」ということだ。この感覚は、なんとなく、でもけっこうわかるものがある。

 『贈与論』に日本への言及はとくに見られないけれど、たとえば九十九神なんかは、ハウと同じか、それに近い認識の変形態という側面ももしかしたらあったかもしれない。税や教育、「ありがた迷惑」や「タダより高いものはない」、ハンムラビ法典、サンタクロース、ボランティア活動(慈善と偽善のちがい)、はてなスター、あるいはこの伴読部も「指定した本を指定者が他の2人の分も購入して読ませる」という形式にしたらどーなるだろうか…?等々、読中、いろいろと連想・空想が働いた。冒頭のお土産もその1つである。

 こうした思いつきは真面目に思い巡らせてみたものもあれば遊び半分のものもあるけれど、以下は、いわば「空想的贈与論」みたいなものです。


 試みに、ラナイピリ氏の話を三次元的ではなくて、四次元的に考えてみよう。仮におれが娘をもつ身だったとして、娘から何かを得たとする。そして、そこには祖父か母のタオンガ、ないしハウがあったとする。するとおれは、祖父あるいは祖父の娘である母にそれを返さなければならない(母もまた祖父に返さなければならない)。が、「親孝行したいときに親はなし」と言うように、これはうまくいかないケースが昔から多かったらしい。もしおれが返す前に祖父も母も亡くなってしまっていたとしたら、もほや本来の持ち主に返すことのできないハウをおれは一体どうしたらいいのだろう…?

 「子孫のため」「未来の世代のため」と言ったところが説得力のほどはそれほど望めない、土を守る“動機付け”としての作用は期待しがたい、そのように思えてしかたない…けれども、ならば子孫の存在は無視してよいのだろうか…答えに窮してしまう。
 ただ、土の問題は、やはり重い。この重さには、いま生きている自分たちがこれから先ちゃんと食べていけるかどうかといった点はもちろん、子孫とか未来の世代とかの存在があることも1つ、あるような気がする。

 これは、以前書いた『土の文明史』のエントリーからの抜粋である。あの本を読んでて「子孫に負っている義務を忘れてはならない」「将来の世代の利益に大きな問題が起こる」「未来の世代のために繁栄の基礎を保つには」といった警句に、いまの時代、どれほどの意味や効果があるんだろうか?という疑問ないし違和感を抱いたのだった。反面、こうした警句はやっぱり、何かを言い当ててもいるのだろうとも思ったのだった。

 言い当てているというより、言い表しているのかもしれない。人々の内に潜む「贈与の3つの義務」—とりわけ「お返しの義務」—を。(このような「義務」も人の心理に“かたち”を与えたものではないか、という見方はひとまず措く。)

 誰一人として例外なく人は他人に生かされている。ただし、ここに言う他人とは、よく言うように日常生活における友人や家族といった身近な存在というよりは、むしろ死者―これまでに生まれ、死んでいった数え切れない人々のことである。たとえば、食べ物。お米でもパンでもお好み焼きでも、あるいはカップヌードルでも、すべてそうだ。数千年数万年前の人々がいま現在のおれたちのことまで考えて農耕を営み、子に伝えた―とまではちょっと言えないけれど、『栽培植物と農耕の起源』のエントリーにも書いたように、いまある多種多様な食物・作物はすべて、最初からその姿だったわけじゃない。土と先祖たちの汗の賜物であり―以下、「土=自然による贈与」については話が散らかるのでここではひとまず措きます―おれたちは先祖たちの汗と血による贈与を日々受け取っている。

 言い換えると、おれたちは先祖のタオンガ、ないしハウをさまざまなかたちで受領している。

 先に引用したラナイピリ氏の話で注目したい点が2つある。贈与関係が生じるのは一対一のときに限った話ではない、という点(ちなみに贈与契約については、個人単位というより、部族―クラン―といった共同体単位で行なわれるものだという)。第3者・第4者と現れてはじめて生じる場合も多々あるらしい。もう1つ、「タオンガが望ましいものであっても、望ましくないものであっても、それをしまっておくのは正しいとは言えません」という点も押さえて、頭の片隅に置いておきたい。

 もしかしたらそれと知らずに、人は自分の子供をはじめとした次世代や未来の世代に、返却不能に陥った先祖のハウを渡し続けてきたのではないか(以前は「死者」とも贈与関係を結んでいたとはいえ)。一方、ハウは世代を経るごとに増してきたし、増してゆくものだろう―エントロピーが増大するように。後の世代に贈っているのは1人や2人のハウではなく、顔を見たことはなくても血の繋がっている先祖たち、もしくは作物を通して受け取った血の繋がらない先祖たちと、無数のハウであって、とても贈りきれない(返しきれない)。

 「地球のため」という文句をここで思い合わせてみる。あれには「〜のため」という言い回しに含まれる偽善性と説得性がよく出ていると個人的には思う。自然への奉仕や援けと見せかけて、その実、守りたいのは、自分たちが生きることのできる(いまの暮らしを維持できる)地球環境に他ならない。だから、まずもって自分たちのためにやるべき/やらないとマズいことというのが事実のはずだが、反面、こういう奉仕的/義務的な要請に応えようというとき、人は「誰か/何かのためだ」と考えたほうが意欲もでやすいし動きやすくもなるのだと思う。

 「子孫のため」「未来の世代のため」という文句もほぼ同じことかもしれない―半分は字句通りホント、半分はウソではないかと。人は子孫に対して贈与の義務があると同時に、自分たちが自分たちより前の世代から受け取り、しかし果たすことの叶わないハウによる反対給付の義務を、「子孫/未来の世代への贈与」というかたちで仮にでも果たそうとする。自分たちになにか悪い事態が起こってしまう。たとえ返しきれなくても、贈らずには済ませられないと。

 ハウによって人は、親をはじめとした自分より前の人々・世代に恩を感じて、感謝もすれば、あるいは負債感を感じたり、ときに恨み・憎しみといった負の感情を抱いたりもする。一方でまた、「世代間贈与」には厄介払いのような側面もあるため、こうした感情は子孫/未来の世代に対したときには後ろめたさにもなる―あるいは、だからこそ、後世にはできるだけ「望ましいかたち」で贈与を行なおうと人は模索する…その意思が生まれうるのかもしれない。


 とまれ、『贈与論』は、読む前に思っていたよりもずっと現在形にある1冊だった。