無題(読書感想メモ)

下りの船

下りの船 (想像力の文学)

下りの船 (想像力の文学)

「歴史は繰り返される」的な物語に気持ちは下ってゆくけれど一方で、読み心地がたまらなく良い。同じフレーズの繰り返しや、いろいろな角度からの、視点からの点描、そこから生まれる静的でいてたしかな動きのあるイメージ、あるいはその重なり…物語そのものも、この小説のもつ「反復」のうちの一つと言えなくはないかもしれない。「ミニマル音楽を読んでいた」とでも言いたくなるような、希有な読書体験だった。

麦の海に沈む果実

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

色と光。あの灰色の世界にあって色彩はむしろ不穏で、不気味さを滲ませてて、というのも何か事が起きる直前には色か光が際立つ。降霊界のロウソクの灯、ワルツでの色彩乱舞、例の赤い本、青いバラのコサージュ…湿原が色づき、空は晴れ間を見せるようになる反面、理瀬の心は不安定になってゆく。そして、灰色の(あるいはそうであるべきだったかもしれない…?)世界がラストで塗り替えられるその様は、水墨画を電飾と絵の具で突如彩色したかのようにグロい。シビれた。

猫のゆりかご

友達に貸しほしいと言われ快諾した…途端、無性に読みたくなり慌てて再読。初読時と印象が違った。やっぱり愉快に読んだものの、しかし今回は痛みとやるせなさに終始つきまとわれて、いささか参った。たとえば、宗教も技術も科学も、それ自体は「悪」でも「害」でも、あるいは「罪」でもない。堕とすのは人間。で、ボコノンは言う「ボコノン教で神聖なもの、人間さ、それだけだ」。悲しすぎる皮肉と優しさ。

スローターハウス5

「そういうものだ」というフレーズが以前に比べて妙に鬱陶しく感じられて正直、げんなりした。が、このトラルファマドール的常套句は、死の度に口にされる。つまりこのフレーズの数は死の数でもあり(ときに人とは限らないが)、この辟易具合はもしかすると…「わたし」の戦争に対する気分に近いのかもしれない。「わたし」は、しかし「そういうものだ」と嘯き続け、決して欠かすことがない(たとえそいつの死が何回目であろうと)。実にトラルファマドール的ではないね…と、読後に気づき、ハッとして胸、抉られた。

ロリータ

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

再読。あのとき売っちゃってなくてよかった。

カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

例えばロビンソンのように、無人島に一人打ち上げられてしまった、そして共に流れ着いたのは聖書ではなく『カラ兄』だった―なんてことがあったとして。もしかするとそれは、恐ろしく不幸なことかもしれない。読まないほうがいいかもしれない。なぜなら、この小説から得られた感動の分だけ突き落とされてしまうかもしれないから。/再読。夢中になっててすっかり忘れていたが、ローズウォーター氏の言。*1 上記の空想を思い起こさせた実感が「人生において知るべきこと」、もしかすると「すべて」でもあるかもしれない。ここが無人島じゃなくて、よかった。

*1:スローターハウス5』のとある場面…
あるときローズウォーターがビリーにおもしろいことをいった。人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこう付け加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。」

翻訳者に惚れ込まれるほど幸福な翻訳書はない

 ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読んだ。( ※ なお、このエントリにはいくつか注が付されているが、注にした意味はとくにない。この小説を読んで無駄にやってみたくなっただけ。)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

 昨年の「第2回Twitter文学賞」の海外部門でトップになったり、「マジックリアリズム(あるいは、ラテンアメリカ文学十八番の独裁者小説)」×「オタク文化」という異色の組み合わせ、あるいは惹句も手伝ったりして、文芸界隈でちょっとした話題を呼んでいた小説である。だから、ガイブン好きの端くれの端くれであるおれの耳にも入ってきたし、わりと気になったし*1、でも読み始めるところまではなかなかいかなかった。その理由はここでは省く。話したいのは、二の足踏んでいたのに、なぜ結果的には読んだのかという点だ。

 都甲幸治には、『新潮』で連載していた書評エッセーを1冊にまとめた『21世紀の世界文学30冊を読む』という本がある。この本で彼は、自身の「世界文学観」に基づいて30冊分紹介しているわけだが(ちなみにそれらは、連載当時は未邦訳のものばかりだったらしい)、そのトップバッターとして『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』が登場する。そのエッセーがアツい。そして彼のこの小説に対する想いは、書き出しにはっきりと表れている―「断言しよう。本書は、読まずに死んだら確実に損をすると言えるほどの傑作である」

 断っておくと、『21世紀の世界文学30冊を読む』の「はじめに」で述べられている都甲幸治の「世界文学観」に、おれはまったく同意できない。しかしその話もここでは関係ないので省く。大切なのは、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』をあれだけ「アツく語った人物」が「そしてこの小説を翻訳した」という事実のほうである。


 翻訳者がその作品にぞっこん惚れ込んでいる。もしその事実が判明したならば、迷うことはもうない。読め。


原作の力は言うまでもないが、並々ならぬ翻訳力に加えて、作品に惚れ抜いた翻訳者の、日本人に作品の魅力を伝えたいという情熱が成せるマジックが明らかに作動している。

 故・米原万里の著作に『打ちのめされるようなすごい本』という書評集がある。上の文句は、この本の第一部「私の読書日記」のうちの一章「翻訳者と作品の幸福な出会い」からの抜粋で、同じ訳者でも、訳者自身がその作品に惚れているかいないかで、翻訳された作品を読んだとき、「圧倒的に受けるインパクトに落差がある」という彼女の実感による一文である。翻訳の上手下手というような、ある程度具体的に話すこともあるいは可能かもしれない技術面や力量とはちがう(だからここでは、原作に忠実とはどういうことか云々、名訳ってどういうのか云々、あるいはクンデラ的な翻訳懐疑など、突っ込んだ議論もまた省く)、もっと漠然とした、でも確実にあるらしい、決定的な作用―それが「情熱が成せるマジック」。*2「情熱」とはつまり、偏愛だ。

 この「マジック」が働いている翻訳本の一例として米原万里が言及していたのはちなみに、以下の3冊だった―「一頁目を開いたが最後、読み切るまで本から離れなくなる傑作。しかも読み終えた後も主人公たちのイメージが心にこびり付き離れない」『コーカサスの金色の雲』はおれも気になっていた(というか彼女の書評を読んで気になっていた)ので、これは読んだことある。

凶犯 (新風舎文庫)

凶犯 (新風舎文庫)

コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)

コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)

時は夜 (現代のロシア文学)

時は夜 (現代のロシア文学)

 さて、米原万里の話を受けて、上記の太字のようにおれは解釈したのだった。そして実践したこともある…ゲーテの『ファウスト』で。

 ふつう1冊につき、翻訳は1種類である。ただ、名作とか古典とか呼ばれるものだと、複数の訳者による複数の翻訳があることも少なくない。『ファウスト』もそうで、手に入りやすいものだけで数えても5、6種類はある。ちょっと悩んだあと、おれがはじめて手を出したのは無難(?)に、高橋義孝訳だった。そして見事にヤケドした。一週間かけて第1部だけはなんとか粘って読んだものの、それ以上読む気力などもはやなく、這ふ這ふの体で退散したのだった。それから1年くらい経ったある日、気まぐれにリベンジしてみようかと意気込み、図書館の棚を眺めていて見つけたのが、小西悟訳。1年前の苦難がウソのように、1日と半日で読み切ってしまった。

ファウスト

ファウスト

 なぜこの訳にしたか。はじめのほうを試し読みしたところ、「あれ、これなら読めるかも…」と思ったのがまずきっかけだった。しかし、この訳書の評判はまったく聞いたことがなかった(というより存在すら知らなかった)し、訳者の名前も聞いたことがなかったし、加えて1年前のヤケドの跡もあるので、「読めそう」くらいではちょっと踏ん切りもつかなかった。この訳を選ぶ「決定打」になったのは、「あとがき」で述べられていた訳者の翻訳した理由と、出版までの経緯を知ったことだった(具体的にどういうことだったかはやや長くなるので気になる方は直に読んでみて下さい)。

 このとき思い出されたのが、米原万里の言う「マジック」だった。それで、じゃあと読んでみたところ、見事に吉と出たのだった。そういう実体験もあったから、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』のときも上述のように、訳者の熱意を知ったことがまた「決定打」になり、迷うことはもうないと読むことにした。*3 その判断は間違ってはいなかった。オスカーの苦渋と情熱と悲恋とそして悲哀を味わうだけでも、一読してみる甲斐はある小説だと思う。


 というわけで、もし翻訳モノで読むかどうか迷っているという場合などには、翻訳者の作品に対する「偏愛」が一つの指標にもなりうる。*4 偏愛ぶりを知る手だてとしては、翻訳者自身がその本の書評でも書いていれば、それを読んでみる。あるいは、翻訳された本の末尾にある「あとがき(訳者あとがき)」を覗いてみるといい(「解説」ではない、注意)。もし「訳さずにはいられなかった」「とにかく多くの人に読んでもらいたかった」というような止むに止まれぬ気持ち、偏愛を読み取れれば、一読してみる価値はきっとある。お試しあれ。

*1:『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』と言えば、マリオ・バルガス=リョサの『チボの狂宴』と強い繋がりがある―ドミニカ共和国を1930年〜1961年の31年間という長期支配した(考えてみれば第2次世界大戦を挟んでの期間だ。つまりあのとき、おれの思う「あの時代」とはまったくの別世界が存在したということになる…)「中南米史上最凶」とも言われる独裁者、ラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリナという人物。半年ほど前に『チボの狂宴』は読んでいた(徹夜本)。そしてディアスはこの『チボの狂宴』をかなり意識していたらしい(というかディアスはリョサに啖呵切ってる)。そういう意味でもまた興味はあった。ガエル・ガルシアマルケスの『族長の秋』もどうやらトルヒーヨがモデルになっているらしい。

*2:この「マジック」はでも、翻訳特有のものでもないだろう。たとえば、同じ人から受け取ったものでも、年賀状とラブレターとでは受け手の得るインパクトがまるでちがうだろうというのとたぶん、ほとんど同じ(あくまで受け手が「読めば」の話だが)。あるいは、ブログなどでいろいろな人の本の感想を読んでいても、その人がその本にどれだけ感銘を受けたかというのは拙い言葉、下手な文章で書かれていても、もしくは言葉にされていなくても、案外わかるものである…というより伝わってくる。自分も読みたくなる。

*3:なんて回りくどくて、優柔不断な奴なんだ…と思う人もいるかもしれない。否定しない。でも「読みたい本」っていうのは腐るほどあるんだ。再読したい本だってある。あるいは1冊読むと芋づる式に読みたい本がまた増える。そしておれは遅読だ。「何を読もうか探しているとき、選んでいるときがまた至福」とかいう人がときどきいるけれど羨ましかったりする。もしくは「読みたい本が読み切れないほどいっぱいあるって幸せなことだよね」とか思う人もいるかもしれないが、そんなふうには遺憾にも素直には思えない…とりあえずいまのところは無理だ(まるでファウスト的絶望ってやつですね)。だから「どれを読もうか」という選択で迷うことよりも、実際には、「その本を読むか、読まないか」という二択で迷うことのほうがおれには多いかもしれない。

*4:ところで、「傑作」という言葉について少し述べておこう。「スゴ本」といった表現もそうだが、こういう言葉が出てきたときにそれを文字通りの意味で受け取るのは実は、ちょっと違うかもしれない。読後の感動や興奮や感銘と、「オススメせずにはいられない」という衝動をあえて言葉にしたとき、思わず「傑作」とか「スゴ本」とかいう言葉が出てくるのではないか。つまり「作品としての評価」というより、「読者としての思い入れ」を表しているととった方がいい。

第9回:『渋滞学』西成活裕

 
 渋滞は、でもやっぱり巻き込まれたくはないね。

渋滞学 (新潮選書)

渋滞学 (新潮選書)

 渋滞と言うとふつう車のそれを指すけれど、世の中にはいろいろな「渋滞」がある。大勢の人が一時に同じサイトにアクセスしたりケータイで電話をするとパケットや電波が輻輳、つまり「渋滞」してとても繋がりにくくなる。心不全によって心臓の動きが悪くなると血液がうまく流れず「渋滞」を起こして、放っておくと鬱血してしまうし、血管内部にコレステロールが溜まって径が細くなると酸素を運ぶ赤血球が通りづらくなり「渋滞」が起こる。死蔵と言えるような貯金はマネーフロー的には「渋滞」。頭や心も「渋滞」と呼べる状態があるかもしれない。

 渋滞という現象はいわゆる「複雑系」である。複雑系は、様々な要素が多重に入り混じって組み合わさって、それで起こる物理過程が複雑すぎるので、要素一つひとつの働きや効果はわかっていても、未来/結果を予知できない。つまりこれまで科学発展の源だった要素還元主義的なアプローチをそのまま適用することができない。また、渋滞学的に言うと、そもそも要素であるところの人や車の動き、生物の個体といった「自己駆動粒子(非ニュートン粒子)」は、水の粒子やボール、惑星といった「ニュートン粒子」と呼べるものとはちがって力学の3つの基本原理―「慣性の法則」「作用・反作用の法則」「運動の法則」で説明すること適わない。「複雑系」て、見方によっては昔の錬金術とか占星術みたいな側面がもしかしたらあるかもしれない。

 だが、自動駆動粒子も過密状態・密集状態にあるとき、意思や心理といった個々別々の作用が限定されてそのふるまいはニュートン粒子のようになる。ここが目の付け所であり、とっかかりである。

 物理学を基(もと)に据えつつも経済学や社会心理学、生物学、工学etc.と、積極的に分野横断して他分野の知見や方法を援用しながら、渋滞という、ありふれているが漠然とした現象をあらためて見てゆくのは地味に楽しい。関係ないと思われた要素が繋がり、ときに何かが浮かびあがってくるという「鳥の眼」的新鮮さもあれば、「セル・オートマトン」というモデル検証によって納得も得られ、渋滞と聞くと好ましくない印象があるものの、アリの行進や森林火災には「渋滞」がむしろ望ましいとわかってはそこに価値の転倒する瞬間があって小気味いい。あるいは防災という実際的な意味で言うと、第3章「人の渋滞」―この章だけ読んでもタメになるはずだし…ここが一番おもしろかったとも言える。

 たとえば、飛行機に乗っていて事故発生。非常口から避難しなければならないという状況に直面したとき、我先に逃げる「競争」と、焦る気持ちを抑えての「譲歩・協力」と、どちらが適当なのか?という話。なんとなく後者のような気もするが、イギリスで行われた小型飛行機の脱出実験によるとこれ、ケースバイケースらしい。実験から得られた「全員が逃げ切るまでの時間」を見てみると、ドア幅が人間の肩幅よりやや広い約70cm以上だと、競争したほうが早い。それより狭いと譲歩協力したほうが早い。

 ていうかパニック状態になってしまえば、扉の幅なんて関係ないよ、競争しちゃうよね…? と、そこでまた興味深いのが、避難口付近にわざと障碍物を置くと、避難時間が短くなる場合があるという逆説的な話。そして、避難時間が最も短くなるのは障害物の位置が避難口の真正面にあるときではなくて、“ちょっと横にズラして”置いた場合だったという(ただし、位置によっては避難時間を長くしてしまう場合もある)。この辺の原因はよくわかっていないらしいが、「アーチアクション」という、アーチ状に架かる橋などに使われている原理と同じことが人の肩なんかで起こるかどうかがポイントだったりするよう。

 どうアプローチしていいのか見当がつかないとか、複雑系のようなこれという方法がすっかり確立したとは言い難い対象と向き合うとき、手当たり次第、分野横断的なスタンスになったりすることにはある程度必然性があるように思う。で、『渋滞学』という本は実はちょっとおれっぽい本でもあるので、身につまされる部分があったというか…。物事には良い面もあれば悪い面もある。先に述べたように本書は分野横断によるおもしろさがよく味わえるし、一読すればきっと渋滞を見る目が確実に変わるけれど、反面、個人的には多分に「雑学的なおもしろさ」でもあったような気がしないでもない*1。読後、物足りなかったというよりも、知的快感まではまだ得られなかったという感じ。

 第6章「渋滞学のこれから」では、「理解する」ということに関して著者・西成氏の見解が述べられている。複雑系の科学についてはよく「複雑なものを複雑なままに理解する」と言われるが、果たしてそれは可能なのだろうか…? 曰く、「要素還元できないならば、人間は永遠に理解できないのだと思う」―この点もたぶん無関係ではなくて、ゆっくり考えてゆこうと思う。


 ……そういえば!

 『渋滞学』が指定されたときにまず真っ先に思い出された小説があった。『南部高速道路』というコルタサルの短編。

 コルタサルの小説は、読書とかセーターを着るとか、カメラを手に散歩に出かけるとか、ありふれた行為や出来事から、知らぬ間に、現実が裏返る。そして『南部高速道路』の場合が高速道路での渋滞。だがこの渋滞、ただの渋滞ではないのである…。読後感もまた堪らない一品。


*1:ただし章末にある渋滞学講義は未読である旨。

第8回:『東インド会社とアジアの海』羽田正

 緯(よこいと)で立ち上がる世界史―あるいは歴史叙述とか「グローバル社会」とか。

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

 唐突だが、400年前の日本列島にはまだ「日本」はなかった—と言うとちょっと不思議な感じもするけれど、当時の日本列島は江戸幕府成立直後、しかし同じ日本列島であっても北海道にも沖縄にも江戸幕府の手はまだ届いていなかった。たとえばそういう意味で、現在の「日本」と当時の「日本」は必ずしも一致するわけじゃない。

 17世紀初頭の世界地図を眺めてみると、「日本」だけでなく「アメリカ合衆国」も、「中華人民共和国」も、「ロシア連邦」も「大韓民国」もなかった。というよりその実、どこを見てもいまある「国家」は1つもなかったし、国と呼べるものはあっても国境はしばしば曖昧だった。技術的な面で言えば、電気や自動車はもちろん、鉄道もまだない。当時地球上で一番速い乗り物は、馬だった。現代とは様相を異にする17世紀の世界は、あるいは各地がバラバラに時を刻んでいたかのようにも見えるかもしれない。

 しかし、人の移動や商品の流通という観点から見てみると、ごく一部を除き世界の大部分はこの時点ですでに1つにつながっていたらしい。その様子を窺えるものとして日本史的な例で探してみると…この頃に支倉常長伊達政宗使節として太平洋横断、アカプルコ(現在のメキシコ)経由でローマ教皇に謁見しているし、天正遣欧少年使節団の派遣は常長より30年ほど前の話である。岩美銀山(因幡銀山ー現在の鳥取県)の産する銀は海を越えて、貿易の商品ないし媒介となって広範囲に行き交っていた。

 数年ぶりに再読した。本書はタイトルにあるように、アジアの海を舞台に活動した東インド会社の興亡を通して世界全体の歴史を描いてゆく、あるいは「人とモノのつながりに注目して世界の過去を眺める」ことを試みた意欲作である(ちなみに東インド会社は一つではなく、またここに言う「アジアの海」とは西は紅海・アラビア海からインド洋、東は東シナ海あたりまでを指します)。時は17世紀〜18世紀、北西ヨーロッパで東インド会社が設立された頃から、この会社が歴史的使命を終えて解散してゆくまでのおよそ200年間。

 人の移動と商品の流通によってアフリカや新大陸も含めた世界全体が緊密につながるようになって、人類が地球規模でほぼ一体化したのは16世紀になってからのこと、17世紀にはすでに一体化していたのだという…この「一体化」を指して「グローバル化」と言えなくはないというか、ざっくり言うと、そういう意味では17世紀初頭と現在に違いはないとも思える。でも、17世紀と21世紀の間にはやっぱり根本的に違うところがある…この問は転じて「グローバル化、ないしグルーバル社会とは何か」と考えてみることもできるかもしれない。

 そして、 こうした問に答えるためには、従来のようにひとつの国や地域の歴史を辿ってみても十分ではないと著者の羽田氏は説く。「世界全体を一つと見なしてその歴史をまとめて振り返らなくてはならない」…語弊を恐れずに言えば、要は「従来の世界史を書き換える」と言っているのである。同じく羽田氏による1年前に出た『新しい世界史へ』(以下、『新世界史へ』)を読んでいたこともあって、今回はこの「歴史叙述」という面も個人的には読みどころで、興味深く読んだ。

新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)

新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)

 ところで…歴史叙述なんて用語を使うとやや堅い印象を受ける人もいるかもしれないけれど、個人的には必ずしもそうではないと思っているので、参考程度に、おれ自身がこの点に興味のある理由を端的に2つ3つ述べておきます―まず単純に、もともと歴史が好きだから。一方で、いままでのような国別・地域別、もしくは時系列的な歴史に物足りなさや不満を少なからず感じてきたから(そして本書は、この物足りなさにかなり応えてくれた1冊でもある)。

 いま1つは、歴史叙述とは「(現在に過去を)語り伝える方法」の1つだと捉え直してみれば、それはごく身近な話にもつながるようにも思うから。たとえば「ブログを書く」という行為。言葉や文字によって何を、誰に、いかに伝るか、どのように語るか―歴史叙述云々とはそういう話でもあると思う。


 閑話休題。著者は17〜18世紀の世界を多方面から活写してゆくと同時に、ときに「歴史的常識」にメスを入れてゆく。『新世界史へ』で言及されていた点で言えば、「関係性と相関性の重視」や「中心史観からの脱却」といった志向は本書執筆時点ですでに意識されていたことがよく窺えるし、「新しい世界史」にとくに有用な方法として挙げられていた「環境史」「モノの世界史」「海域世界」の3つのうち、後者2つが本書には同居している。これらに+αで、とある人物の行動や生涯、必要に応じて時代を一旦遡るといういわば「前代史」等々と方途は雑多かつ多岐に亘っていて、また舞台回しの役を演じるのは東インド会社であるから、ひいては会社史の要素も多分にある—会社史を軸に据えたことは慧眼!

 たぶん、会社史はそう遠くない将来大きな意味を持つようになる分野だと思う。経営は隠遁できない。社会や世相、時代…嫌でも世の中と向かい合っていなければならない。会社史にはだからこそ―とくにその会社の活動域が広いor「境界」を股にかけたものだと―人物史・各国史と、モノの歴史との中間的な形式というか、合の子的なおもしろさが出てくるように思う。もしくは、伝記よりも旅行記・見聞録の性格にちかいとも言える。旅行記を読む際に旅人その人のことを知らなくても支障がなかったりするように、会社史もその会社にとくべつ関心や興味をもっていなかったとしても意外に楽しめたりする。例を挙げると、ast15さんが去年の「今年読んでよかった本」の一つに挙げていらした『思想としての「無印良品」』がその好例。これもまたとても興味深い1冊です(以下、『思想無印』)。

思想としての「無印良品」? 時代と消費と日本と?

思想としての「無印良品」? 時代と消費と日本と?

 この本は1980年にセゾンのPV(プライベートブランド)として始まった無印良品の沿革を、経営面ではなくて、企業理念や商品に共通するコンセプトなどに見られる思想面から捉え直した報告書(というのは出版を前提に執筆したわけではないようなので)。設立時「実はカウンターカルチャーだった」無印良品はどのように時代に対応してきたのか、もしくは逆に、社会に対してどのような働きかけをしてきたのかといったことを、思想と、設立当時からおよそ30年間における日本の社会・世相とのあいだを行ったり来たりしなが検討してゆく―この「行ったり来たり」という運動が大事。

 『東インド会社とアジアの海』の場合は、東インド会社よりも“アジアの海”のほうに力点がある。とはいえ、『思想無印』と同様に両者のあいだを往復することで、東インド会社がリトマス紙のような働きを得て「アジアの海」を描き出すのにいい活躍を見せる―たとえば、おれたち日本人は出島に出入りしていた当時のオランダ人たち(東インド会社の社員たち)に対して比較的好意的な印象を持っているか、少なくとも悪者だとは思っていない。一方、インドネシア人にとっては同じオランダ人が悪者・敵となる。実際、かつてオランダ東インド会社の拠点になっていたバタヴィアは、出島が観光地的に整備されているのとは対照的に現在はスラムにちかい有様でうっちゃられているという。どうしてオランダ人に対してこうも印象が違うのだろうか。あるいは裏を返して、どうしてオランダ人たちは場所によって異なる態度・行動を取ったのだろうか。

 「何より利益を優先すべし」という社の方針に照らしてみると、この点では実は、オランダ人たちが一貫していたことがわかってくる。「金儲け」のためにも、彼らの態度や行動は自ずと場所によって変わってきた。つまり、そこに当時の日本列島とインドネシア諸島部の様子を透かし見ることもできる。そして、そこにもう一歩、踏み込んでみると、「陸の帝国の論理」というものもまた垣間見えてくる。

 「陸の帝国」とは、当時の3大帝国―ムガル帝国サファヴィー朝ペルシャオスマン・トルコーをはじめとしたインド洋沿岸を支配していた王朝たちのことで、その論理は「領地ではなく、人を支配する」ことにあったという。これらの帝国・支配者たちは、税をきちんと納めさえすれば、たとえ「外国」からやって来た商人だろうが、港での彼らの活動にとりたてて関心を示さなかったらしい。また治安が安定して貿易も盛んになり、ひいては税収も安定するといったように判断すれば港の統治権や徴税権を自ら与えたりもした。政治面でも、ムガル帝国ではイラン系をはじめインド亜大陸以外からやって来た人物が重要なポストに就くことが珍しくはなかったし、シャム(現在のタイ)にあったアユタヤ朝では山田長政が相当なポストを得ていたりした。

 つまり、「陸の帝国」の論理には、自国民/外国人というような「内と外の区別」はほとんどなく、宗教やエスニシティーが問われることもとくになかったらしい。そのため、インド洋海域はいわば「経済の海」であり、一種の自由貿易地帯だった。一方で同じ「アジアの海」でも、明・清の海禁や江戸幕府の「鎖国/四つの口」に窺えるように、東シナ海沿岸では「陸の帝国」とは異なり海を含めた領域支配、ないし「内と外の区別」をつける論理でもって支配するのがふつうだった。東シナ海は「政治の海」だった。少し遡って室町幕府勘合貿易と、ポルトガル東インド会社の始めたカルタスとが似た発想であることを思い合わせてみたりすれば、北西ヨーロッパと東シナ海沿岸は地理的には遠く離れていても、同じ「海の帝国の論理」の支配する世界だったと言うこともできる。

 この「陸の帝国」の論理というやつは、はじめて読んだときにもとくに印象的な点だった。高校の世界史で「強者と弱者の論理」で説明されて違和感というか不可解さの残っていたオスマン帝国のカピチュレーションはもしや、こちらの論理に依るところが大きかったんじゃないだろうか…なんて思ったりした覚えがある。また、後々の歴史を鑑みるととりわけ興味をそそられる点でもあって、近現代史的には「陸の帝国」は「海の帝国」の後塵を拝すような格好になっていったけれど、現在はと言えば、いわば「海の帝国」だった国々・人々がある種「陸の帝国」化を目指しているようにも見える…つまり、在り方というか論理としては、どちらかと言えば「陸の帝国」のほうが「グルーバル社会」と呼ばれる現代に適したスタンスのように思えたりもする。で、ところでじゃあ、そもそもグルーバル化、ないし「グルーバル社会」って何だろう?という疑問が今回はしばしば脳裏を過る。


 白状しますと、おれは「グローバル化(グローバリゼーション)」ということをいままであまり深く考えたことがなかった。で、直訳が「地球規模化」であることに引き摺られてか、空間的、いや平面的な意味で捉えていたように思う―「国境が意味を成さなくなってゆく」とか、「一つの空間にいろいろな国の人々・人種、モノ、文化が混じり合う」というような「異種混淆」ほどの意味のみで受け止めていた節があって、しかしこれは、グローバル化というよりも「国際化(インターナショナリゼーション)」である。国際化もたしかに「グローバル社会」の一側面ではあるだろうが、決定的な要素でもないかもしれない。国際化がそのままグローバル化ということになるなら17世紀の世界も立派な「グローバル社会」だと言えなくはない。

 もしくは、情報化。これは「情報の氾濫」とか「データベース化」ほどの意味だとしての話だが、国際化と同じように「グローバル社会」の特徴であるだろうと同時に、本書を読んでいるとこの点もやっぱり、決定的ではないように思う。国際化にしても情報化にしても、あと「他人との繋がり方云々」なども、梅干しを見たから唾液が分泌された、みたいな、作用ではなく反応というか、「二次的に意味を増した現象」という感じがする…もっと、こう、「グローバル社会」たらしめている決定的な要素が何かあるんじゃないか。

 市場原理はどうだろう…この装置が世の中に定着していったのはちょうど『東インド会社とアジアの海』で扱われている200年のあいだのことらしい。というのは『入門経済思想史 世俗の思想家たち』によると、経済は昔からあったが、「経済学」という学問、「経済学者」という人種は「市場システム」が定着することではじめて出現したものであり、アダム・スミス以前には存在しなかったのだという―ちなみに、この本はなむさんにオススメしていただいたものです。これがまた、すこぶるおもしろい。

入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫)

入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫)

 人類は何世紀もの間、実務の世界が政治的・社会的・宗教的生活と渾然一体となっていた世界にあって「伝統(慣習)」と「命令(権力の鞭)」という2つの方法によって社会を運営してきた。そして、歴史的にはごく最近になって、3番目の方法―市場システムという方法が発見された。市場システムがゆっくりと、しかし着実に定着してゆくなか、「利得」という概念もまた根付いてゆき、「経済人」が生まれくる。しかし問題だったのは、市場システムが伝統や命令よりもはるかに優れた方法/装置であることは感覚的にわかる反面、その実態も、先行きも実はよくわからないことだった…

 ざっくり言うとこういう次第で、そこに登場したのが「経済学者」たちだったのだという―18世紀の話。アダム・スミスをはじめ彼らは、それぞれに、まずもって「経済思想(ヴィジョン)」を打ち出してきた。そしてその「ヴィジョン」は人々の意識や行動に、政治家や軍人の言動よりもはるかに決定的な影響を及ぼしてきたのだという。 では、彼らの「ヴィジョン」とはどんなものだったのだろうか…? というわけでこの本は、何人かの偉人的経済学者たちに焦点を当てて、彼らの人生や当時の社会的背景を織り交ぜながらこれを解き明かしてゆく。

 アダム・スミスが『国富論』を出版したのは1776年―ちょうど東インド会社がその歴史的使命を終えようとしていた頃である。また、「グローバリゼーション」という言葉が一般により膾炙したのは1991年のソビエト崩壊以後らしい…つまり市場主義経済がいよいよ地球規模で席巻!という頃。市場原理の存在は400年前の世界と現代とで大きく異なる点かもしれない。


 ところで、話を少し戻します。先に触れた『思想無印』では、「百貨店と動物園と万博は出自が同じ」という話が印象的だった。『鉄道旅行の歴史』という本によれば、蒸気機関車の発明と実用化が人々の知覚を激的に変えたのだという―冒頭で軽く触れたように、17世紀初頭はもちろん19世紀初頭まで、一番速い乗り物は馬だった。蒸気機関車によって「風景が飛ぶように流れてゆく」スピードで移動するようになると、馬のときとは違って、近くの一点に視点を止めていられない(そんなことしたら目が回る、酔う)。このとき人々は、景色を「パノラマ的に」見るようになった。そうした空間の捉え方がたとえば購買意識にも影響して、それまでは専門店を1つ1つ回るのがふつうだったところに、あらゆる商品が1カ所に集められ一望させる百貨店が生まれ、そしてヒットした。動物園も万博も「広範囲に散らばっているものを1カ所に集めて一望させる」という同じ原理によるものであり、この3つがほぼ同時期に生まれたのは決して偶然ではないのだという。

 試みに、この「空間の再編成」について敷衍させてみれば、冷戦時の宇宙開発競争において有人宇宙飛行が実現した結果「地球を外から目にした」ことも―この場合は“実体験”したのはごく一部の人間とはいえ―人々の空間意識を激的に「再編成」したのかもしれない。もしくは「深海を除けば、地球上に人跡未踏の地は残されていない」という認識。いずれにしても、現代は「地球」という単位が意味をもつようになった時代と言えるかもしれない。
 
 空間ときたら、時間も考えておきたくなる。で、実は『思想無印』を読んだとき、蒸気機関車がもたらした作用で見逃せないと思った点がある。移動速度の変化、つまり「時間の短縮」だ。『東インド会社とアジアの海』を読みながらピンときたのもむしろこっちだった。19世紀当時の「空間の再編成」にしても「時間の短縮」によって引き起こされた事態だろうし、ごく一般人の感覚的にもこの「時間の短縮」のほうがより実感としてわかるものだと思う。

 東インド会社の活動域は、たしかに広大だった。けれども同時に、ヨーロッパからインド亜大陸あたりまでは片道およそ8ヶ月、順調に行っても往復で2年前後…そのくらいの時間は費やさなければならなかった。しかるに、蒸気機関車登場以降「科学の世紀」と呼ばれる20世紀を通して自動車や飛行機などが発明、実用化されてゆくに伴って、移動速度はさらにぐんぐん増していった。その度に「時間の短縮」が起こってきたはずである。

 そして、思えば、電話普及以後の世界はそれ以前とは違って「乗り物の速度を超えて情報が伝播し、行き交う」世界になったのか…と、今更ながら気づく。そしてネットが普及した現在における、たったいま地球の裏側で起きたばかりのことをごくごく普通の人が数秒後・数分後には知り得るという、この速度。この高速さについて冷静に考えてみても実は言うほど驚きを覚えないという事実。むしろ、ネット注文した商品が翌日か2日後ではなくもう少し経ってから届いたときなんかに「ちょっと遅いな」と感じてしまうこの感覚。
 
 現代社会という意味での「グルーバル社会」を根っこで規定しているもの、あるいは17世紀の世界との根本的な違いは、地球という単位と、(市場原理とインターネットによる?)時間の変質ー「圧縮された時間」かもしれない。そんなことを思った。


これはフィクション、つまり… 『ファニーゲーム』

 嫌らしい映画だ。観客に良心的であるところがまた、嫌らしい。

 「ゲーム」は、夏の休暇を過ごすために別荘にやってきたある家族と、隣家にいる2人の青年とのあいだで展開してゆく…と言い条、一方的にゲームに参加させられ、そして一方的に嬲られてゆくショーバー一家にとってこのゲームは神も仏もない無慈悲な現実に他ならない。まずなんと言っても、「卵」に始まり「ゴルフクラブ」に至るまでの青年たちの一連の言動…これがまこと、不愉快極まりない!はじめのうちは「図々しい奴だな(笑)」「いやいや、なんだこいつの態度は(笑)」と内心笑う余裕もあったものの、次第に「そろそろ、いい加減にしとけ」「張り倒してやろうか」と思わず口出ししたくなるほどに観る側の不快指数は高まってゆく。

 だから、妻アンナ(スザンヌ・ロタール)の堪忍袋の緒が切れたときは共感し、夫ゲオルク(ウルリッヒ・ミューエ)が彼らに一喝して、2人のうち“ひょろい”ほうのパウル(アルノ・フリッシュ)に平手打ちを喰らわせたときには内心スカッとする…が、同時に、この平手打ちは青年2人にとってはゲーム開始の合図であった(というよりゲオルグに合図“させた”わけだが)。次の瞬間、ゲオルグはふいに、“ぽっちゃり”のほうペーター(フランク・ギーリング)に「仕返し」としてゴルフクラブで脚を殴りつけられてしまう…ここから先、観客の救いや希望を期待する/求める気持ちは、終盤に至る頃にはもはや諦念である。

 ハネケの映画を観たのはこれがはじめてだった。『白いリボン』が気になっているもののなんとなく二の足を踏んでいる、そんな折り、「ぼく、この映画好きなんですよ」と後輩にオススメされたのがこの映画だった。監督のミヒャエル・ハネケはカンヌの常連のようで(2009年には『白いリボン』でパルムドールを受賞した)、『ファニーゲーム』もこの映画祭に出品された。その際、ヴィム・ヴェンダーズはその凄惨さに耐えかねて途中で席を立ったという—このエピソードが本当か否かはやぶさかではないが、ありえなくはないなと思わせるものがあるのはたしか。『ベルリン 天使の都』を撮った人間からすればショッキングな映画だったかもしれない。

 この映画の嫌らしさはまず、その凄惨さにまつわるものだ。凄惨さそのものより、凄惨さが現れるまでの展開が、実に嫌らしい。端的に言うと、観客が「そうはなってほしくない」と半ば無意識に望んでいたり、あるいは「まあ、言ってもそうはならないんでしょ?」と高を括っていたりするところの、その“そう”が、その都度、場面場面できちんと出来するのである。暴力的なシーンは一切ない(映されない)ものの、展開に容赦はない。

 そして、この映画のポイントはメタフィクションだということ。ゲームメーカーは“ひょろい”パウル。こいつが、観客に向かってウィンクしてきたり、話しかけてきたりと、「この話はフィクションだよ」と随所で意識させてくる。彼は「明日の朝まで君たちが生きていられるか賭けをしないか?」とゲーム序盤で提案してくるが、これはショーバー一家に持ち掛けている一方で、カメラ目線からして明らかに観客への誘いでもある。

 もっともメタフィクションっぷりの現れるのが、リモコン。パウルはある場面で、自分の望んでいなかった展開(言い換えると、ありがちな展開)が起きた瞬間、慌ててリモコンを探す。テレビのリモコンを見つけると急いでボタンを押して、すると…なんたること!映画が巻き戻って、その場面をやり直すのだ(おいおい)。このユーモア、白ける人も中にはいるかもしれないけれど、メタフィクションであることを知らされているので決して反則技ではない。

 ところで、映画通の観客、ないし批評家にとっても公開当時、この映画はなかなか食わせ物だったのではないかと思えたりもする。たとえば―伊坂幸太郎が好きな人は聞いたことがあるかもしれない―「映画の法則」に、「冒頭で出てきた銃はラストで必ず放たれる」といったのがある。『ファニーゲーム』でも、ゲーム開始直前にショーバー父子がヨットから別荘に向かう際、彼らの足元がアップで映され、ナイフが船底に落ちる様子がしっかり撮られている。

 あるいは、画面のベクトルの向き。ざっくり言うと、話の流れが「良い方向」に進んでいるようなときは画面が右に動いてゆき(正のベクトル)、反対に「まずい方向」に向かっているときは左に流れてゆく(負のベクトル)―というような「お約束」が映画にはあるらしい(「映画の抱えるお約束事」参照)。西部劇の一騎打ちの場面では「正義のガンマンは左側に立ち、悪党は右側に立つ」というのを耳にしたこともあるけれど、これも同じお約束のうちだろう(ちなみに、邦画やアニメではこのお約束が逆になるらしい→「日本映画?ガラパゴス?」参照)

 で、この伝でゆくと、ショーバー一家は「正」に向かっていたはずなのだ。なぜなら、わかりやすいところで言うと冒頭、ゲオルグの運転するショーバー一家の車は常に「右に進んでいた」から。たとえばこの点と、船底に落ちたナイフとを思い合わせてみると…登場人物たちは再びこのヨットに戻ってくるだろう、そして、ゲームの様子を観ている側としては「あのナイフがきっと、この一家に逆転をもたらすんじゃないか」と予想(期待?)できたりもするわけ。

 …しかし!まあ、そうはハネケは卸さない。「右」と「左」の意味が実は逆転していること、ナイフが(きちんと再登場はしたが)とくにこれと言って用を成さなかったこと。気づけば素人目にもわかる、しかし目の肥えた観客に対しても目配りの利いたこの構成や演出の嫌らしさよ。

 極めつけはラスト、パウルがさらりと言ってのける一言である。ヨット上で“ぽっちゃり”ペーターが口にしたスペースオペラの話を受けて、パウルは言う。「虚構とはこの映画のことだ」そして—(ネタバレ?注意/枠内反転表示)—

虚構は現実だろ

 「現実は小説より奇なり」と言ったのは司馬遼太郎だったか。もしくは「現実は映画(つまりフィクション)のようにはいかない」と言ったりもする。ともかく、そうした言に反してこの映画は、妙にリアルというか、「所詮、ただの作りものじゃん」と突き放すには躊躇させる不気味な説得力がある。それから、この一言で「これはフィクションだ」と彼が随所で意識させていた意図が腑に落ちた反面、「これはフィクションだ」とはそのまま「そういうこと」だったのかと思うと、なんか悔しい(悔しいので「嫌らしい」と押し通した)。

 ところで、メタフィクションは受け手に対して「物語に浸らせない」ところがあって、もしくは風刺とはまたちがう批評性がそこにはある。要は、頭を使う。そのため「小難しい」とか「面倒くさい」とか思って嫌厭する人も少なくないのではないかとも思える。そういう意味で、この映画、メタフィクション以外の方法で作ることはできなかったのか…?と鑑賞後にちょっと思った。

 けだし、ハネケはたぶん、エンタメするためにこそ、メタフィクションという形式を選んだのかもしれない。というのはこの映画、内容の性質上、メタフィクションではない方法で素直に作ろうとすると、哲学的なモノローグや抽象的なダイアローグで展開するような、それこそ観客を突き放すような映画になったかもしれない(というか…いまふと気づいてびっくりしたことに、つまりメタフィクションって、あくまで「楽しむ」ことを眼目に置いた手法だと言えたりするのか)。ただし、メタフィクションにも先述したような「面倒くささ」等はたしかにあって、ハネケはこの点もきちんと考慮した。だからこそ「ゲーム」、それも間接参加型なのだ。

 仮にこの推測が正しいとして、つまり観客に良心的であるためにこのような「ゲーム」という形になったのだとして、しかるに、そのうえで「ファニー」と形容したのだとすれば…やっぱり、嫌らしいよハネケ(ツンデレか)。うん、この映画は『白いリボン』を観るうえでいい予行演習になったかもしれない。

 というか、この映画を好きだと宣うた彼奴はなんて悪趣味なんだ(笑)



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彼女は“選んだ” 『別離』

 ペルシャ語と聞いて、どこで話されている言語かパッと答えられる人はどのくらいいるだろうか。

 ラテン語のように学名や特定の場でのみ使用されるとか、古語のように読めなくはないが「現役」とも言えないものでもなければ、アイヌ語のように話者が数えるほどしか残っていないレッドリストにある言語でもない。おれたちが日常で日本語を話すように、世界のどこかで日常で、ごくふつうに話されている言語だ。世界史の古代オリエント史と現代の地図を重ねれば見当がつけられるはず―

 答えは、イラン。ちなみにペルシャ語で使われる文字は、アラビア文字である。 

 ペルシャ語とは逆に、この国についてよく知られていることと言えば、イスラム教の国家だということだろう。イスラム教と聞くと「全然ちがう価値観」とか、もしかしたら「閉鎖的」「排他的」、わるいと一方的に「原理主義(過激)」「自爆テロ」といったイメージがどうしても先立ってしまいがちかもしれない(あるいは、この国が日本人にとって馴染みのある国だとはお世辞にも言えないのは、以下に並べる人名の表記がばらつきがあることにも窺えるかもしれない)。正直に言うと、宗教として信頼できるのはどっち?と仮に訊かれたらキリスト教よりイスラム教だと答えるおれにもやっぱり、いま述べたようなイメージが半ば刷り込まれているようなのは否定できず、だから、“意外に”という言葉は使うべきではないかもしれないと思いつつも使ってしまうのだけど・・・意外にも、イランは、映画が盛んな国らしい。

 もっとも有名なのはたぶん、アッバス・キアロスタミという監督の名前か、その代表作で97年にパルムドールを獲った『桜桃の味』かもしれない(この監督の最新作は日本が舞台で、加瀬亮が出演しているらしい)。ここ20・30年というものイラン映画は彼を皮切りに元気があるようで、最近だと『亀も空を飛ぶ』のバフマン・ゴバディや『彼女が消えた浜辺』のアスガー・ファルハディといった若手がシカゴやベルリンで注目されたり、話題になったりしたらしい。TSUTAYAの「発掘良品」には『運動靴と赤い金魚』(マジッド・マジディ)という90年代のイラン映画があったりする。そう、イラン映画って実は、なかなかに存在感があるようなのだ。日本語版Wikipedeiaにさえ「イランの映画」という項目がちゃんとあることには驚いた。

 ところで、この気づきがあったのは近頃、イランの存在感が自分のなかで密かに増してきていたからだろうと思う。おれはいま「イラン」という言葉に反応しやすい(先日大きな地震があったことはもちろん知っている)。これは、ひょんなことから顔と名前が一致したタレントをテレビや中刷り広告でやたら目にするようになるのと同じで、きっと、最近になってペルシャ語を専攻している娘(こ)が身近に現れたからだろう。そして、その娘が教えてくれたのが先にちらっと名前の出た、アスガー・ファルハディ監督の『別離』だった。

 この映画はすごい。

別離 [DVD]

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 ※以下、ラストに触れます。


 おれが観た『別離』には3つの顔があった。1つ目はまずもって観てそのまま、人間ドラマとしての『別離』だ。
 
 『情婦』という名作を観たことはあるでしょうか。『情婦』がエンタメに徹し抜いた法廷映画だと言えるならば、『別離』はドキュメンタリータッチないしリアリズムに徹した『情婦』だとあるいは言えるかもしれない。

 物語は、一人娘の教育環境を考えて海外移住したい妻シミン(レイラ・ハタミ)と、アルツハイマー型の認知症を患っている父親(アリ=アスガル・シャーバズィ)の存在もあってその案にためらいを見せる夫ナデル(ペイマン・モアディ)の離婚騒動から始まる。日本で言う簡易裁判所と思われるところに行くも折り合いをつけれず、シミンは実家に戻ってしまい、代わりにラジエー(サレー・バヤト)が父親の介護も含む家政婦としてナデルに雇われる。ラジエーは失職中の夫ホジャット(シャハブ・ホセイニ)には言わずにこの仕事に就いたという。

 なんて言うと、ナデルとラジエーが男女の仲になってしまうんじゃないの、とつい安易な邪推をしたくなるものだがそうはならない。むしろホジャットがそういう邪推をするためなのか、彼が反対するのはわかりきったらしく、しかし働きに出ないと生活できないため、彼女は口にできないまま仕事に就いた。また、イスラム教の国とは言っても信仰心の深さはやっぱり人それぞれのようで、シミンとナデルの夫婦はそれほど信心深いわけではないようである一方、ラジエーは敬虔なムスリムである。この2組の夫婦のあいだで、ラジエーの「無断外出」をきっかけに告訴・逆告訴と、周囲の人も巻き込まれながら、お互いがお互いに解決の糸口の見当たらないどうしよもない状況にまで追い込まれてゆく。

 2組の夫婦というシンプルな構図と、法廷という場をうまく利用することで無駄を削ぎ落としたシンプルな展開でもって描かれるこの人間ドラマはしかし、120分間のあいだ中だるみすることなく張り詰めゆく緊迫感が半端ない。練りこまれた脚本と演出力、それと忘れてはならないのが役者一人一人の演技力によって、気がつけば片時も目が離せなくなっている―と書いてこれは矛盾した表現かなと思ったので、ここで触れておくと、「目が離せなくなっていた」ことに「気づく」瞬間があるのだ。

 観た人はそれがどの場面のことなのか、言われればわかるはず。冒頭から徐々に、いわばべき乗に緊迫してゆく展開にあって笑いが入る余地などずっとなかったところに、ふっと、笑わせてくれる一場面があるのだ(この笑いはその一瞬から一拍遅れて観客に訪れる)―あのユーモアのさりげなさとその絶妙なタイミングにはちょっとした感動さえ覚えた。甘いものにちょびっと塩を混ぜると甘みが引き立つ感じ(甘くないけど)。思えば、あのときに肩の力をいい具合に抜かれていたからこそ、その後もラストまで「目を離せずにいる」ことができたのだろう。

 2組の夫婦をそのときどきで追い込んでゆくのは、善意の小さなウソや秘密である。つまり「嘘も方便」「言わぬが仏」の類のウソや秘密だったりするのだが、これが実際にはことごとく裏目に出てしまうので観ていてやりきれない。だから「ああ・・・気持ちはわかるものの、でももう、正直であったほうがいいんじゃ・・・」とため息も漏れるが、渦中に1人、そういう観客の気持ちをある意味体現してくれているような人物がいることに気づく―ホジャットだ。彼は、ウソもつかなければ秘密もない正直者である。なぜなら、短気だから。というか正しくは、短気ゆえにウソもつけないし秘密ももてない男である。そんな彼の言動や振る舞いも事態をややこしくしてゆく様子を見ていると、正直であればいいということでもないのだと思い直す。

 一方で、シミンとナデルの娘テルメー(サリナ・ファルハディ)は作中ずっと、両親が別れることなくまた揃って暮らしたいと願い、かつそのためにできる限りの行動もしていたけれど結局、最後には両親の離婚が認められてしまう。そして、「母と父、どちらに付いてゆくか」という決断を迫られることになる。曰く「決まっています。でも、両親の前では言いたくありません」―訴訟騒ぎのなかで大人たちの葛藤や苦悩を見続け、また両親の知られざる一面も知ることになったテルメーは、どちらを選んだのか・・・?


 ※以下、ネタばれ注意

 ところで、この映画はたぶん、同胞(イラン人)に観てもらうこと以上に「外国で観られる(外国人に観られる)」ことを意識して作られた作品ではないだろうかと思う。これが、2つ目の『別離』。

 たしかに、とりわけラジエーの存在がイランならではの色合いを出していて、また彼女の信仰心の篤さがのちにじわじわ効いてくることもあって『別離』は、普遍的な人間ドラマでありながらも、イラン人だからこそ作れた映画と言えるのかもしれない。ならではだなと印象的だったのは、たとえば、ナデルの父が失禁してしまった際に宗教上の理由から着替えの手伝いにラジエーひとり躊躇し、困った末にテレフォンサービスで教えを請うというという場面だ。イランやイスラム教の戒律(とそのサービス)に馴染みのないおれとしてはちょっとした驚きだった。しかしこの場面、よく考えてみると、目新しさと自然な流れのためにはじめはそれほど気に留めていなかったものの、イラン人が観ることを念頭にしていた場合、あの丁寧な描写はむしろイラン人の目にはちょっと説明的に映るのではないか・・・という気がしないでもない。

 アスガー・ファルハディは前作『彼女の消えた浜辺』でベルリン映画祭の銀熊賞を受賞して話題になったらしい。世界三大映画祭で評価されたという事実はとりもなおさず、次回作(つまり『別離』)が諸外国から注目されるということにもなるから、このことからも製作時に「外からの目」にかなり意識的だったのではないかなと思う。また、もう1つ、「外からの目」に意識的だったと思わせる点があって、具体的にどの場面がそうだと示すことはできないものの・・・印象として、全体にエキゾチックとかエスニックとか呼ばれる“異国情緒”ができる限り削ぎ落とされているような気がしたのである。

 これはオルハン・パムク(トルコの作家)の『わたしの名は赤』に通じるものがある。

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)

この小説は、16世紀のオスマン帝国は冬のイスタンブルを舞台にした細密画(ミニアチュール)の画家たちの物語で、たとえば、署名という行為1つ採ってもおれたちとはまったくちがう価値観・捉え方から生じる葛藤や議論、陰謀が起こってゆく。そのちがいはすごく興味深い。しかしパムクは、エキゾチズムやエスニックさを利用したり頼ったり、その感覚に訴えるような描き方はしていないのだ(彼は“異国情緒”を避けるために翻訳者の付ける訳注にもチェックを入れているという)。簡単に言うと、観光に似た気持ちでこの小説に手を出した場合、肩透かしを食らったとガッカリする人も出てくるかもしれない。これは『別離』にも言えることだと思う。

 ファルハディとパムクは国も違えば、年齢にも開きがあるけれど、イスラム圏の人という点では共通している。そういえば、いつだったかのアラブの現代アートが採りあげられていた新聞記事でも「エキゾチズムの排された作品が目立つ」というような記述があった覚えもある・・・イスラム圏(ないしアラブないし中東)の人達はあるいは暗に、しかしはっきりと表明しているのかもしれない―「(非イスラム圏・非アラブ・非中東の人々は)ステレオタイプな色眼鏡を一旦はずすべきだ」というふうに。

 エキゾチズムやエスニックさを一概にわるいものだとは言えないと思う。ただ、「異国情緒」を感じるということは見方を変えれば、その対象を無意識に「異物」と捉えているといういことでもあるのではないか。「異物」は、ひとたび関係がこじれるとほとんど一方的に「悪者」扱いされてしまいがちかもしれない―このエントリーの冒頭で「“意外に”という言葉は使うべきではないかもしれないと思いつつも―」などともってまわった言い方をしてしまったのは、この点が頭の片隅にあったからだった。

 せっかくだからこのあたり、積読山に刺さっているサイードの『オリエンタリズム』とか羽田正の『イスラーム世界の創造』あたりを読みながらぼちぼち考えてゆこうかと思う。

 
 さておき、3つ目は、「選択」をめぐる『別離』である―マクロな視点で離れかけた注意を再び作品に戻す。

 斜に構えた見方かもしれないけれど、例の「ナデルの父が助かった一方で、ラジエーは流産してしまった」という事実は皮肉っぽいというか、言い換えると「新しい世代を犠牲にして老人を助けた」と見えなくはないというか。シミンとナデルを離婚に追い込んだ対立もこの図に象徴されているかもしれない・・・もう少し中立に努めてれば、「新しい世代」と「老人」という図式は、「グローバル化」と「ローカルもしくは伝統」と読み替えられる、というより「変化するもの(テルミーは思春期)」と「変化しないもの(ナデルの父はアルツハイマー認知症)」というふうな見方もできるのではないかと。

 2人ともテルメーを想う気持ちは本物であって、そこに差はない。あるいはナデルの父に対しても、ナデルは言うまでもなく、離婚してでも海外に移住しようとするシミンにしても決して邪魔者扱いしているわけではない様子が窺えるので、ここにも取り立てるほどの差はないように思う。ちがいは、「テルメーとナデルの父、どちらかを選らばなくてはならなくなったとき、どちらを選ぶか」という極端な問いを突きつけられたときに現れるのものだ―そして問題は、「シミンとナデルの父、どちらを選ぶのか」ではなく、「選べるか、選べないか」にある。シミンはテルメーを“選ぶ(選べる)”、ナデルは、どちらとも“選べない”。これは2人のテルミーへの態度にも出ていて、シミンは「付いて来なさい」と強引さを見せもするが、一方でナデルは「父さんはこう思っているが・・・決めるのはお前だ」と幾度か口にする。

 思うに、彼女を英語教師にしたのはテキトーな設定ではない。英語を記号的に捉えてみれば(というのは「英語ができれば国際人」みたいな話ではないということ)、他の人物の意識がイラン国内に留まっている感があるなか、「世界のなかの一国」としてイランを見るマクロな視点をもった、いわば半歩だけイランの外に出ている人物として彼女はいるように思える。そうした視点から、娘のためにもこの土地に留まってはいられないと、何かを捨てざるをないと思うに至ったのだとすれば、それは「世の中の変化を受け入れる」側に彼女がいるという解釈もできなくはない。ただし、海外に移住したあとテルメーがその土地に馴染めるとは限らないし、いわゆるアイデンティティーの危機に直面する可能性なんかもある。

 反対に、まずラジエーが敬虔なムスリムであることを思い合わせてみると、彼女は「不変のほうを重んじる」側の人間だとあるいは言えるかもしれない(その意味で彼女がナデルの父を助けたのは必然的だった)。そして、彼女とのあいだに2組の夫婦の対立の発端を切ってしまったナデルはと言うと、先に述べたように「どちらとも選べない」からこそ、この場合、仮にラジエーに起こったのと同じ状況が彼に降りかかったとすれば、目の前の父のことで頭がいっぱいになってしまって実はラジエーと同様に、父は助けられても、子供は“犠牲”になるかもしれない。

 シミンが“選ぶ”ことのできるのは、自分に選択させられるだけの「外」から得た判断材料をいくらかもっているからかもしれず、ナデルが“選べない”のは、決断できるだけのそれが足りない、もしくはそこに心もとなさを感じているからかもしれない。「どちらが正しいかわからない(あるいは吉と出るかわからない)」「しかし選択しなければならない」という事態は日本で生活していてももちろん起こるのであって―ここで、あえて実際的な意味でのフィクションの効能を挙げれば、「現実の予行練習」になるというのがある。観客を引き込み“体感させる”この映画はその点でも優れていると思う。

 逆に、フィクションが「現実の予行練習」になるからこそ、独裁政権や管理主義的な政府は、たとえば「革命」というフィクションが現実化されることを恐れて検閲を敷くのではないかと思う・・・イスラム原理主義体制化にある現在のイランにも検閲はある。いま述べてきた解釈と、(どういう具合か具体的にはわからない。「アラブの春」を受けて強権化したと小耳に挟んだけれど)制約のあるなかで製作されたということを思い合わせてみると、シミンとナデルの軋轢はいまイランが抱ているジレンマを遠まわしに表現したものでもあるかもしれない―「“外”を知った者はこの地に留まることができない(許されない)」一方で、「“外”を知ることのできない市民は袋小路に押し込められている」みたいな。いや・・・だとするとシミンにしても、選んだというより、選ぶ余地のないなかでの「選択とも言えない選択」(つまり“選べない”)だったと言えなくもない。


 さておき、3つの『別離』のいずれにしても、この映画のラストである「テルメーの選択」に集約されるというか、おそらくはじめに感じた以上に、あのラストは意味の込められたものかもしれない。

 
 おしまいに1つ。ラジエーが盗んだと疑われたあのお金は、どこへ行ったのだろう・・・?

第7回:『エンジン・サマー』ジョン・クロウリー

 
 このお話には<空の都市>と呼ばれる空中庭園が出てくる― 

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)

 ―のだけど、どうしても「天空の城」のイメージになってまうなあとちょっと困っていたら唐突に「ラピュタ」なる名が出てきてびっくりした。ウィキッてみれば、もともとは『ガリバー旅行記』に「空飛ぶ島・ラピュータ」が出てくるのであって(ちなみにこの島は太平洋沖に浮いていると思われる)、宮崎駿もここから名前だけ借用した―と知って2度驚いた。

 今回はast15さんふうに。 


もし野島一成が『エンジン・サマー』を読んだら

 FFXになる。『エンジン・サマー』で描かれている数千年先の未来の姿は、スピラだ。

ファイナルファンタジーX

ファイナルファンタジーX

 文明が滅びた原因とされるものは違う。『エンジン・サマー』には魔法も人獣も召喚獣も出てこない。ゲームのほうは広い意味でのセカイ系、小説のほうはあるいはビルディングス・ロマンふう、という具合に作中の色合いも異なる。しかし両作とも、かつて存在したハイテク文明の記憶がほとんど神話化された、そんな数千年後の世界。
 
 『エンジン・サマー』は遠未来モノだけど、思えば、「文明が滅んでも、世界が終わるわけじゃない」という志向(?)は最近の日本のサブカルにあっては珍しいものじゃないかもしれない。『AKIRA』をはじめ、たとえば『ヱヴァ』も、すでに伝説化されている伊藤計劃の小説も、「終末後」の未来が舞台になってる。でも同時に、その未来は近未来であることが多いようにも思う。『時をかける少女』や『STEINS;GATE』にいたってはいわばカッコつきの「現代」だ。

 近未来(もしくは「現代」)が多いのは気のせいだろうか、知らないだけかな?などと思いつつ(『進撃の巨人』が遠未来モノか。巨人の正体は過去に人間が造り出した大量殺戮兵器だろうから、ハイテク文明期の記憶がゾンビになって付き纏ってるようなものかも)、まあともかく、おれの周辺視野のうちではどうやら近未来モノが多い、というのもあったのかもしれない。FFXをプレイした当時、スピラというあの世界観におれは夢中になったものだった。ティーダが、切なかった。

 遠未来ならではのおもしろさだなあと『エンジン・サマー』を読んでいて思ったのは、物。すなわち、おれたちからすれば何の変哲もない物が全然ちがう使い方をされていたり、発明した人たちも知らなかった機能を発見していたり、特別な意味を帯びていたりする様子だ(それが一体何なのかわからないモノもあったけども)。象徴的なのが、クロスワードパズル。たしかにあのパズルをまったく知らない人があれを見て、加えて言葉による謎解きだとわかれば(というのは、大英博物館で一番人気の展示物はロゼッタストーン―つまり文字モノだ―らしい)ここには何か深遠な意味ないしメッセージが隠されているのではないか?と、<まばたき>でなくても深読みしたくなる人は少なくないだろうと思う。

 というかきっと、おれたちも歴史や神話を見るときに同じことをしているにちがいないと思う。まさに悲喜劇。


叙情派SF

 2012年6月5日、レイ・ブラッドベリが亡くなった。雑誌では特集が組まれ、書店でも図書館でも彼の著作の並ぶ特設コーナーがよく見うけられた。

 実はつい最近まで、ブラッドベリをおれは読んだことがなかった。過去のSF作品に手を出す際に個人的に障壁になるものの1つに、「未来像の旧(ふる)さ」―やや乱暴な言い方をすれば「時代遅れの未来像」がある。彼の代表作『火星年代記』がまた、タイトルからして典型的で、あらすじからも「50年以上前に書かれた火星を舞台にしたSF」であることが窺われる。こういう旧さは、一旦読み始めれば案外気にならないものだと経験上わかってはいるものの、なかなかどうして、食指が伸びずに、勢いほかの作品も1つも読まずにきていた。

 ところが先日、萩尾望都の惹句に釣られて短篇集を1冊、購入してみた。そして、最初の1篇目を一読してみたところ…吐息が漏れました。

ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)

ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)

 SFと一口に言っても、ほかのジャンルと同様、SFもかなり拡散しているので、なにがSFかは人によっていろいろだろうと思う。SFは言っても齧った程度、というおれとしては、「これぞSF!(SFの王道・本格SF)」と呼ぶようなイメージがあるとすればそれは、ディックとかギブスンとかイーガンみたいな、いわゆるハードSFとかサイバーパンクとか呼ばれる類かもしれない。たぶん、だからだろう、ヴォネガットをはじめて読んだとき、SFというよりは「SFっぽい」という感じのガジェットやテクニカルタームの使い方が逆に新鮮に感じられた。ヴォネガットブラッドベリのSFは、SFがジャンルとしてあるというよりも、触媒として使われているというような印象を受けたりする。

 ブラッドベリのようなSFを世に叙情派SFと呼ぶらしい。感触的には、叙情派SF幻想小説とかファンタジーにジャンル分けされていてもとくに違和感はない。思うに、SFというジャンル内には3つか4つの極または方向性があるような気がする―たとえば、ひとつは科学/サイエンス、ひとつは幻想(怪奇)/ファンタジーあるいはファンタスム、みたいな感じ(超現実/シュールレアリスムというのもあったり)。「SFの王道」は振り子がサイエンスのほうにほぼ振り切られているようなSFであるのに対して、自分の気質に馴染みやすいのはどちらかと言えば、ファンタジーに振り子が振られているようなSFらしい。ブラッドベリは後者だった。

 『エンジン・サマー』も後者だった。その読み心地にはブラッドベリに通じる叙情感がある。というか「第一のクリスタル・第七の切子面」にいたっては、まるでブラッドベリの短篇にあるような情景だった。


<灯心草>のパラドックス(?)

 主人公の「真実の語り手」である少年<灯心草>は、聖人になることを目指して、善財童子よろしく<絵具の赤>や<まばたき>、<ドクターブーツのリスト>、<腹収者>等々といろいろな人のもとに赴きあるいは出会い、<ワンス・ア・デイ>との関係もそこには絡まりながら、聖人が聖人である所以や、「真実の語り」と「明るいと暗い」の本質を学んでゆく。最終的に<灯心草>は<空の都市>に辿り着く。

 彼らのあいだでときどきに交わされる問答(語るか語らないか、どのように語るのか等々)はたぶん、ネット社会になったいまにあっては、執筆当時に比べてより一人ひとりに身近な意味を持つようになっているような気がするし、個人的にも興味深かった。訳者の言を借りれば「ファンタジーとしての雰囲気」も十分に楽しめた。名作と呼ばれるだけはある良い小説だとは思う。

 けれども、正直なことを言えば、読後にやや物足りなさ(もしかしたら違和感)が残ったのも事実。数十年前に書かれた小説にこんなこと言うのはちょっと理不尽…というか見当違いかもしれないけれど、内容がより身近なものになったその分だけ、逆に、<灯心草>の正体が明かされるあの最終章が本来もっていたはずのオープンエンドとしての効果(衝撃と切なさ、もしくは余韻)は薄くなったのではないか…という気がしないでもなかった。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 あるいは数十年後のいまの感覚(科学観?)であの<灯心草>を描くと、『ハーモニー』の霧慧トァン、ないし彼女を物語るあの文体/形式になるかもしれない。