真夏のアスファルトで干からびるミミズ。窒息しそうなほど溢れかえる窒素。あるいは、文明の寿命。『土の文明史』

 土壌の肥沃さと土壌浸食は、歴史の流れを大きく変えてきた―より具体的に言えば、「土壌劣化」と「加速する侵食」という双子の問題が文明の運命を左右してきた。“泥に刻まれた歴史”を紐解くことで、それが見えてくる。

 「土」をキーワードに歴史が解き明かされる様は、ときに鼻づまりが解消したかのような快感があり、とてもおもしろい!同時に、人間の業、とも呼べる「歴史の繰り返し」に恐れ慄く。


 「あらゆる文化(芸術・科学)の基礎を成している文化とは農業である」と『栽培植物と農耕の起源』の著者、中尾氏は説いた。『銃・病原菌・鉄』という本は「人類の歴史」という大きなテーマを扱ったものだが、著者のダイヤモンド氏は全体の1/3を農業の成り立ちや栽培植物・家畜の伝播に割いていた。そのくらい説明の要する重要なポイントだということだろうと思う。

 文明は、農耕が起こって、人口を養うに十分な食料と、かつ食料の余剰・備蓄が確保できるようになってはじめて成り立つ。仮に電気や石油がなくなったとしてもそれでそれで生きてゆくことは可能だろう。しかし、食べ物がなければ生きていけない。そして農耕ないし農業は、土の存在を前提としている。土なくして食料はまかなえない。『天空の城ラピュタ』のヒロインであるシータはあの空中庭園の上で叫んだ―「人は土から離れては生きられない!」

 本書『土の文明史』によると…土地が支えられる以上の数の人間を養わなければならなくなったとき(土壌の消費がその生成を上回ったとき)、社会的政治的紛争や戦争が、あるいは気候変動や病原菌、自然災害が致命的なダメージを与えることになって、社会は衰退し、やがて滅ぶに至った。メソポタミアでも古代ギリシャでも、ローマ帝国、中国の諸王朝、マヤ王国でも、いわば“生態学的自殺”が繰り返されてきた。あるいはフランス革命やヨーロッパ諸国の新大陸の征服・植民地化、アメリカの西部開拓なども、それに先立つ土壌の喪失が下地としてあった―「土壌の喪失」の意味するところは、食料不足、あるいは飢餓である。

 著者のモントゴメリー氏は言う。

土は私たちのもっとも正当に評価されていない、もっとも軽んじられた、それでいて欠くことのできない天然資源なのだ。

 そして「文明の寿命」とは、

おおまかに言えば、農業生産が利用可能な耕作適地のすべてで行われてから、表土が侵食されつくすまでにかかる時間を限界とする。

 放射性炭素年代測定法や過去の調査記録などによって明らかにされる“泥に刻まれた歴史”は、過ぎた話ではなく、現在も、しかし今度は地域とか領土といった一部の領域ではなく、地球規模で起きている…付言しておくと、地球上の生産力のある農地の面積は1970年代から減少しているという。要は、衰退期に入っている。*1 歴史上何度も繰り返されたパターンをふたたび繰り返そうとしている。同様に人は、繰り返し、同じことを口にしてきた。たとえば―

造物は涯(かぎ)りあり、しかして人情に涯りなし。

「造物」は「地球の資源」、「人情」は「欲望」の意。中国は明代のエッセイ『呻吟語』にある呂新悟の言葉である。


 ※今回のエントリーは、『土の文明史』を主にしての『ミミズと土』『大気を変える錬金術』との3冊併読ものです。


 ★関連(先行)エントリー*2

 その1:諸文化の根にある文化と「いただきます」『栽培植物と農耕の起源』
 その2:地球ごと逆回転させる『銃・病原菌・鉄』と、女媧の盲目

 

土の循環とミミズ

 ひとまず、土壌の話から始めよう。

 土というのは、地域差などはもちろんあるけれど、大きく3つの層位に分けられる。上からA、B、C層位と呼ばれる。「表土」と呼ばれたりするA層位は、有機物が無機質土壌と混ざった養分に富む層だ。生命活動が行われる場は―つまり人が耕作して食料を得るに利用できるのも―この一番上のA層位である。その下のB層位はいわゆる「下層土」と呼ばれるものだが、ここが地表に丸出しになっている土地は耕作不可能な土地(不毛の地)だと言ってよい。

 今回の話ではA層位が要(かなめ)となる。このA層位は養分に富む反面、雨や強風、表面流去などによって侵食されやすいという。加えて層の厚さは30cm〜1m―これはA層位を「地球の皮膚」と喩えてみれば、人の皮膚よりも薄いということになる・・・おそろしく薄いッ!がしかし、植物が雨風の衝撃から表土を守ったり、生物たちによって栄養分が循環したりしているなど、つまり生態系のバランスが保たれている間は、土壌の生成と侵食の速度が釣り合うことでA層位がなくなるということはほとんど見られない。

 その土壌生成において大きな存在感を示す生き物の1つが、ミミズである。そう、夏になるとアスファルトの上で干からびている哀れな姿をよく見かける・・・パッと見どっちが頭でどっちが尻尾かわからなかったりする、あのミミズ。

 『種の起源』で有名なダーウィンの最後の著作は、『ミミズの習性に関する観察と、ミミズの働きを通しての有機土壌の形成』(原題訳)という、一見するとまことに地味な本だった。実際だいぶ長いあいだ「耄碌したジジイが趣味で書いた本」みたいな扱いを受けていたようなのだけど・・・解説の古生物学者ティーブン・J・グールドによると、この本はミミズの論考はもちろん、進化論にかかわる「科学的な方法でいかにして歴史に近づきうるかの探求の書」でもあるという。そういう意味でも実は重要な1冊なのだが、それを措いたとしても、ダーウィンのミミズと自然に対する愛や好奇心、子どものような無邪気さに満ちている愉快な1冊だった。

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

 この著書によって明らかになったことの1つは、ミミズは土壌ないし肥沃土を形成するのに大きな役割を果たしているということだった。ミミズが、土を食したあと地表近くで排出する糞(というか土の粒子)が絶えず蓄積されたり、その糞や細かい泥とリサイクルした有機物(枯れ葉や死骸、鉱物など)がミミズの行動によって混ぜ合わされることで肥沃土が作られているのだ(現在では、ミミズの行動によって炭素が地面の中に押し込められそれが土壌形成に一役買っている、なんてこともわかっているらしい)。

 足元の土は、これまで何度もミミズの体内を通ってきたもので満ちているし、これから先も何度も通ってゆく。そうすることで肥沃な土壌が生成され保たれてきたし、これからもそうだろうとダーウィンは説いた。

 ちなみに、ミミズと土の関係に着目したのは、進化論がそうだったように、ダーウィン以前から何人かいた。たとえば18世紀の地質学者ジェイムズ・ハットンがそうだし、ぐっと遡ってみれば、古代エジプトクレオパトラは、この生き物が肥沃な土壌に欠かせないことを知っていたため「ミミズの国外持ち出し禁止」という御触れを出していたという―

 ミミズの他にももちろん、微生物や昆虫など他の生き物も土壌生成に寄与している。また、その土地の気候や地形、母材にも左右されるし、このような土地の性格ないし環境は逆に、土壌“浸食”の原因にもかかわってくる。とくに「その土地の傾斜と農業慣行による影響が大きい」のだとモントゴメリー氏は説明する。


グローバル社会は植民地政策の遺産

 繰り返すが、農業生産は文明に不可欠なものだ。文明の誕生にも、繁栄にも、維持にも、そして消滅にも、密接に関わっている。

 しかしそもそも、長期的に見ると、もともと農業という行為そのものにリスクが伴っているのだという。どういうことかというと、先にA層位は生態系が保たれている間は一方的に侵食されるようなことはあまりないと言ったけれど、農業を始めた途端、土地の侵食度が加速する。通常の数倍、条件が悪いと100倍〜1000倍になることもあるという。

 作物が農地を覆うのは1年の限られた期間のため、剥き出しの土壌は風雨にさらされて侵食が引き起こされる。また、土壌有機物が空気にさらされることで酸化し、減少してしまう。長く耕作するほど一般に侵食されやすくなる。大雑把に言うと、こういうことらしい。

 ただし、この侵食は往々にして気づかない。ふつう1代2代のうちにダメになるといった短期的な問題ではないためだ。しかし、数世代を経て「気づいた」ときには、取り戻せない・手に負えない状態になっている。 

もっともゆっくりとした変化こそ、時として止めるのが難しい。

 加えて『銃・病原菌・鉄』でも話に出たことだが、食料を生産することで人口が増え、人口が増えることで食料がさらに必要になり、それでまた人口が増え…という、結果そのものがその過程の促進をさらに早める正のフィードバックが生じる。この指数関数的に増える人口と、土地の劣化による収穫減という圧力が膨れ続けるにつれて、すでに耕作地である土地はさらに酷使され、一方では周囲へ耕作地を広げてゆくようになる。

土壌侵食の最初の形跡は開拓農民の登場と時期を同じくする。

 果てに、森や山を切り拓くなどして“限界耕作地”に至る。山といえば傾斜地だが、傾斜地は文字通り斜めだから土壌流去が激しい(木などがないためになおさら)。ここまで来るとそこから先はない。あとは衰退してゆく・・・あるいは(往々にして)さらに“外”へ―つまり他国の征服、略奪、植民地化という手段に訴えるようになる。近代以降ならば、主張信条というよりもむしろ、食料不足による民衆の空腹感やストレスなどの捌け口として革命が時宜を得たりする場合もある。

 そして、古代文明の誕生から続いてきたそうした繰り返しのなか生まれてきたもの、それがグローバル社会だというのだ(!)そもそも、いわゆる大航海時代が幕を開けた中世ヨーロッパでは当時、食糧自給の限界に直面していた。耕作可能な土地はほとんど全て開拓済みなのに人口は増加してゆくし、その間も土壌の劣化は止まらない。

 西ヨーロッパのなかでも、もっとも人口密度が高くもっとも絶え間なく耕作されている地域にあった国が、もっとも積極的に新世界を植民地化していった。植民地ではその土地の農業ポテンシャルを利用して安価な食料を生産・輸出するようになり、その輸出品は砂糖やコーヒー、タバコ、お茶といった贅沢品から、穀物、肉、乳製品などの基本食料品へと次第に変わっていった。ここに至り、ヨーロッパ農業の自立は終わりを告げることになる。

 要は、繰り返される飢餓問題を「食料を輸入し、人間を輸出する」ことで解決したということである。グローバル経済の構造を端的に言えば「世界中から材料を集めて加工しては世界中にばらまく」―その構造の基礎が植民地政策によって作られていった面が多分にあるということである。市場のグルーバル化に帝国主義の痕(あと)が見えてくる。

 いわゆる発展途上国と呼ばれる国々で問題になっている、モノカルチャー経済。これも植民地政策の産物、というより後遺症である。土壌のことになど構うことのなかった宗主国のお偉方によって押し付けられた「短期間で最大の利益を上げる」ことを目的としたプランテーション農業―プランテーションというのは大抵、単作である。単作というのは土地の循環が著しく悪くなったりするために、土壌劣化がふつうの農業よりもひどい。かつ利益重視だから、大規模化させる。土地から追い出された農民は機械を買うお金もなければ土地もないしで限界耕作地へ行くしかなくなり、土壌流失、過放牧、森林伐採、開拓、・・・というサイクルが出来上がってしまう。独立後もその仕組みが下敷きになっていたり影響していたりして、なかなか抜け出すことができない。

 こういった植民地政策だけでなく、ずっと昔から時代が下るにつれ農業が集約化されてゆくなかで問題になっていたのは不在地主という点だ。農民たちは土壌が劣化していることに感づきはしても、重い年貢やらでその点にかまっていると食べていけず、自分の土地でなかったりもして、土壌を改善する余裕が往々にしてない。一方で地主は自ら農作業しているわけではないから気づかないし、利益を優先するためにもともと気にかけようともしない。


化学肥料と大気を変える錬金術―窒素

 ところで、最近、世界の人口は70億を突破したらしい・・・1900年には16億だったのに・・・100年のあいだになぜここまで急増したのか・・・?

 その理由の一つに、「化学肥料」の発明が挙げられる。具体的に言うと、ドイツで開発された「ハーバー・ボッシュ法」と呼ばれる、大気中の窒素(N)から化学肥料の活性成分となるアンモニア(NH)を生成する技術である。1909年に物理化学者フリッツ・ハーバーが有用なアンモニア合成法を発見し、20年後に化学者カール・ボッシュが産業規模で行う方法を開発した。この発明を取り巻く経緯・歴史を扱っているのが『大気を変える錬金術』という本である。

 この本はスゴ本の中の人Dainさんに「『土の文明史』はこれとセットで読むと、広がります。土壌流出の歴史と、それにあらがう土壌ドーピングの発明史になります」と教えていただいたものです。これもまた興味深き1冊だった。

大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀

大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀

 この発明の何がスゴいのかわからない方もいるかもしれないため(何を隠そう、はじめて聞いたときおれがわからなかった)、まず、窒素目線の生態系を概観しておこう。なお、これからこの項において扱われる一連の窒素の話は『土の文明史』ではほとんど触れられていないものです。

 窒素は生物の体を作るタンパク質の原料として重要な元素であり、タンパク質といえば動物にとって不可欠のものです。ところがどうして、植物しか作ることができない代物でもあります。植物は光合成で作った炭水化物と、根っこから吸収した窒素化合物を材料にタンパク質を合成し、草食動物などは植物から得たタンパク質をアミノ酸に消化し、草食動物を食べた肉食動物も同じように体に取り込んでゆきます。このようにして窒素は食物連鎖を移動してゆくのです。

 一方、生物の死骸に含まれているタンパク質や排泄物となった尿素有機物)は、分解者(菌類・細菌類)によってアンモニアに分解され、さらに窒素化合物となって土中に戻ってゆきます。この窒素化合物というのは植物に必要な無機養分(つまり肥料)であり、前述のように根っこから吸収されます―窒素はこのように、植物の成長に、ひいては動物がタンパク質を得るためにとても重要な存在なのです。

 ところで、大気中には窒素がおよそ80%を占めています。しかしほとんどの生物はこれを直接取り入れることができません。これができるのはマメ科植物の根っこについて共生している根粒菌と呼ばれる細菌であり、この細菌は空気中から窒素を摂取して窒素化合物を作ります(稲妻や火山噴火でも少しだけできます)―この働きは「窒素固定」と呼ばれます。

 窒素は、生態系でこのように循環している。クローバーなどの輪作が土壌回復に寄与するのも根粒菌のためだ。歴史的には、根粒菌の窒素化合物の生成が人間の消費に間に合わなかったり、輪作などを行わなかったために土壌が流出していった面もあったりで、土地が痩せていった。痩せた土地や、未耕作だが不毛な土地をなんとか使えればよいのだが・・・と少なくない人間が思ったことだろう。

 ハーバー・ボッシュ法という発明は、この根粒菌くらいにしかできなった窒素固定を可能にする“大気を変える錬金術”、すなわち、空気をパンに変える技術だった。このスゴさ・影響力は、人口爆発に見られるだけでなく、たとえば、本書の著者は言う―いまの人口の半分がこの技術のおかげで食べていけているのだよ。と。

 ちなみに、この技術によって無尽蔵に火薬を生産することも可能となった。肥料と爆薬の化学構造はとても似ているためだ。前述した時代と場所を見て察せられるかもしれないが、もちろんナチスはこれを利用したし、ハーバーとボッシュもむしろ積極的にヒトラーに協力しもした、そのような経緯もこの本では辿られている(「連合国」と呼ばれていた国々がこの発明を実際に知ったのは第2次大戦後のことだったらしい)。人間が科学を食い物にした際立った(科学とは人間臭いものだという)一例がここにある・・・が、その話はここでは措いておきます。

 現在、どうやら、このハーバー・ボッシュ法によって増加した窒素が問題になっているらしい。図書館でたまたま手に取った『日経サイエンス(2010年5月号)』に「もうひとつの地球環境問題・活性窒素」という記事が載っていた。これも参考にしてみると―肥料向けに人間が作り出した反応性窒素(=活性窒素;NOx)の大部分は人間の口に入ることなく環境中に残ってしまう。また「脱窒」と呼ばれる、窒素固定とは逆の働きをする細菌群の活動との釣り合いも崩れてしまった。

 結果、活性窒素が―不活性状態から解き放たれたこの窒素は「自然界でもっとも気まぐれな元素」と呼ばれる―地球上に溢れてしまっている。活性窒素は大気や河川、海へと移動し、汚染物質に豹変し、土壌の酸性化、酸性雨、オゾン汚染、「水の華(アオコなどの有害藻類ブルーム)」や沿岸の「デッドゾーンプランクトンなどが大量発生した酸欠海域、赤潮)」等々、さまざまな問題を引き起こしている。もしくはその可能性が極めて高い。

 バイオ燃料というのも、エコと言うにはためらわれるように思える。なぜなら化学肥料の製造には、化石燃料が使われている。その化学肥料でもって燃料用の穀物(トオモロコシとか)を育てている。あるいは食肉の生産のために家畜に食べさせる飼料のために同じように穀物を育てている。摂取されることなく環境中に残る窒素もやはりあるため、上述のようにそれが汚染物質となりもする。

 窒素という元素名は「窒息させる気体」というところから名付けられた。地球は、人間が造り出した「窒息しそうなほど」と形容したくなるほど大量の活性窒素で溢れていて、栄養過多のために生態系が崩れている―まだ調査・研究は緒についたばかりと言っていいくらいのようだから無闇に言い立てることは憚られるけれども、現時点で見出しうる点だけでも等閑視しがたいということは窺える。

 同時に、反面、この技術ひいては化学肥料は、必ずしも悪とは言えない。劣化した土壌を回復させる効果があることは事実だし、栄養失調や貧困の悪循環から抜け出せない国や地域においては必要なものである―窒素肥料を注入することで農業生産力が向上し人々の健康状態が改善した例もたしかにあるのだ。化学肥料(と農薬)について現時点で考えるべき点は、使い方・使う量にある。


宇宙にぽっかり浮かんだこの“島”で

 モントゴメリー氏は明言する―「化学肥料や農薬を余計に使いすぎだ」、というか「実は必ずしも必要とされるものではない」と。

 たしかに、化学肥料や農薬は農業生産を上げる場合もある。しかし最近の調査によると、いわゆる有機農業に変えても生産力はさほど変わらない、むしろ上がる場合さえ多々あるという。有機栽培はエネルギー効率と経済的利益を共に高めうる、つまり、工業的な農芸化学は社会的な慣習であって、経済的要請ではないと。

 有機農業とは何かといえば、ご存知のように、化学肥料や農薬に頼らず行う農業である。ではその薬の代わりにどういった方法を取るのか―何のことはない、昔から知られている方法だ。たとえば、エンドウマメやクローバーのようなマメ科植物を輪作するとか、休耕とか、厩肥や灰の堆肥だとか、傾斜地の場合は段々畑にするとか、今だとあえて耕さない「不耕起農業」という方法なんてのもあるらしい。

問題は私たちが有機でやっていかれるかどうかではない、そうしていかなければやっていかれないのだ。

 もうこの地球上に未開拓地はないのだから。もともと上記のような昔からある方法を利益重視や面倒臭さから放棄したことで土壌が著しく劣化した。たとえば、化学肥料を施したことで生産力が上がったように見えた場合も、それは土壌が回復したことで、本来もっていた生産力を発揮したがゆえだったり。しかし、回復した後も続けているのは単に社会的な慣習(習慣)がそうさせているのであって、もはや無駄に注入しているだけにすぎない。つまり、農芸化学によって「栄養の添加」になってしまった農業慣行を「土地管理と栄養循環」に引き戻す必要があると、氏は主張する。

私たちが耕土をどのように扱うか―地域に順応した生態系としてか、化学物質の倉庫としてか、あるいは有害物の処理場としてか―は、次世代の人類の選択肢を決定する。

 もう1つここで、「都市化」の問題についても少し触れておこう。モントゴメリー氏曰く―道路の敷設や建物を建築する際、ショベルカーなどで土をある程度取り除ける。そこをアスファルトやコンクリートで覆う。取り除けられた土はどこかに運ばれ、あるいは海などに捨てられたり、埋立地の一部になったりする・・・本来なら耕作に適していたかもしれない土地をそのように扱うのは、環境破壊というより、自分で自分の首を絞めているようなものだ、と。

 この部分を読んでいたとき、先に書いたミミズの印象―夏のアスファルトの上で干からびている姿―がふいに思い起こされた。そこにミミズがいるということはつまり、その近くに、もしくはアスファルトの下に、土壌が(土壌になりうる土が)あるということなのでないのか・・・? そう考えてみると、あの何気ない光景はなにか異様なもののようにも思え、冷たさを感じる。「哀れなのはミミズというより、実はおれたち・・・」という翳がよぎった。

 「自然が遠くなった」という言い方があるけれど、ここに言う“自然”というのは「自然の循環(サイクル)」を意味しているとおれは思う。ミミズが干からびるだけでなく、鳥の糞は車のボンネットの上に落ちるし、食料を求めて山から下りてきたタヌキは車に轢かれ、その死骸は行政に「回収」され「処理」される―これらは「土に還らない」。年に1回降るかどうかくらいの雪が降っても、都市部の人々は喜びよりも交通機関の乱れを心配する。*3

 実際のところ、自然は遠いというよりも、人間が“自然”を遠ざけてきた。

新しい農業の哲学的原理は、土壌を化学システムではなく生物システムとして扱う。化学と遺伝学ではなく、生物学と生態学に基づいている土壌を、産業システムとしてではなく、生態系として扱わなければならない。

 工業としてではなく、生命系として―これが最善策(ないし延命処置)だと氏は述べる。ひいては、農業の非グローバル化の提言。

 何かしら革新的な技術が発明されれば解決されるということはないのか・・・と、ちらと思ったりもしたけれど、その期待は捨てた方がよい。モンゴメリー氏的に言えば、それは「科学技術が生活を改善すると信じる」前世紀的発想とのこと。

 もしそのような発明がされたとしても、それは生産性と共に、さらに強い消費性や土壌の侵食を生み出すことになる。資源が生成されるよりも速く消費されてしまうという問題を技術では決して解決できないし、生産力を維持するために土壌肥沃度の欠乏を埋め合わせることはできない、ということは歴史が物語っている―本書では灌漑や鋤、鉄の使用など、今まで「よき物」と思っていた道具や技術がそうした例として出てくるためにたまげる。アスワンハイ・ダムの話は池澤夏樹の『パレオマニア』で小耳に挟んでいたけれど、あれはもはや皮肉としか言いようがない。クレオパトラも笑う。

 ところで、最近は太平洋諸島の文化人類学的成果が出始めたのだろうか・・・?『銃・病原菌・鉄』でも採りあげられていたけれど、この本でもメラネシアなどの人々の歴史から人間の社会に対する考察が述べられており、イースター島の歴史(これが非常に恐い)や、いくつもの集団があった島と1つの集団に止まった島との対比などがなされている―著者は地球を“島”に喩える。しかし著者自身が言うように、この考察から、希望はちょっと見出し難い。

 残念ながらこの本には、最善策・目指すべき方向は提示されていたけれど、「ずばり解決策」と呼べるものは示されていなかった。現時点では見当たらないのかもしれない。ただ、一つはっきりしたことは、教育や医療と同様、農業は「市場原理で測ってはならない」ということである。しかし世界は市場原理が席捲している。化学肥料や農薬、農業機械などの産業・企業が「じゃあ減らします」となるかといえばそうもいかないだろう。

 最近の例で言えば、日本の農業に変えるべき点は少なくないのだろうが、TPP騒動は、自動車などの産業と農業を同じものさしで測ろうとすることによる摩擦から生まれているように思える。


言及されていない、とある点

 以上、『土の文明史』に『ミミズと土』と『大気を変える錬金術』(ないし窒素)を絡めながら概観してみた。

 もちろんこれはごく一部に焦点を当てながらの全体の概略であって、『土の文明史』自体ではもっと詳細にいろいろと検討されています(できれば本書に直にあたった方がよいです)。また、生態系とか人間というのは物理学の用語で言えば「複雑系」の話であり、本書は「土をキーワードにして」歴史を読み解いた本である。だからたとえば、「窒素だけが問題」ではないし、土壌が歴史を動かす“引き金”というわけではない。しかし、土壌が人の営みに欠かせないということ、生活ひいては文明を多分に左右してきた/いるといったことは一つの厳然たる事実だと、本書を読めば恐ろしいほどにわかるはず。

 ところで、実は読中、何かが足りない気がしていた。足りないというより、何かキーになる点がスルーされているような気がして引っかかるものがあった―それは土に“直接”かかわるものではないかもしれない。だから著者は触れないことにしたのかもしれない。

 先に不在地主の話が出た。「地主とか(今だったら、企業の上役とか)ホントろくな奴じゃないな」と思うのは簡単なのだが、ちょっと考えてみる・・・「自力で食料を生産していない」「安ければよしと、財布にやさしい(=経済的な)ものを求める」「農業の如何はお任せ」といった点で地主に似通っているところがあるような場合、実際には自分自身だって地主と大差ないということにはなるかもしれない。

 不在地主の意識にすっぽり欠けていたものは何か。それは未来である。言葉を変えれば、子孫の存在である。

 本書ではしばしば、そのときどきの科学者や調査員などの報告書やレポート、演説などが引用される。そこによく出てくる言葉は「子孫に負っている義務を忘れてはならない」とか「将来の世代の利益に大きな問題が起こる」とか、そういう警句だ。モントゴメリー氏自身も「未来の世代のために繁栄の基礎を保つには」と注意を促したりしている。著者は歴史を繰り返させないためにも、その一助となればと思い、この本を執筆したのだろう。

 しかし今の時代、“子孫の存在”を頭に入れてものを考えたり判断したり、行動したりしている人というのは、どのくらいいるのだろうか・・・。前述したように、土壌の劣化と侵食は人間の尺度からすると遅々としていることが多い。「多い」としたのは、どうやら今は技術革新のおかげで土壌搾取のスピードも格段に上がっているために1代で使い切ってしまう場合もあるようだから。いずれにしても現在は、本書に書かれているような歴史以上に、子孫の存在が“希薄”になっている時代、のように思える。

 たしかに、一口に「未来」と言っても、たとえば安部公房の『第四間氷期』やカート・ヴォネガットスローターハウス5』、テッド・チャンあなたの人生の物語』といったけっこう有名なSFを読んだだけでもさまざな「思考実験」を垣間みることができる。アフリカを扱ったルポルタージュ文学『黒檀』(カプシチンスキ著)などを読めば、「時間の概念」が決して一様ではないことを知る。となると、子孫の存在の捉え方に対してもその正否はいろいろなかたちを持つことになるかもしれない・・・

 つまり、「子孫のため」「未来の世代のため」と言ったところが説得力のほどはそれほど望めない、土を守る“動機付け”としての作用は期待しがたい、そのように思えてしかたない・・・けれども、ならば子孫の存在は無視してよいのだろうか・・・答えに窮してしまう。

 ただ、土の問題は、やはり重い。この重さには、いま生きている自分たちがこれから先ちゃんと食べていけるかどうかといった点はもちろん、子孫とか未来の世代とかの存在があることも1つ、あるような気がする。

 3.11の福島原発問題は、原発が爆発しなくて「最悪の自体は逃れた」と政府もマスコミも言っていた。たしかに、それは間違ではない。しかし放射能は漏れた。結果、確認されているだけでも狭くない範囲の土壌が汚染された―土壌汚染が起きた時点で(ましてや放射能だ)、実はすでに、最悪の事態と言えたのだ。


おしまいに―2つの言葉

 「土の問題」は、身近で根本的な“食”に関わる密接な事柄であるため、危機感を抱く。しかし同時に、いろいろとスケールがデカい話でもあるためにどうしたらよいのかわからず、惑う―もともとおれの気質がペシミストというのも手伝ってか、焦りというかジレンマ、憂鬱、果ては諦めのようなものを随所でもよおし、気が滅入ることもしばしばだった。

 読後「一体どうしたものか・・・」と打ち沈んでいた。

 そんな折り、あらためて思い起こされたのは、日本語特有(?)の言葉だった―「いただきます」と「ごちそうさまでした」。そもそも『土の文明史』をおれが読むに至ったのは、「いただきます」という言葉にひとり合点したことがきっかけでもあった。

 おれたちがいま多種多様な食材、ないし料理を味わえ、栄養を得られるのは、先祖たちがたゆまず栽培植物(や家畜)を育て続けてきたからである。中尾氏曰く「生きた文化財、これすなわち栽培植物」。

 連綿と続いてきたそうした人々の営みのなか、文明発祥以前から、作物のグローバル化はスゴかった。文明発祥以後にしても、その土台には農業があり、同時に、農業は環境の産物でもある。ダイヤモンド氏はそれが人類の歴史に与えた“根本的な影響”を検証してみせた。

 あるいは常に、そこには土があった。土がなければ人は最低限の食べ物さえ得られない。土壌を喩えてみれば、人間のそれよりも薄い「地球の皮膚」であると―そのごく薄の層は生態系に支えられており、人間の生活を支えているのだと、モンゴメリー氏は説いた。昔も今もそれは変わらない。

 作物ないし栽培植物は、“先祖たちの汗(or血)”と“土”の賜物なのだ。

 「いただきます」と「ごちそうさまでした」という言葉にはそうした時空を孕んでいるように思えるし、ひいては“先祖たち”と“土”に向けられる“祈り”にも似た言葉でもあるように、おれは思う。

 また、“祈り”という点で思い出されたこともある。これは祖父(とその兄弟姉妹協働)の稲刈りを手伝った際に抱いた考えなのだけど、“お祈り”をする気持ちと“お祝い”のそれとは底の方で深いつながりがあるのではないだろうか。収穫の喜びにちょっとした宴が催され「ほらほら神さまたちも参加してよ」とノリで思ったりとか、嬉しさ余って何かに感謝したくなったりとかで、自然とお祝いがお祈りを誘発したのではないだろうか・・・?そんなことを、おじじ・おばばと談笑しながらふと思ったのだった。

 この仮説も思い合わせてみると・・・「いただきます」と「ごちそうさまでした」という言葉には、「食べ物がここにあることに対するお祝い」ひいては「食べる喜び(嬉しさ)」も秘められていたりするのかもしれない。生きるとは、食べることである。


 とにもかくにも、この2つの言葉を食前・食後に(1人のときでも)忘れないようにする。*4無意味な、もしくは迂遠なことかもしれないけれど、気を滅入らせてひとり諦念に安住しようとする前に、まず、そこから始めてみる―この2つの言葉(とその心)を大事にしよう/しなければと、あらためて胸にした。



土の文明史

土の文明史

*1:ただし現在の食料生産量は世界の人口を養うに十分であり、にもかかわらず飢饉がなくならないのは輸送システムの偏向ゆえ。

*2:(先行)とありますが、本エントリーも含め、それぞれ独立したエントリーです。

*3:アルファルトがひび割れてその隙間から草が茂るとか、打ち捨てられた家屋が木や蔦に覆われ、取り込まれるとか、これは“自然”の姿。

*4:語源は問題じゃない。この言葉が広く浸透してきたという点が大事。