翻訳者に惚れ込まれるほど幸福な翻訳書はない

 ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読んだ。( ※ なお、このエントリにはいくつか注が付されているが、注にした意味はとくにない。この小説を読んで無駄にやってみたくなっただけ。)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

 昨年の「第2回Twitter文学賞」の海外部門でトップになったり、「マジックリアリズム(あるいは、ラテンアメリカ文学十八番の独裁者小説)」×「オタク文化」という異色の組み合わせ、あるいは惹句も手伝ったりして、文芸界隈でちょっとした話題を呼んでいた小説である。だから、ガイブン好きの端くれの端くれであるおれの耳にも入ってきたし、わりと気になったし*1、でも読み始めるところまではなかなかいかなかった。その理由はここでは省く。話したいのは、二の足踏んでいたのに、なぜ結果的には読んだのかという点だ。

 都甲幸治には、『新潮』で連載していた書評エッセーを1冊にまとめた『21世紀の世界文学30冊を読む』という本がある。この本で彼は、自身の「世界文学観」に基づいて30冊分紹介しているわけだが(ちなみにそれらは、連載当時は未邦訳のものばかりだったらしい)、そのトップバッターとして『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』が登場する。そのエッセーがアツい。そして彼のこの小説に対する想いは、書き出しにはっきりと表れている―「断言しよう。本書は、読まずに死んだら確実に損をすると言えるほどの傑作である」

 断っておくと、『21世紀の世界文学30冊を読む』の「はじめに」で述べられている都甲幸治の「世界文学観」に、おれはまったく同意できない。しかしその話もここでは関係ないので省く。大切なのは、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』をあれだけ「アツく語った人物」が「そしてこの小説を翻訳した」という事実のほうである。


 翻訳者がその作品にぞっこん惚れ込んでいる。もしその事実が判明したならば、迷うことはもうない。読め。


原作の力は言うまでもないが、並々ならぬ翻訳力に加えて、作品に惚れ抜いた翻訳者の、日本人に作品の魅力を伝えたいという情熱が成せるマジックが明らかに作動している。

 故・米原万里の著作に『打ちのめされるようなすごい本』という書評集がある。上の文句は、この本の第一部「私の読書日記」のうちの一章「翻訳者と作品の幸福な出会い」からの抜粋で、同じ訳者でも、訳者自身がその作品に惚れているかいないかで、翻訳された作品を読んだとき、「圧倒的に受けるインパクトに落差がある」という彼女の実感による一文である。翻訳の上手下手というような、ある程度具体的に話すこともあるいは可能かもしれない技術面や力量とはちがう(だからここでは、原作に忠実とはどういうことか云々、名訳ってどういうのか云々、あるいはクンデラ的な翻訳懐疑など、突っ込んだ議論もまた省く)、もっと漠然とした、でも確実にあるらしい、決定的な作用―それが「情熱が成せるマジック」。*2「情熱」とはつまり、偏愛だ。

 この「マジック」が働いている翻訳本の一例として米原万里が言及していたのはちなみに、以下の3冊だった―「一頁目を開いたが最後、読み切るまで本から離れなくなる傑作。しかも読み終えた後も主人公たちのイメージが心にこびり付き離れない」『コーカサスの金色の雲』はおれも気になっていた(というか彼女の書評を読んで気になっていた)ので、これは読んだことある。

凶犯 (新風舎文庫)

凶犯 (新風舎文庫)

コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)

コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)

時は夜 (現代のロシア文学)

時は夜 (現代のロシア文学)

 さて、米原万里の話を受けて、上記の太字のようにおれは解釈したのだった。そして実践したこともある…ゲーテの『ファウスト』で。

 ふつう1冊につき、翻訳は1種類である。ただ、名作とか古典とか呼ばれるものだと、複数の訳者による複数の翻訳があることも少なくない。『ファウスト』もそうで、手に入りやすいものだけで数えても5、6種類はある。ちょっと悩んだあと、おれがはじめて手を出したのは無難(?)に、高橋義孝訳だった。そして見事にヤケドした。一週間かけて第1部だけはなんとか粘って読んだものの、それ以上読む気力などもはやなく、這ふ這ふの体で退散したのだった。それから1年くらい経ったある日、気まぐれにリベンジしてみようかと意気込み、図書館の棚を眺めていて見つけたのが、小西悟訳。1年前の苦難がウソのように、1日と半日で読み切ってしまった。

ファウスト

ファウスト

 なぜこの訳にしたか。はじめのほうを試し読みしたところ、「あれ、これなら読めるかも…」と思ったのがまずきっかけだった。しかし、この訳書の評判はまったく聞いたことがなかった(というより存在すら知らなかった)し、訳者の名前も聞いたことがなかったし、加えて1年前のヤケドの跡もあるので、「読めそう」くらいではちょっと踏ん切りもつかなかった。この訳を選ぶ「決定打」になったのは、「あとがき」で述べられていた訳者の翻訳した理由と、出版までの経緯を知ったことだった(具体的にどういうことだったかはやや長くなるので気になる方は直に読んでみて下さい)。

 このとき思い出されたのが、米原万里の言う「マジック」だった。それで、じゃあと読んでみたところ、見事に吉と出たのだった。そういう実体験もあったから、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』のときも上述のように、訳者の熱意を知ったことがまた「決定打」になり、迷うことはもうないと読むことにした。*3 その判断は間違ってはいなかった。オスカーの苦渋と情熱と悲恋とそして悲哀を味わうだけでも、一読してみる甲斐はある小説だと思う。


 というわけで、もし翻訳モノで読むかどうか迷っているという場合などには、翻訳者の作品に対する「偏愛」が一つの指標にもなりうる。*4 偏愛ぶりを知る手だてとしては、翻訳者自身がその本の書評でも書いていれば、それを読んでみる。あるいは、翻訳された本の末尾にある「あとがき(訳者あとがき)」を覗いてみるといい(「解説」ではない、注意)。もし「訳さずにはいられなかった」「とにかく多くの人に読んでもらいたかった」というような止むに止まれぬ気持ち、偏愛を読み取れれば、一読してみる価値はきっとある。お試しあれ。

*1:『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』と言えば、マリオ・バルガス=リョサの『チボの狂宴』と強い繋がりがある―ドミニカ共和国を1930年〜1961年の31年間という長期支配した(考えてみれば第2次世界大戦を挟んでの期間だ。つまりあのとき、おれの思う「あの時代」とはまったくの別世界が存在したということになる…)「中南米史上最凶」とも言われる独裁者、ラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリナという人物。半年ほど前に『チボの狂宴』は読んでいた(徹夜本)。そしてディアスはこの『チボの狂宴』をかなり意識していたらしい(というかディアスはリョサに啖呵切ってる)。そういう意味でもまた興味はあった。ガエル・ガルシアマルケスの『族長の秋』もどうやらトルヒーヨがモデルになっているらしい。

*2:この「マジック」はでも、翻訳特有のものでもないだろう。たとえば、同じ人から受け取ったものでも、年賀状とラブレターとでは受け手の得るインパクトがまるでちがうだろうというのとたぶん、ほとんど同じ(あくまで受け手が「読めば」の話だが)。あるいは、ブログなどでいろいろな人の本の感想を読んでいても、その人がその本にどれだけ感銘を受けたかというのは拙い言葉、下手な文章で書かれていても、もしくは言葉にされていなくても、案外わかるものである…というより伝わってくる。自分も読みたくなる。

*3:なんて回りくどくて、優柔不断な奴なんだ…と思う人もいるかもしれない。否定しない。でも「読みたい本」っていうのは腐るほどあるんだ。再読したい本だってある。あるいは1冊読むと芋づる式に読みたい本がまた増える。そしておれは遅読だ。「何を読もうか探しているとき、選んでいるときがまた至福」とかいう人がときどきいるけれど羨ましかったりする。もしくは「読みたい本が読み切れないほどいっぱいあるって幸せなことだよね」とか思う人もいるかもしれないが、そんなふうには遺憾にも素直には思えない…とりあえずいまのところは無理だ(まるでファウスト的絶望ってやつですね)。だから「どれを読もうか」という選択で迷うことよりも、実際には、「その本を読むか、読まないか」という二択で迷うことのほうがおれには多いかもしれない。

*4:ところで、「傑作」という言葉について少し述べておこう。「スゴ本」といった表現もそうだが、こういう言葉が出てきたときにそれを文字通りの意味で受け取るのは実は、ちょっと違うかもしれない。読後の感動や興奮や感銘と、「オススメせずにはいられない」という衝動をあえて言葉にしたとき、思わず「傑作」とか「スゴ本」とかいう言葉が出てくるのではないか。つまり「作品としての評価」というより、「読者としての思い入れ」を表しているととった方がいい。