平安の世にすでにBLの気あり哉 『とりかえばや物語』

 12月と聞いて、どんなイベントを思い浮かべるだろうか…?クリスマス?大晦日?ノンノン、一般にオタクや腐女子と呼ばれる人であれば「冬コミ」と答えるかもしれない。夏と冬の年2回、東京ビッグサイトで開催される世界最大の同人誌即売会コミックマーケット。通称コミケ

 バイト先の関係上、現在ただいま、おれはBLにまみれた日々を送っている。BLとは言うまでもなくボーイズラブのことだ。カラー原稿の場合、印刷時には「色の三原色」つまり青・赤・黄と、プラス黒のインクが使用され―厳密に言うと、青に当たる色はシアン、赤はマゼンタと呼ばれる―作業工程ではそれぞれ「C」「M」「Y」「BL」と略字で表記されているのだが、この「BL」を目をする度に「ボーイズラブ」と読めてしまって仕方ない…そんな今日この頃。

 この仕事をする以前から「同人誌→BL」という図式がなぜか頭の中にあって、実際、(職場で見る限りでは)同人誌が10作あれば6作くらいはBL、と言ってよいように思う。ちなみに、おれはバイセクシュアルでもないため、BLに接したところで萌えもしなければムラムラと欲情を掻き立てられることもなく、正直なところ、男のおれにはBLに萌える気持ちみたいなのはよくわからないけれど、でも男もレズもの観てそそられたりするわけで、まぁそんなようなものなのかなとも思う。

 今年の夏コミは『TIGER&BUNNY』が多かった。今季は『ヘタリア』率が高い気がする。…耳学問だが、女性のあいだでBLが好まれるのは、女性の嗜好による部分ももちろん多分にある一方、批評性をもつ場合もあったらしい。たとえば、マチズモ(男性至上主義)に対する皮肉・風刺、というように。試みにそういう目で『ヘタリア』ものを見てみたりなんかすると・・・なんかスゴいことになる(笑)

 BLは和製英語だ。Wikipediaによると、BLという言葉が使われ始めたのは1990年代の中頃のことらしい。類似語にショタコンとか801(やおい)とかいろいろあるようなのだけど、性行為を伴う関係に主眼がある場合は801とかBLとか呼ばれる、とのことらしく…しかし、とりあえず、ここではBLを「男同士の恋愛(男の同性愛)を扱った作品」という意味で話を進めてゆきます。

 言葉自体は90年代生まれではあっても、「BL」の歴史というのはそれ以前から脈々と流れていたのだろう、萩尾望都の『ポーの一族』や山岸涼子の『日出処の天子』あたりもBLと呼べるのだろうし。

 どこまで遡れるのだろう?と、BLにまみれながら思い巡らせているとき、ふと、1年ほど前に読んだ『とりかえばや物語』のことを思い出した。これは12世紀半ば、今から900年くらい前に成立したとされる、国語の授業では古文で扱われる類の作品だ。作者不詳。ちなみに、おれはべつに古文が読めるというわけではない(この作品は原文と訳文を交互に読んでいった)。

 どこで読んだのかは忘れたけれど、シェイクスピアにまつわるこんなジョーク(?)があるという―「イギリス人は可愛そうだ。いつでもシェイクスピアを原文のまま舞台にのせなくちゃいけない。他の国だったらどんどんおもしろい翻訳ができて“今”の言葉で楽しめるのに」―

 たしか翻訳に関する話の中でこのジョークが紹介されていたもので、翻訳の場合、時代に合わせて、以前のものよりももっと良い、あるいは読みよい翻訳に更新して読むこともできる…シェイクスピアといえばおそよ400年前の人だから、つまり400年前の英語で書かれているわけで、イギリス人たちが古いなと感じないわけがないだろうとたしかに窺われる。

 このジョークはイギリス人を採りあげているが、どこの国でもこれは言えるわけであって、しかし日本人の場合はとりわけ残念な部類に入るかもしれない、と、このジョークを知ったとき思った。1000年前に書かれた『源氏物語』を原文で読めないのはまだしも、300年前の江戸文学でもほとんど読めないと言ってよいわけで…ちなみに『ハムレット』が上演されたのは1600年頃のことであり、そのとき日本は、天下分け目の関が原まもなく江戸時代、という頃。こう考えると、逆に、イギリス人はそんな時代の作品でも原文で読めちゃうんかと、存外羨ましくもある。

 「古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなもの」―これはボルヘスの言葉。なんというか、日本の文学史には小説と呼んでも差し支えないようなものがずいぶん昔からたくさんあって、中にはおもしろそうなのものも少なくなく、全然読めないというのはもったいない、というかすごく残念じゃんか、たしかに「読めない」けれど、読もうと思えば大意や感覚、雰囲気はなんとなく掴めるわけで、ここは英語の勉強で洋書を読んだりするように、古文を読んでみようかしら。*1 

 ということで、大学で古文を専攻しているという友人の彼女に、なにか良さげなものはないでしょうかと尋ねてみたところ、これはいかがかとオススメされたのが『とりかえばや物語』だった―

 関白左大臣には2人の子供がいた。この2人は容姿端麗で、また異母姉弟なのだが、屋外でやんちゃに遊びまわり性格も男の子のような姉、おままごとのような遊びばかりする内気でしとやかな弟。左大臣はこれを見て嘆息した―「とりかえばや(取り替えたいなぁ)」と。しばらく様子を見ていたがその性格が逆転する兆しもなかったため、左大臣は仕方なく、姉を「若君」、弟を「姫君」として育て、2人は長じて、そのまま宮廷に出仕することになる―

 始まりはこんな感じで、さてどうなる、という話。読んでみるとこれが別段古くささなどなく、むしろ現代的だし、思いのほかおもしろい。山奥に住む中国帰りの僧という存在なんかも、宮中という「舞台」だけで展開すると閉塞しがちなストーリーにさりげない拡がりと妙味を与えている。が、なんといっても「若君」の同僚であり友人でもある、宰相中将。この男が直情径行の徒、とはつまり生粋のプレイボーイで、随所でやっかいごとを引き起こしては読み手をやきもきさせ、同時に、彼の存在が深刻一方になりがちな場面では笑いを誘う。

 この男は「姫君」に恋焦がれるわ、「若君」の奥さんに手を出すわで、あの時代には複婚みたいなのが当たり前だったとはいえ、「姫君」と「若君」の事情が事情ということもあり、まことにやっかいな状況を幾度も引き起こす。話の中盤を過ぎたあたりに至っては、とうとう「若君」にまで恋慕を抱いてしまうのだ。

 もちろん、宰相中将は「若君は男」だとわかったうえで恋している。実際、彼は悩む―「相手は男だぞ。なのにこれはどうしたことなのか。おれはホモなのか…?でもそうは言っても、この気持ちは止められない…!」という具合に悶え苦しむ(『イケメン☆パラダイス』的な)。読者は「若君」だとわかっているとはいえ、宰相中将に主眼を据えれば、これってBLの領域に片足突っ込んでるんじゃないだろうか…

 少なくとも名無しの作者は、こういう展開も十分にありうる(あるいは、あってよい)と考えていたのだろう。平安の世に。
  


とりかへばや物語(1) 春の巻 (講談社学術文庫)

とりかへばや物語(1) 春の巻 (講談社学術文庫)

とりかへばや物語(2) 夏の巻 (講談社学術文庫)

とりかへばや物語(2) 夏の巻 (講談社学術文庫)

とりかへばや物語(3) 秋の巻 (講談社学術文庫)

とりかへばや物語(3) 秋の巻 (講談社学術文庫)

とりかへばや物語(4) 冬の巻 (講談社学術文庫)

とりかへばや物語(4) 冬の巻 (講談社学術文庫)

*1:「もう訳文でいいじゃん」と思う場合はそれはそれでよいとも思うけれど、古語の場合、十分原文で読める素地がある言語なのだから個人的にはやっぱりもったいないように思う。