サンフンという影画―ハン姉弟という可能性と、その模索 『息もできない』

 「希望」と聞くと、ふつうは明るいイメージ。もしくは、軽やかな予感。でもこの映画で示された希望は、重い。直視するのに困難さを伴う希望だったと言える。


 ネプチューン原田泰造がテレビ番組「しゃべくり007」で嬉しそうに紹介しているのを見たことで、この映画の存在を知った。本作はヤン・イクチュンの映画監督デビュー作らしい。韓国映画である。

 「冬ソナ」的偏見に囚われいていたおれは、2年ほど前にナ・ホンジンの『チェイサー』を観たのをきっかけに韓国映画にも手を出せるようになった。韓流にまったく興味を示していなかったはずの大学1年の妹は、気がつくと「SHINeeかっこよす!」とかはしゃぎながらMステで録画しておいた「JULIETTE」を繰り返しくりかえし再生したりする。おかげでこの曲がおれの脳内にもこびりついてしまった。今なら余裕で歌える。

 たぶんこういう傾向は世間的にも言えることだろうと思うのだけど、今となってはわざわざ口にするのが野暮な感じもするほど、日本では韓国エンタメの活きがよいらしい。韓流ドラマ、K−POP、韓国映画…文芸誌『新潮』でも日中韓の作家たちが集って何かやっていたし、なんというか、「台頭」というより、「日常にあることが普通」になりつつある気がする。

 この「台頭」具合は国内のエンタメ事情に限ったことではないらしく、政治的経済的社会的にも、世界的に存在感が増しているようである。欧米の映画なんかを観てもそれが反映されている気がする。作中に力(影響力)のあるらしいアジア系企業や、その重役が出てきたりするとき、30〜40年前だと日本だったけれど、今は韓国か中国である。たとえばダンカン・ジョーンズの『月に囚われた男』。主人公のサムを雇い、月エネルギー産業を独占しているらしいルナ産業はどうやら、韓国系起業のようだった。あとおもしろいのは、それが日本だったときは出てくる人物が大抵おやじだったのに、韓国や中国になると若者になっているところ。

 この「韓流ブーム」は、たしかにブームにすぎないと思うから、そのうち下火になってゆくだろうと思う。が、過ぎ去った後に雲散霧消する表面的なブームでもないように思う。先に「普通になりつつある」と書いたように、ブームの後もこの影響は端々に残ってゆくのではないかなと。だから、というわけでもないけれど、「韓国もの」に関してなんとなく手を出せずにいる・まだノータッチみたいな人は、1つや2つ、何かに手を出してみるのもよいかと思う。

 たぶん、その方がのちのちも何かと楽しめるのではないかなと。映画で言えば、先の『チェイサー』や、ポン・ジュノ殺人の追憶』『グエムル』、キム・ギドク春夏秋冬そして春』『サマリア』、キム・ジウン『グッド・バッド・ウィアード』等々、「韓国産≒恋愛もの、もしくは政治色(歴史色)」というありがちな先入観を壊してくれる良作がいろいろとある。ここで採りあげる『息もできない』もそんな作品の1つであり、とりわけこの作品で描かれているものは、今の日本にも親和性があるように思う。


 「ネタばれあり」のところまでは紹介交じりにおれの解釈を述べます。そこまではサンフンが軸になっています。けれど本題は「ネタばれ以降」で、そこではヨニとヨンジュの話になっています。

 この映画で描かれているものを一言で説明すれば、「擬似家族ができるまで」である。そして模索していたものは「擬似家族を経たハン・ヨニとその弟ヨンジェのその先」だろうと思う。


 主人公のキム・サンフン(ヤン・イクチュン)は30代くらいのチンピラであり、容赦なく人を殴る。給料を渡された際に、お札ではなく小切手だったために薄くなっていた給料の入った封筒を見て「なんでこんな少ねんだよ」と、社長であり友人でもあるマンシク(チョン・マンシク)に文句を垂れ、マンシクに「ちゃんと中身見てみろよ。それがお前の悪い癖だ」と言われる。こんな調子で、仕事中も敵味方見境なく殴る蹴る。

 サンフンは少年時に起きた事件を自分の中でうまく処理できずに生きている。父(パク・チョンスン)のDVが嵩じた結果、母と姉を失った。父は殺人罪で15年間刑務所生活を送って、今は出所してひっそりと過ごしており、自分が犯した過ちを悔い、息子に対して申し訳なさを抱き続けているようでもある。サンフンはこの父のところにたまに顔を出したかと思えば、とにかく痛めつける。父は抵抗せず一方的に殴られる。

 こうした背景をもつサンフンの置かれていた心理的な状況は、いま思うと、イントロでしっかり描かれていた。冒頭、夜の路上、ヤンキーな兄ちゃんがその彼女らしいギャルを殴っている。ギャルは威勢良く罵声を放っているものの一方的に殴られている。それを遠めに取り巻く数人の人々。2人に近づいてきて兄ちゃんを殴り倒し、蹴飛ばし続けるサンフン。その後、「殴られてばっかでいいのかよ、アバズレが」と言うと、呆然として静かになっていたギャルに唾を吐きかけ、頬を幾度もはたく。

 このカップルは、過去の両親の姿に重ねられているのだろう。大人になったサンフンは父の姿と重なる兄ちゃんに圧倒的な制裁を与え、やられ一方だった母と重なるギャルにも同情を見せない。そんなところからサンフンの「暴力」は、一度暴力を否定したうえで一周して戻ってきた、そういう「暴力」であるらしいと窺える。

 また、このイントロは手ぶれ効果と人物をアップにして表現しているのだけど、サンフンが兄ちゃんを蹴飛ばしているのを上方から捉えてその場全体を映すカットが、一瞬だけ挿入されている。このカットによって彼らがT字路にいたことがわかる。カップルは線と線が交わるところにいて、サンフンはTの字の縦線から現れてきた。彼に殴られた兄ちゃんは左折した側に、ギャルは右折した側に倒れた。つまりこれは、サンフンは人生のT字路の突き当たりに立っていて、岐路にある、もしくはどっちにも行けずにいる、という比喩表現かなと思った。

 ロケーション的なことについてもう1つ書くと、サンフンが小学校低学年くらいの甥ヒョンイン(キム・ヒス)をいつも待ち伏せている駄菓子屋は、長い坂道の途中にある。サンフンのことを気にかけている腹違いの姉さんとヒョンインの家はその坂道の上にあるが、サンフンはその家までは行きたがらないよう。鍵は渡されているが、そこまで行こうとはせず、いつも駄菓子屋でヒョンインを待つ。これについてはまた後でもう少し触れる。

 話を戻して、イントロ。そのT字路のシーンがどう終わるかといえば、サンフンがギャルをはたいた後にタバコを吸おうと口にくわえ、火を点けようとした次の瞬間、何者かに今度はサンフンが蹴り飛ばされる。そこで題名がバンと出て、場面が切り替わり、イントロの場面はそれっきり。サンフンを蹴飛ばした奴も誰だか明かされない。個人的には、蹴り飛ばしたのは監督ではないかと思った(サンフン役の俳優と監督は同一人物だから、自分で自分を殴った図)。

 作中、サンフンが新人のファンギュ(ユン・スンフン)を連れて借金の取立てに回っていたとき、ちょうどDVの現場に出くわす場面がある。ファンギュにその場で泣き喚いていた子供2人を外に出させ、サンフンはその夫を殴打するわけだが、そのとき、夫に向かってこんなことを口にする。

人を殴る野郎は自分は殴られないと思ってる。でも痛い目に遭う日が来る。そのサイテーの日が今日で、殴るのもサイテーの奴だ。

 つまりイントロで、両親を暴力で征服できるようになったサンフンに、監督は「痛い目」を一発お見舞いしておいた。サンフンは自分を「サイテーな奴」だと自覚しており、しかし実は、サンフンにとって「サイテーの日」は別のときに訪れることになる。


 坂道の話に移ると、ヒョンインと別れた後に坂道を下っている途中、サンフンはおもむろに唾を吐く。その唾が女子高生のヨニ(キム・コッピ)のネクタイに命中する。ヨニは「ちょっと」「どうにかしてよ」と喧嘩腰に呼び止める―これがサンフンとヨニの出会いである。そしてラストまで観て、本当の主人公はこのヨニであり、その弟ヨンジュの2人―ハン姉弟だと思った。

 サンフンはこのとき、ヤクザのように食ってかかっきて自分の頬をはたいてきたヨニを、思わずグーで殴ってしまう。ちなみにサンフンは女を殴るときは、イントロ同様このとき以外、グーで殴ることはなかった。一度気を失ったヨニは相変わらずどっちがチンピラかわからない態度でサンフンに慰謝料まで請求してくる。で、2人は坂道を一緒に下っていくのである。「坂道を下る」とは、要するにサンフンにとっては「行き詰っている現実」であり、話が進むとヒョンイン宅にサンフンがヨニと一緒に行く場面があるけれど、サンフンにとって、ヨニはこの「坂道」を一緒に上り下りしてくれる存在になってゆく…ということだろうと思った。

 ところで、話がわき道に逸れるけれど、韓国の住宅事情ってどんな感じなのだろう。日本だと「〇〇が丘」という名の土地に住むことは、少し前まで一種のステータスみたいになっていたらしい。それはヨーロッパの金持ちが丘の上に住む傾向があって、低地だと伝染病も流行りやすかったという理由もあったためらしいが、日本はステータス面だけ見た格好でそうなっていったとどこかで聞いたか読んだ憶えがある。

 しかし南米なんかだと事情が違っていて、たとえばボリビアの首都ラパスの全景写真を見るとわかるように、もともと標高が高いから、むしろ金持ちの住宅も首都機能も低地に集中していて、山の斜面に貧困層の居住空間が密集している。韓国もボリビアと似たような感じだとしたら、サンフンは何もない「低地」より、姉さん親子との家族的繋がりをもち得る「坂の上」に行きたかった。みたいな解釈もできる。

 閑話休題。サンフンがはじめヨニに惹かれたのは、臆面もなくずかずかと自分に踏み込んでくるヨニの態度に、だろう。実はサンフンは周囲の人間自体には恵まれていた。腹違いとはいえいつも彼のことを気にかけている姉さん、4つ年上で仕事仲間であり友人であり、少し兄的な位置にいるマンシク、そして息子の暴力を甘んじて受け入れ続ける父。しかしこの3人は、常にサンフンに対して慎重に、どこかで気を遣いながら接していた。彼がデリケートな人間であるとわかっているから。ところがヨニは違った。サンフンに対してずかずかするだけでなく、ときに命令さえする。これはサンフンにとって、自分の過去を知らず、かつ自分に怯えない人間による、今まで知らなかったコミュニケーションだったと言えるのかもしれない。

 2人はその後、お互いの過去や生活の詳しいことはほとんど明かさないまま、というのは、かつてサンフンがヨニの母の屋台を取り壊した集団にいた1人であることも、ヤクザの2人目の新入りが弟ヨンジュ(イ・ファン)であることも確認しないまま、お互いに徐々に心を開いてゆく。サンフンで言えば、ケータイ買ったり、通帳作ったりと、“普通のこと”を徐々に始めてゆく。そういった過去や事実が、2人のあいだで共有されることは最後までない。

 商店街を散策するシーンのこの2人が、親子に見えるか、兄妹か、恋人か…この、いずれでもありそうでいずれとも断定できない描写が絶妙。後にヒョンインが混ざって3人の散策のときは、これは「家族」になっていた。

 ところでヨニは、サンフンに対しては「家が普通すぎてつまらないから、夜中にチンピラと飲んでいるの。何か文句ある?」と言っているが、全然普通の家庭じゃない。母は数年前に死んで、ベトナム戦争経験者でありかつて暴力的だった父(チョ・ヨンミン)は、日がな一日テレビを見て現実逃避し、また妻は死んだのではなく他の男のところに行っているのだと被害妄想に犯されている。男前の弟ヨンジュはニートで傲慢、いつも威圧的に金をせびってくる。だが、そういった家庭の一切のことを、ヨニはサンフンに対して開陳せず、「普通で幸福な家族」だと偽り続ける。そしてサンフンは最後までその事実を知ることはない(もとよりそんなことは関係なかったと思うが)。

 後半では、その家族の1人、ヨンジュが新人ファンギュに誘われてヤクザに入り、サンフンと仕事を共にするようになる。ヨンジュはヨニに対して傲岸不遜だったりするが、サンフンの取立て現場での行為を目の当たりにして、怯む。人を殴ることに対して、ためらう。実は気質的には人並みに思いやりや後ろめたさを感じることのできるヨンジュは、自分にはこんなことはできないと悟りつつも、そこから抜け出すことができず、かといって暴力もできず、サンフンに殴られる。このあたりからおれはヨニとヨンジュが実は主人公なのだと思い始めたのだけど、サンフンの物語はいわば、ハン姉弟の「影画」ではないか…?

 ちなみに原題の『똥파리』は、直訳すると「糞蝿」らしい。


※以下ネタばれあり


 ここからは余計な説明抜きでいく。サンフンとサンフンの中にある「父親という存在」の葛藤も省く。一気にラストの話。

 マンシクの焼肉店開店祝いに集まった人たちは、「(死んだ)サンフンという存在」によって弱々しくもゆるやかにつながった「擬似家族」になっている。彼らがサンフンの遺体を目にした悲劇の場面はこのお祝いのシーンの途中で挿入されているけれど、その切り上げ方にもまた、この映画の絶妙さがある。

 この悲劇を観ておれはじわっと涙が「こみあげて」きたが、さっと切り上げられたことで、涙が「流れる」ところまでにはもっていかれなかった。これはおそらく、監督の意図的な演出だろう。サンフンの死を安易な「お涙頂戴」に終わらせないようにしている。それはやっぱり、まだ「終わり」ではないから。むしろ監督としては、「始まり」に位置づけていたのではないかと思う。

 ラストでヨニは、かつて母の屋台が壊されたようにチンピラたちに壊されている最中の屋台を目にする。そこにはヨンジュがいて、彼女とヨンジュの目が合う。彼女は弟のその姿にサンフンを見る。彼女は驚きと戸惑いとが綯い交ぜになったような呆然とした顔をしていて…そこでエンドロール。

 このラスト―崩壊した家庭にあってもはや切れそうになっているヨニとヨンジュの血のつながりに、回復の可能性(希望)はまだあるということを示そうとしたのではないか、あるいは、それを目指したのではないだろうかと、思った。

 これからのヨニは、サンフンとの繋がりを経験したことで、それまで理解できなかった、あるいはただただ腹正しかったヨンジュに対して、彼が置かれている心理的な現状をたどる糸口を与えられている―余計な説明なしに彼女は“チンピラの”サンフンのよいところに触れて、互いにゆるやかながら、かけがえのない繋がりを得ていた。

 裏を返せばそれは、お互いの過去や事実を知らなかったからこそ成立したものかもしれない。しかし今度のヨニは、家庭の事情だけでなく、ヨンジュがサンフンを殺してしまったという事実に直面するなどしながら、お互いの「汚い部分」「認めたくない部分」を見ながら修復、というより「家族の新しい繋がり方」の模索をしていくことになるのかもしれない。というか、それができる道があることを、ヨニは感じるだろうと思う。

 なぜなら、彼女の目には“チンピラの”ヨンジュの姿が、かつて良い関係を築くことができたサンフンと重なったから。ヨニとヨンジュのあいだの摩擦に「出口がないなんてことはない」ということを示している、サンフンの存在があるから。

 だから、希望はたしかにある。サンフンとヨンジュの2人は、自分の中では実は暴力を否定しているという点も共通している…でも、これって重い。目を背けたくなるほどに認めがたいし、前途多難だし、実際にその現実から逃げたとしても、おそらくヨニは完全にはヨンジュを切り捨てられないだろうし、心のどこかで後悔しつづけることになるだろうと思う…希望があることと、しかしそれは決して明るい見通しとは言えない、ヨニの表情はそれを語っていたように思った。そんな中、もう1つの希望は、サンフンによって繋がっている「擬似家族」の存在である。彼らがヨニの支え・援けになっていってくれるかもしれない。


 テーマ的なことで一言すると、「擬似家族の成立と消滅、あるいは可能性」というもの自体は、日本国内だけでも映画や小説、マンガ、テレビドラマ等々といろいろなところでここ数年目にしてきたし、まだ途上でもあるように思う。だから「擬似家族」というモチーフは珍しいことではないけれど、この映画は、擬似家族によるそれまでとは違う可能性を見ようとしたのかもしれない。

 それが「擬似家族」を得たヨニと、チンピラになってしまったヨンジュとの、「擬似家族をいわば触媒にした、血のつながりの新しいかたちの模索」ではないだろうかと。

 「擬似家族」というのは、伝統的・歴史的な「血のつながり」のかたちが社会的に機能しなくなったことによって見出された可能性だったのだろうと思う。そこでは「血のつながり(ひいては地縁)などなくたって構わない」と言うことも場合によってはできるし、血縁(家族)の代替物としての擬似家族という側面もある。おれはこれを否定したいわけではないし、この映画もそれを否定する要素はとくにない。

 ただ、この「擬似家族を使った血のつながりの新しいかたちの模索」というのは…急成長して日本の高度成長期とバブル以後に起きた「それまでの価値観の崩壊」が同時期に起きているのかなとなんとなく憶測される、またこれも実際にどうなのかはわからないけれど、儒教の影響が色濃く残っているらしい、韓国事情が背景にあるからこそ、生まれてきた模索なのかもしれないと。学歴格差、男尊女卑の問題も織り交ぜていたようにも思えたとはいえ、この可能性の方に力点は置かれていると思う。

 おれの視野はそれほど広くないから自信をもっては言えないけれど、こういう模索の仕方は日本には見られなかったのでないかと思う。しかし、この映画で示された模索は、韓国だけではなく、日本にあっても十分可能性のある試みのように思う。


 最後にどうしても言いたかったことが1つ…マンシク役のチョン・マンシクとファンギュ役のユン・スンフンが、それぞれ渡辺謙佐藤隆太にちょー似てた(笑)



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