「複雑さ」の生み出す、おもしろさと絶望感 『石の花』 

 
 複雑な様相を呈する(つまり込み入った)話というのは得てして嫌煙されがちだ。とくに最近は、社会、あるいは世の中が複雑化しているために―事実は元から複雑だった部分も少なくないのだろうと思うけれど―世間的にそれに辟易している気もあって、複雑な話となると「まあ、難しい話だよね」とやんわり一言で片付けられることは少なくないし、中には複雑だというだけで聞く耳を持たない人もいる。

 たしかに、単純に説明できることはあるし、それをわざわざ複雑にしていたずらに混乱させるのは違う。しかし、複雑にしか説明しえないこともやっぱりあって、それを単純化してしまうというのもまた、同じように違うはずだ(現代は価値観の多様化が進んだと言われているが、反面、一様化も進んでいるように思う)。

 「複雑」というのは、裏を返すと「多種多様」とか「豊か」ということであったりもする。たとえば、南国の島々やジャングルは数え切れないほど多種多様な動植物に満ち、豊かな生態系を形成している。そのような生態系が形成されているのは、無数の動植物やいろいろな環境に加え、豊富な太陽光や水といったエネルギーが組み合わさり、複雑な絡み合いを見せているがためだ。それは見ているだけでも楽しい。好奇心や冒険魂を掻き立てられ、そこに分け入りこれを解き明かそうと試みたりする人もいる。

 あるいは、大河ドラマ龍馬伝』によるブームが記憶に新しいけれど、歴史ものといえば、ふつう戦国時代・幕末を思い浮かべる。たくさんの国や藩が群雄割拠し、大勢の武将(ときどき忍者)や武士たちが東奔西走する中、様々な理想あるいは野心、思惑が複雑に渦巻く、そんなあの時代に胸躍らせる人も少なくないはずだ。

 第2次大戦下、ナチス独に分割・占領されたユーゴスラヴィアを舞台にした群像劇『石の花』(マンガ)も、だから、やっぱり、おもしろい。パルチザン部隊でゲリラ作戦に従軍する14歳の少年・クリロ、強制収容所に連行され重労働を課せられるクリロの幼なじみ・少女のフィー、二重三重のスパイ活動を行うクリロの兄・イヴァン。主にこの3人とそれぞれが置かれた極限状況を軸にしつつも、様々な立場にあるたくさんの人々が登場し、展開されるこの物語は―躍動感のある絵とシンプルでいて緻密な構成により現出するその世界は濃密で圧倒的、クリロたちが一体どうなってゆくのか目が離せない。

 ユーゴスラヴィアという国は、よくこんなふうに表現されてきた―「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国」*1。ここにプラス、ユダヤ人もある。多様な人々、文化・風俗をもつ国だったのだ。おもしろくないわけがない。

 同時に、多様さに伴う厄介な関係を抱えこんだ国でもあった―ちなみに、この漫画を読み終わったとき、感動とか、カタルシスは訪れない。なぜなら、この物語には明確な善悪正邪の構図がなく―これだけ複雑な状況・事情に対してそのような構図で片付けていたとしたら、それは典型的な単純化であり、それこそウソだろう―最後まで読んでも「これが答えだ」と断言できるものなど出てこないからだ。様々な立場に置かれた人々が、分け隔てなく、かつ丁寧に描かれてゆく中で、それぞれの願望、理想、希望と絶望、自己欺瞞、苦悩、葛藤、それこそ、いくつもの善悪正邪の構図(イデオロギー)―それらが絡まり、錯綜し、国土解放どころか内紛まで起こしてしまう「ユーゴスラヴィア」の姿が、生々しく、容赦なく描き出されゆく。
 
 いま「ユーゴスラヴィア」とカッコ書きにしたのは、これが過ぎた話などではなく、また、この国に限った話でもないと、最後まで読んだときには気づくと思うからである。このマンガの終わりでは、歴史が示すように、ナチスは崩壊し、ユーゴスラヴィアは解放される。しかし、クリロたちの苦悩は宙に浮いたまま解消されることはなく、つまり、根本では何も解決されていない(その様を浮き彫りにしたことによって、このマンガは、連載終了からおよそ5年後に起こることになるユーゴスラヴィア紛争を予言したようなかたちになってしまった)。ユーゴスラヴィアという国は“世界の縮図”なのだ。

 「石の花」とは、ポイストナの鍾乳洞にある大きな石筍(鍾乳石)のことであり、メタファーだ。「石の花」は、フンベルバルディング先生がクリロとフィーの2人―そして読者に残していった、(ときに鋭く射抜くような)一条の光として、ここにある。

 このマンガはユーゴ事情に無知でもなんら支障なく楽しめて、むしろ、読んでいるうちにいつの間にか勉強までできている。その点もすごい。ただ、1つだけ、前知識として知っておくとよいかと思うのは、そもそもなぜ、これだけの民族がユーゴスラヴィアとして一つにまとまろうとしていたのか、という点だ。

 柴宜弘の『ユーゴスラヴィア現代史』を参考に、その理由を端的に言ってしまうと、ナポレオン以降に出現した「一国一民族」を原則とする近代国家が各地で成立してゆき、それが力を持つようになり、結果、他の民族もまとまらなければ呑み込まれてしまう(搾取されてしまう)情勢になったためだ。ところが、バルカンの民族たちは住んでいる土地が何層にも混ざり合っていたために近代国家を思うように形成できず、またできたとしても、それぞれの人口が少ないために国家を保てない。だから、ルーツを遡り、「南スラブ」という単位を見出した。

 こうしてユーゴスラヴィアという概念が現実味を帯び、このマンガの始まる時点までで言えば、まがいなりにも王国を形成させるところまで漕ぎつけたのだった・・・お察しの通り、ユーゴスラヴィアという言葉の意味は「南スラブ」である。



石の花 上 (光文社コミック叢書“シグナル” 11 坂口尚長編作品選集 1)

石の花 上 (光文社コミック叢書“シグナル” 11 坂口尚長編作品選集 1)

石の花 中巻 (光文社コミック叢書“シグナル” 12 坂口尚長編作品選集 1)

石の花 中巻 (光文社コミック叢書“シグナル” 12 坂口尚長編作品選集 1)

石の花 下巻 (光文社コミック叢書“シグナル” 13 坂口尚長編作品選集 1)

石の花 下巻 (光文社コミック叢書“シグナル” 13 坂口尚長編作品選集 1)

 ※ 講談社漫画文庫の方が手に入りやすい。全5巻。(この光文社のは絶版…?)