彼女は“選んだ” 『別離』

 ペルシャ語と聞いて、どこで話されている言語かパッと答えられる人はどのくらいいるだろうか。

 ラテン語のように学名や特定の場でのみ使用されるとか、古語のように読めなくはないが「現役」とも言えないものでもなければ、アイヌ語のように話者が数えるほどしか残っていないレッドリストにある言語でもない。おれたちが日常で日本語を話すように、世界のどこかで日常で、ごくふつうに話されている言語だ。世界史の古代オリエント史と現代の地図を重ねれば見当がつけられるはず―

 答えは、イラン。ちなみにペルシャ語で使われる文字は、アラビア文字である。 

 ペルシャ語とは逆に、この国についてよく知られていることと言えば、イスラム教の国家だということだろう。イスラム教と聞くと「全然ちがう価値観」とか、もしかしたら「閉鎖的」「排他的」、わるいと一方的に「原理主義(過激)」「自爆テロ」といったイメージがどうしても先立ってしまいがちかもしれない(あるいは、この国が日本人にとって馴染みのある国だとはお世辞にも言えないのは、以下に並べる人名の表記がばらつきがあることにも窺えるかもしれない)。正直に言うと、宗教として信頼できるのはどっち?と仮に訊かれたらキリスト教よりイスラム教だと答えるおれにもやっぱり、いま述べたようなイメージが半ば刷り込まれているようなのは否定できず、だから、“意外に”という言葉は使うべきではないかもしれないと思いつつも使ってしまうのだけど・・・意外にも、イランは、映画が盛んな国らしい。

 もっとも有名なのはたぶん、アッバス・キアロスタミという監督の名前か、その代表作で97年にパルムドールを獲った『桜桃の味』かもしれない(この監督の最新作は日本が舞台で、加瀬亮が出演しているらしい)。ここ20・30年というものイラン映画は彼を皮切りに元気があるようで、最近だと『亀も空を飛ぶ』のバフマン・ゴバディや『彼女が消えた浜辺』のアスガー・ファルハディといった若手がシカゴやベルリンで注目されたり、話題になったりしたらしい。TSUTAYAの「発掘良品」には『運動靴と赤い金魚』(マジッド・マジディ)という90年代のイラン映画があったりする。そう、イラン映画って実は、なかなかに存在感があるようなのだ。日本語版Wikipedeiaにさえ「イランの映画」という項目がちゃんとあることには驚いた。

 ところで、この気づきがあったのは近頃、イランの存在感が自分のなかで密かに増してきていたからだろうと思う。おれはいま「イラン」という言葉に反応しやすい(先日大きな地震があったことはもちろん知っている)。これは、ひょんなことから顔と名前が一致したタレントをテレビや中刷り広告でやたら目にするようになるのと同じで、きっと、最近になってペルシャ語を専攻している娘(こ)が身近に現れたからだろう。そして、その娘が教えてくれたのが先にちらっと名前の出た、アスガー・ファルハディ監督の『別離』だった。

 この映画はすごい。

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 ※以下、ラストに触れます。


 おれが観た『別離』には3つの顔があった。1つ目はまずもって観てそのまま、人間ドラマとしての『別離』だ。
 
 『情婦』という名作を観たことはあるでしょうか。『情婦』がエンタメに徹し抜いた法廷映画だと言えるならば、『別離』はドキュメンタリータッチないしリアリズムに徹した『情婦』だとあるいは言えるかもしれない。

 物語は、一人娘の教育環境を考えて海外移住したい妻シミン(レイラ・ハタミ)と、アルツハイマー型の認知症を患っている父親(アリ=アスガル・シャーバズィ)の存在もあってその案にためらいを見せる夫ナデル(ペイマン・モアディ)の離婚騒動から始まる。日本で言う簡易裁判所と思われるところに行くも折り合いをつけれず、シミンは実家に戻ってしまい、代わりにラジエー(サレー・バヤト)が父親の介護も含む家政婦としてナデルに雇われる。ラジエーは失職中の夫ホジャット(シャハブ・ホセイニ)には言わずにこの仕事に就いたという。

 なんて言うと、ナデルとラジエーが男女の仲になってしまうんじゃないの、とつい安易な邪推をしたくなるものだがそうはならない。むしろホジャットがそういう邪推をするためなのか、彼が反対するのはわかりきったらしく、しかし働きに出ないと生活できないため、彼女は口にできないまま仕事に就いた。また、イスラム教の国とは言っても信仰心の深さはやっぱり人それぞれのようで、シミンとナデルの夫婦はそれほど信心深いわけではないようである一方、ラジエーは敬虔なムスリムである。この2組の夫婦のあいだで、ラジエーの「無断外出」をきっかけに告訴・逆告訴と、周囲の人も巻き込まれながら、お互いがお互いに解決の糸口の見当たらないどうしよもない状況にまで追い込まれてゆく。

 2組の夫婦というシンプルな構図と、法廷という場をうまく利用することで無駄を削ぎ落としたシンプルな展開でもって描かれるこの人間ドラマはしかし、120分間のあいだ中だるみすることなく張り詰めゆく緊迫感が半端ない。練りこまれた脚本と演出力、それと忘れてはならないのが役者一人一人の演技力によって、気がつけば片時も目が離せなくなっている―と書いてこれは矛盾した表現かなと思ったので、ここで触れておくと、「目が離せなくなっていた」ことに「気づく」瞬間があるのだ。

 観た人はそれがどの場面のことなのか、言われればわかるはず。冒頭から徐々に、いわばべき乗に緊迫してゆく展開にあって笑いが入る余地などずっとなかったところに、ふっと、笑わせてくれる一場面があるのだ(この笑いはその一瞬から一拍遅れて観客に訪れる)―あのユーモアのさりげなさとその絶妙なタイミングにはちょっとした感動さえ覚えた。甘いものにちょびっと塩を混ぜると甘みが引き立つ感じ(甘くないけど)。思えば、あのときに肩の力をいい具合に抜かれていたからこそ、その後もラストまで「目を離せずにいる」ことができたのだろう。

 2組の夫婦をそのときどきで追い込んでゆくのは、善意の小さなウソや秘密である。つまり「嘘も方便」「言わぬが仏」の類のウソや秘密だったりするのだが、これが実際にはことごとく裏目に出てしまうので観ていてやりきれない。だから「ああ・・・気持ちはわかるものの、でももう、正直であったほうがいいんじゃ・・・」とため息も漏れるが、渦中に1人、そういう観客の気持ちをある意味体現してくれているような人物がいることに気づく―ホジャットだ。彼は、ウソもつかなければ秘密もない正直者である。なぜなら、短気だから。というか正しくは、短気ゆえにウソもつけないし秘密ももてない男である。そんな彼の言動や振る舞いも事態をややこしくしてゆく様子を見ていると、正直であればいいということでもないのだと思い直す。

 一方で、シミンとナデルの娘テルメー(サリナ・ファルハディ)は作中ずっと、両親が別れることなくまた揃って暮らしたいと願い、かつそのためにできる限りの行動もしていたけれど結局、最後には両親の離婚が認められてしまう。そして、「母と父、どちらに付いてゆくか」という決断を迫られることになる。曰く「決まっています。でも、両親の前では言いたくありません」―訴訟騒ぎのなかで大人たちの葛藤や苦悩を見続け、また両親の知られざる一面も知ることになったテルメーは、どちらを選んだのか・・・?


 ※以下、ネタばれ注意

 ところで、この映画はたぶん、同胞(イラン人)に観てもらうこと以上に「外国で観られる(外国人に観られる)」ことを意識して作られた作品ではないだろうかと思う。これが、2つ目の『別離』。

 たしかに、とりわけラジエーの存在がイランならではの色合いを出していて、また彼女の信仰心の篤さがのちにじわじわ効いてくることもあって『別離』は、普遍的な人間ドラマでありながらも、イラン人だからこそ作れた映画と言えるのかもしれない。ならではだなと印象的だったのは、たとえば、ナデルの父が失禁してしまった際に宗教上の理由から着替えの手伝いにラジエーひとり躊躇し、困った末にテレフォンサービスで教えを請うというという場面だ。イランやイスラム教の戒律(とそのサービス)に馴染みのないおれとしてはちょっとした驚きだった。しかしこの場面、よく考えてみると、目新しさと自然な流れのためにはじめはそれほど気に留めていなかったものの、イラン人が観ることを念頭にしていた場合、あの丁寧な描写はむしろイラン人の目にはちょっと説明的に映るのではないか・・・という気がしないでもない。

 アスガー・ファルハディは前作『彼女の消えた浜辺』でベルリン映画祭の銀熊賞を受賞して話題になったらしい。世界三大映画祭で評価されたという事実はとりもなおさず、次回作(つまり『別離』)が諸外国から注目されるということにもなるから、このことからも製作時に「外からの目」にかなり意識的だったのではないかなと思う。また、もう1つ、「外からの目」に意識的だったと思わせる点があって、具体的にどの場面がそうだと示すことはできないものの・・・印象として、全体にエキゾチックとかエスニックとか呼ばれる“異国情緒”ができる限り削ぎ落とされているような気がしたのである。

 これはオルハン・パムク(トルコの作家)の『わたしの名は赤』に通じるものがある。

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)

この小説は、16世紀のオスマン帝国は冬のイスタンブルを舞台にした細密画(ミニアチュール)の画家たちの物語で、たとえば、署名という行為1つ採ってもおれたちとはまったくちがう価値観・捉え方から生じる葛藤や議論、陰謀が起こってゆく。そのちがいはすごく興味深い。しかしパムクは、エキゾチズムやエスニックさを利用したり頼ったり、その感覚に訴えるような描き方はしていないのだ(彼は“異国情緒”を避けるために翻訳者の付ける訳注にもチェックを入れているという)。簡単に言うと、観光に似た気持ちでこの小説に手を出した場合、肩透かしを食らったとガッカリする人も出てくるかもしれない。これは『別離』にも言えることだと思う。

 ファルハディとパムクは国も違えば、年齢にも開きがあるけれど、イスラム圏の人という点では共通している。そういえば、いつだったかのアラブの現代アートが採りあげられていた新聞記事でも「エキゾチズムの排された作品が目立つ」というような記述があった覚えもある・・・イスラム圏(ないしアラブないし中東)の人達はあるいは暗に、しかしはっきりと表明しているのかもしれない―「(非イスラム圏・非アラブ・非中東の人々は)ステレオタイプな色眼鏡を一旦はずすべきだ」というふうに。

 エキゾチズムやエスニックさを一概にわるいものだとは言えないと思う。ただ、「異国情緒」を感じるということは見方を変えれば、その対象を無意識に「異物」と捉えているといういことでもあるのではないか。「異物」は、ひとたび関係がこじれるとほとんど一方的に「悪者」扱いされてしまいがちかもしれない―このエントリーの冒頭で「“意外に”という言葉は使うべきではないかもしれないと思いつつも―」などともってまわった言い方をしてしまったのは、この点が頭の片隅にあったからだった。

 せっかくだからこのあたり、積読山に刺さっているサイードの『オリエンタリズム』とか羽田正の『イスラーム世界の創造』あたりを読みながらぼちぼち考えてゆこうかと思う。

 
 さておき、3つ目は、「選択」をめぐる『別離』である―マクロな視点で離れかけた注意を再び作品に戻す。

 斜に構えた見方かもしれないけれど、例の「ナデルの父が助かった一方で、ラジエーは流産してしまった」という事実は皮肉っぽいというか、言い換えると「新しい世代を犠牲にして老人を助けた」と見えなくはないというか。シミンとナデルを離婚に追い込んだ対立もこの図に象徴されているかもしれない・・・もう少し中立に努めてれば、「新しい世代」と「老人」という図式は、「グローバル化」と「ローカルもしくは伝統」と読み替えられる、というより「変化するもの(テルミーは思春期)」と「変化しないもの(ナデルの父はアルツハイマー認知症)」というふうな見方もできるのではないかと。

 2人ともテルメーを想う気持ちは本物であって、そこに差はない。あるいはナデルの父に対しても、ナデルは言うまでもなく、離婚してでも海外に移住しようとするシミンにしても決して邪魔者扱いしているわけではない様子が窺えるので、ここにも取り立てるほどの差はないように思う。ちがいは、「テルメーとナデルの父、どちらかを選らばなくてはならなくなったとき、どちらを選ぶか」という極端な問いを突きつけられたときに現れるのものだ―そして問題は、「シミンとナデルの父、どちらを選ぶのか」ではなく、「選べるか、選べないか」にある。シミンはテルメーを“選ぶ(選べる)”、ナデルは、どちらとも“選べない”。これは2人のテルミーへの態度にも出ていて、シミンは「付いて来なさい」と強引さを見せもするが、一方でナデルは「父さんはこう思っているが・・・決めるのはお前だ」と幾度か口にする。

 思うに、彼女を英語教師にしたのはテキトーな設定ではない。英語を記号的に捉えてみれば(というのは「英語ができれば国際人」みたいな話ではないということ)、他の人物の意識がイラン国内に留まっている感があるなか、「世界のなかの一国」としてイランを見るマクロな視点をもった、いわば半歩だけイランの外に出ている人物として彼女はいるように思える。そうした視点から、娘のためにもこの土地に留まってはいられないと、何かを捨てざるをないと思うに至ったのだとすれば、それは「世の中の変化を受け入れる」側に彼女がいるという解釈もできなくはない。ただし、海外に移住したあとテルメーがその土地に馴染めるとは限らないし、いわゆるアイデンティティーの危機に直面する可能性なんかもある。

 反対に、まずラジエーが敬虔なムスリムであることを思い合わせてみると、彼女は「不変のほうを重んじる」側の人間だとあるいは言えるかもしれない(その意味で彼女がナデルの父を助けたのは必然的だった)。そして、彼女とのあいだに2組の夫婦の対立の発端を切ってしまったナデルはと言うと、先に述べたように「どちらとも選べない」からこそ、この場合、仮にラジエーに起こったのと同じ状況が彼に降りかかったとすれば、目の前の父のことで頭がいっぱいになってしまって実はラジエーと同様に、父は助けられても、子供は“犠牲”になるかもしれない。

 シミンが“選ぶ”ことのできるのは、自分に選択させられるだけの「外」から得た判断材料をいくらかもっているからかもしれず、ナデルが“選べない”のは、決断できるだけのそれが足りない、もしくはそこに心もとなさを感じているからかもしれない。「どちらが正しいかわからない(あるいは吉と出るかわからない)」「しかし選択しなければならない」という事態は日本で生活していてももちろん起こるのであって―ここで、あえて実際的な意味でのフィクションの効能を挙げれば、「現実の予行練習」になるというのがある。観客を引き込み“体感させる”この映画はその点でも優れていると思う。

 逆に、フィクションが「現実の予行練習」になるからこそ、独裁政権や管理主義的な政府は、たとえば「革命」というフィクションが現実化されることを恐れて検閲を敷くのではないかと思う・・・イスラム原理主義体制化にある現在のイランにも検閲はある。いま述べてきた解釈と、(どういう具合か具体的にはわからない。「アラブの春」を受けて強権化したと小耳に挟んだけれど)制約のあるなかで製作されたということを思い合わせてみると、シミンとナデルの軋轢はいまイランが抱ているジレンマを遠まわしに表現したものでもあるかもしれない―「“外”を知った者はこの地に留まることができない(許されない)」一方で、「“外”を知ることのできない市民は袋小路に押し込められている」みたいな。いや・・・だとするとシミンにしても、選んだというより、選ぶ余地のないなかでの「選択とも言えない選択」(つまり“選べない”)だったと言えなくもない。


 さておき、3つの『別離』のいずれにしても、この映画のラストである「テルメーの選択」に集約されるというか、おそらくはじめに感じた以上に、あのラストは意味の込められたものかもしれない。

 
 おしまいに1つ。ラジエーが盗んだと疑われたあのお金は、どこへ行ったのだろう・・・?