これはフィクション、つまり… 『ファニーゲーム』

 嫌らしい映画だ。観客に良心的であるところがまた、嫌らしい。

 「ゲーム」は、夏の休暇を過ごすために別荘にやってきたある家族と、隣家にいる2人の青年とのあいだで展開してゆく…と言い条、一方的にゲームに参加させられ、そして一方的に嬲られてゆくショーバー一家にとってこのゲームは神も仏もない無慈悲な現実に他ならない。まずなんと言っても、「卵」に始まり「ゴルフクラブ」に至るまでの青年たちの一連の言動…これがまこと、不愉快極まりない!はじめのうちは「図々しい奴だな(笑)」「いやいや、なんだこいつの態度は(笑)」と内心笑う余裕もあったものの、次第に「そろそろ、いい加減にしとけ」「張り倒してやろうか」と思わず口出ししたくなるほどに観る側の不快指数は高まってゆく。

 だから、妻アンナ(スザンヌ・ロタール)の堪忍袋の緒が切れたときは共感し、夫ゲオルク(ウルリッヒ・ミューエ)が彼らに一喝して、2人のうち“ひょろい”ほうのパウル(アルノ・フリッシュ)に平手打ちを喰らわせたときには内心スカッとする…が、同時に、この平手打ちは青年2人にとってはゲーム開始の合図であった(というよりゲオルグに合図“させた”わけだが)。次の瞬間、ゲオルグはふいに、“ぽっちゃり”のほうペーター(フランク・ギーリング)に「仕返し」としてゴルフクラブで脚を殴りつけられてしまう…ここから先、観客の救いや希望を期待する/求める気持ちは、終盤に至る頃にはもはや諦念である。

 ハネケの映画を観たのはこれがはじめてだった。『白いリボン』が気になっているもののなんとなく二の足を踏んでいる、そんな折り、「ぼく、この映画好きなんですよ」と後輩にオススメされたのがこの映画だった。監督のミヒャエル・ハネケはカンヌの常連のようで(2009年には『白いリボン』でパルムドールを受賞した)、『ファニーゲーム』もこの映画祭に出品された。その際、ヴィム・ヴェンダーズはその凄惨さに耐えかねて途中で席を立ったという—このエピソードが本当か否かはやぶさかではないが、ありえなくはないなと思わせるものがあるのはたしか。『ベルリン 天使の都』を撮った人間からすればショッキングな映画だったかもしれない。

 この映画の嫌らしさはまず、その凄惨さにまつわるものだ。凄惨さそのものより、凄惨さが現れるまでの展開が、実に嫌らしい。端的に言うと、観客が「そうはなってほしくない」と半ば無意識に望んでいたり、あるいは「まあ、言ってもそうはならないんでしょ?」と高を括っていたりするところの、その“そう”が、その都度、場面場面できちんと出来するのである。暴力的なシーンは一切ない(映されない)ものの、展開に容赦はない。

 そして、この映画のポイントはメタフィクションだということ。ゲームメーカーは“ひょろい”パウル。こいつが、観客に向かってウィンクしてきたり、話しかけてきたりと、「この話はフィクションだよ」と随所で意識させてくる。彼は「明日の朝まで君たちが生きていられるか賭けをしないか?」とゲーム序盤で提案してくるが、これはショーバー一家に持ち掛けている一方で、カメラ目線からして明らかに観客への誘いでもある。

 もっともメタフィクションっぷりの現れるのが、リモコン。パウルはある場面で、自分の望んでいなかった展開(言い換えると、ありがちな展開)が起きた瞬間、慌ててリモコンを探す。テレビのリモコンを見つけると急いでボタンを押して、すると…なんたること!映画が巻き戻って、その場面をやり直すのだ(おいおい)。このユーモア、白ける人も中にはいるかもしれないけれど、メタフィクションであることを知らされているので決して反則技ではない。

 ところで、映画通の観客、ないし批評家にとっても公開当時、この映画はなかなか食わせ物だったのではないかと思えたりもする。たとえば―伊坂幸太郎が好きな人は聞いたことがあるかもしれない―「映画の法則」に、「冒頭で出てきた銃はラストで必ず放たれる」といったのがある。『ファニーゲーム』でも、ゲーム開始直前にショーバー父子がヨットから別荘に向かう際、彼らの足元がアップで映され、ナイフが船底に落ちる様子がしっかり撮られている。

 あるいは、画面のベクトルの向き。ざっくり言うと、話の流れが「良い方向」に進んでいるようなときは画面が右に動いてゆき(正のベクトル)、反対に「まずい方向」に向かっているときは左に流れてゆく(負のベクトル)―というような「お約束」が映画にはあるらしい(「映画の抱えるお約束事」参照)。西部劇の一騎打ちの場面では「正義のガンマンは左側に立ち、悪党は右側に立つ」というのを耳にしたこともあるけれど、これも同じお約束のうちだろう(ちなみに、邦画やアニメではこのお約束が逆になるらしい→「日本映画?ガラパゴス?」参照)

 で、この伝でゆくと、ショーバー一家は「正」に向かっていたはずなのだ。なぜなら、わかりやすいところで言うと冒頭、ゲオルグの運転するショーバー一家の車は常に「右に進んでいた」から。たとえばこの点と、船底に落ちたナイフとを思い合わせてみると…登場人物たちは再びこのヨットに戻ってくるだろう、そして、ゲームの様子を観ている側としては「あのナイフがきっと、この一家に逆転をもたらすんじゃないか」と予想(期待?)できたりもするわけ。

 …しかし!まあ、そうはハネケは卸さない。「右」と「左」の意味が実は逆転していること、ナイフが(きちんと再登場はしたが)とくにこれと言って用を成さなかったこと。気づけば素人目にもわかる、しかし目の肥えた観客に対しても目配りの利いたこの構成や演出の嫌らしさよ。

 極めつけはラスト、パウルがさらりと言ってのける一言である。ヨット上で“ぽっちゃり”ペーターが口にしたスペースオペラの話を受けて、パウルは言う。「虚構とはこの映画のことだ」そして—(ネタバレ?注意/枠内反転表示)—

虚構は現実だろ

 「現実は小説より奇なり」と言ったのは司馬遼太郎だったか。もしくは「現実は映画(つまりフィクション)のようにはいかない」と言ったりもする。ともかく、そうした言に反してこの映画は、妙にリアルというか、「所詮、ただの作りものじゃん」と突き放すには躊躇させる不気味な説得力がある。それから、この一言で「これはフィクションだ」と彼が随所で意識させていた意図が腑に落ちた反面、「これはフィクションだ」とはそのまま「そういうこと」だったのかと思うと、なんか悔しい(悔しいので「嫌らしい」と押し通した)。

 ところで、メタフィクションは受け手に対して「物語に浸らせない」ところがあって、もしくは風刺とはまたちがう批評性がそこにはある。要は、頭を使う。そのため「小難しい」とか「面倒くさい」とか思って嫌厭する人も少なくないのではないかとも思える。そういう意味で、この映画、メタフィクション以外の方法で作ることはできなかったのか…?と鑑賞後にちょっと思った。

 けだし、ハネケはたぶん、エンタメするためにこそ、メタフィクションという形式を選んだのかもしれない。というのはこの映画、内容の性質上、メタフィクションではない方法で素直に作ろうとすると、哲学的なモノローグや抽象的なダイアローグで展開するような、それこそ観客を突き放すような映画になったかもしれない(というか…いまふと気づいてびっくりしたことに、つまりメタフィクションって、あくまで「楽しむ」ことを眼目に置いた手法だと言えたりするのか)。ただし、メタフィクションにも先述したような「面倒くささ」等はたしかにあって、ハネケはこの点もきちんと考慮した。だからこそ「ゲーム」、それも間接参加型なのだ。

 仮にこの推測が正しいとして、つまり観客に良心的であるためにこのような「ゲーム」という形になったのだとして、しかるに、そのうえで「ファニー」と形容したのだとすれば…やっぱり、嫌らしいよハネケ(ツンデレか)。うん、この映画は『白いリボン』を観るうえでいい予行演習になったかもしれない。

 というか、この映画を好きだと宣うた彼奴はなんて悪趣味なんだ(笑)



ファニーゲーム [DVD]

ファニーゲーム [DVD]