第1回:『ウンラート教授』ハインリヒ・マン


 これは一種のピカレスクものか、復讐劇か、それともだめ男の話か。副題は「あるいは、一暴君の末路」。

ウンラート教授―あるいは、一暴君の末路

ウンラート教授―あるいは、一暴君の末路

 中学生のときに所属していたサッカーチームに「うこん」という名のコーチがいた…はい、いま「うんこ」と読み違えた方、もしくは連想した方、いらっしゃったことでしょう。隠すことはない。おれ自身、はじめてその名を聞いたとき内心苦笑したものだった。チームの皆はというと、おれ以外にも「うんこ」と思ったやつは絶対いただろうが、「うんこコーチ」などと口にする者はいなかった。ちなみに「うこん」は「右近」という字を当てる。

 というわけでいきなり尾籠な話から入って恐縮ですが…と断わる必要をいまおれが感じたのは、「うんこ」のような言葉は、一般に口にするのが憚れたり控えられたり、汚い、ないし下品な言葉だとされているからだ。しかし一方で、人はエロやスカトロなどいわゆる下ネタを好むものである。世界には多くの言語が存在するけれど、よく見られる共通項として、たいてい下ネタ系の語彙が豊富というのがあるらしい。だから普通の単語が別の言語では下ネタになってしまったりすることも少なくない。(※「みきみきつんぱ、かるていは?『パンツの面目 ふんどしの沽券』」参照)

 そういう機微は逆手に取れば、たとえばセリエAで活躍中の長友はチームに溶け込む手段として下ネタを積極的に使ったというように、優れたコミュニケーションツールとして役に立たせることもできる。もしくは、しばしば相手を貶す手段としても用いられる。

 ウンラート教授の勤めていた中学校(ギムナジウム―いまの日本でいえば中高一貫校みたいなもの)では、後者だった。教授の本当の名は「ラート」という。この名に「ウン」をつけて「ウンラート」、すなわちドイツ語で「汚臭」とか「汚物」とかいう意味の言葉となる。彼は20年間この学校で教鞭を揮ってきたが、その間このあだ名は一貫して不動の地位にあった。

 ウンラートはそれを笑って受け流せるおおらかな人間じゃない。長い教員生活もあいまって彼にとっては「学校≒社会」であり、生徒たちを宿敵として扱う。“権力”を持つ者として生徒たちに対峙し、処罰を与えようと虎視眈々。また、この中学校のある小さな町にあっては卒業生たち―かつて彼のことを「ウンラート」と呼んではからかったり蔑んだり楯突いたりした教え子たちが、わんさと暮らしている。町に出ればいつどこから「ウンラート」という言葉をぶっかけられるかわからない…と、ウンラートの生徒たちへの憎しみはそのまま人間一般に対する憎しみへと敷衍される。

 あるいは「名は体をなす」と言ったりするけれど、ウンラートの場合これが如実で、その風采は不精で不潔。かつて生徒だった男たちのなかには彼を見て「昔はもっと清潔だったが…」と訝しむ者もいるほどに。実は、卒業生たちの側からすると、彼を傷つけようとしてではなく、学校生活の思い出を懐かしむ他愛ない気持ちからこのあだ名を口にしていたのだが、小心者で強情、また嫉妬深くもあり、疑心暗鬼に染まっているウンラートはそれを知らないし、彼の目にそうとは映らない。

 物語は、現在ウンラートが受け持っているクラスの生徒ローマンのある一言で口火が切られる。理知的でシニカルな生徒であるローマンは、反抗表明としてむしろ「ウンラート」などと呼びさえしない。そんな彼が、ある日の授業中に起きたひと悶着の際、口にするのだ―「ここではもう勉強できません、先生。ウンラート(汚臭)がきつくてたまりません」。

 ウンラート教授…パニック!(ちなみに彼はよくパニクる。)さらには、没収したローマンのノートにはある女性を詠った書きかけの「破廉恥な詩」が書きつけてあったのだった。一読したウンラートの顔は桃色、次いでこれをローマンを「とっ捕まえる」絶好のチャンスと思い直した彼は、詩を頼りに「青き天使」という名の大衆酒場(?)に行き着く。女芸人フレーリヒの登場である―“外から来た者”であり、かつ自分と“同じ領域”にあるとウンラートが見なすことになる、奔放でコケティッシュな女。こうして、この物語を左右することになるウンラートの妄想的三角関係がにわかに生じる―

 さて、いま「妄想的」という言葉を使ったのは、先の「ウンラートは卒業生たちの抱いている気持ちを知らない」というのもそうなのだが、ウンラートの“勘違い”に由縁するから。この小説のミソは心理描写である。ウンラートに限らず、登場人物たちが互いに互いの心理を読み違えて、誤解が生まれ、それをまた読み違え、誤解して…という様子が読んでいておもしろい。いわゆる「神の視点」で描きながらも、演出家としてのそれではなく、いわば記録係のように書き手はそこにいて、ウンラートたちをありのまま描写しようとしている。

 そういう心理描写を通しながら、ウンラートという人物を中心にして底のほうで問われ続けているようなのは、権利や、芸術至上主義に対する懐疑だったり、あるいは(道徳論議はないけれど)道徳をめぐる人間模様だろうと思われる。ある場面でウンラートはフレーリヒに向かって以下のように語る。

私は……まこと……よく知っているのだ。道徳と呼ばれるものは大抵、愚かさとごく密接に結びついている。この点を疑うことが出来るのは、人文的教養を持たぬ輩ぐらいのものだ。とはいえ、道徳は、これを意に介さぬ人間にとって有益だ。これなくしては生きられぬ者どもを容易に支配出来るからだ。それどころか、巨民根性の持ち主どもには、いわゆる道徳を厳しく躾けねばならぬ。(中略)だが、……いいかね!……こうして道徳を求めながら、私は一度として忘れはしなかった。低劣な俗物の道徳とはまったく違った、別の道徳的要請を持つ人びとが存在しうる、ということを……。

 ウンラートにとって、道徳とは自らの“権力”を保証する道具やシステムにすぎず、また“別の道徳的要請を持つ人びと”にはウンラートはもちろん、フレーリヒも属すと考えている。そして実は、彼とは対立関係にあるローマンも、道徳を「敗者の永遠の逃げ場」と捉えている…つまりウンラートもローマンも「道徳なんかクソッタレだ」という点では一致しているのだ。たぶんそれゆえに、自分の志向に呼応する「アナーキスト」的な匂いをウンラートに嗅ぎつけてもいるローマンは、彼に対してときに同情や共感をうっすら覚えたりもする。一方でウンラートは、「ウンラート」という名をやがて自ら名乗るようにさえなる。

 「道徳」と聞くと眠くなる人もいるかもしれないけれど、しかし道徳に無自覚でいるのはときに危険でもあると思う。冒頭で述べた「うんこ」をめぐる話は、道徳をめぐる話でもある。無意識のなかに潜んでいるものだし、思考はもちろん感情も左右する―道徳に上も下もない。決して一様ではないし、不変でもない。社会や時代によって形成され変容してゆくものである。

 たとえば、太平洋戦時下にあっては「国ために命を捨てる」ことは疑いのない善であり、なにより正とされていた。古代においては性器は神聖視されしばしば神話や彫刻、絵画などのモチーフともなり積極的に描かれていたようなのに、現代では―「ち」で始まる男性器は辛うじて言えても―「ま」で始まる女性器を口にするのに抵抗を覚えるのは、一体なぜだろうか。

 道徳という暗黙知によって社会の安定が保たれ、人は守られている。それはそれとして、同時に、縛られてもいる。道徳によって抑制されているものには、ときに抑制されている分だけ効しがたい魅惑や暴力が宿るのも事実だろう。意外に先が読めず二転三転する展開のなか、ウンラートの妄想的三角関係の内で憎しみと愛によって醸成された「汚臭(ウンラート)」は小さな町に充満するようになってゆく…しかしそれは、人々がこの「汚臭」に甘美な魅惑を嗅ぎ取ったがゆえでもあると思う。町の人々の様子はどことなくヒッピーを思わせもする。
 
 そして一方で、道徳を舐めてかかると足元をすくわれる…あるいはウンラートの如く。