無題(読書感想メモ)

下りの船

下りの船 (想像力の文学)

下りの船 (想像力の文学)

「歴史は繰り返される」的な物語に気持ちは下ってゆくけれど一方で、読み心地がたまらなく良い。同じフレーズの繰り返しや、いろいろな角度からの、視点からの点描、そこから生まれる静的でいてたしかな動きのあるイメージ、あるいはその重なり…物語そのものも、この小説のもつ「反復」のうちの一つと言えなくはないかもしれない。「ミニマル音楽を読んでいた」とでも言いたくなるような、希有な読書体験だった。

麦の海に沈む果実

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

色と光。あの灰色の世界にあって色彩はむしろ不穏で、不気味さを滲ませてて、というのも何か事が起きる直前には色か光が際立つ。降霊界のロウソクの灯、ワルツでの色彩乱舞、例の赤い本、青いバラのコサージュ…湿原が色づき、空は晴れ間を見せるようになる反面、理瀬の心は不安定になってゆく。そして、灰色の(あるいはそうであるべきだったかもしれない…?)世界がラストで塗り替えられるその様は、水墨画を電飾と絵の具で突如彩色したかのようにグロい。シビれた。

猫のゆりかご

友達に貸しほしいと言われ快諾した…途端、無性に読みたくなり慌てて再読。初読時と印象が違った。やっぱり愉快に読んだものの、しかし今回は痛みとやるせなさに終始つきまとわれて、いささか参った。たとえば、宗教も技術も科学も、それ自体は「悪」でも「害」でも、あるいは「罪」でもない。堕とすのは人間。で、ボコノンは言う「ボコノン教で神聖なもの、人間さ、それだけだ」。悲しすぎる皮肉と優しさ。

スローターハウス5

「そういうものだ」というフレーズが以前に比べて妙に鬱陶しく感じられて正直、げんなりした。が、このトラルファマドール的常套句は、死の度に口にされる。つまりこのフレーズの数は死の数でもあり(ときに人とは限らないが)、この辟易具合はもしかすると…「わたし」の戦争に対する気分に近いのかもしれない。「わたし」は、しかし「そういうものだ」と嘯き続け、決して欠かすことがない(たとえそいつの死が何回目であろうと)。実にトラルファマドール的ではないね…と、読後に気づき、ハッとして胸、抉られた。

ロリータ

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

再読。あのとき売っちゃってなくてよかった。

カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

例えばロビンソンのように、無人島に一人打ち上げられてしまった、そして共に流れ着いたのは聖書ではなく『カラ兄』だった―なんてことがあったとして。もしかするとそれは、恐ろしく不幸なことかもしれない。読まないほうがいいかもしれない。なぜなら、この小説から得られた感動の分だけ突き落とされてしまうかもしれないから。/再読。夢中になっててすっかり忘れていたが、ローズウォーター氏の言。*1 上記の空想を思い起こさせた実感が「人生において知るべきこと」、もしかすると「すべて」でもあるかもしれない。ここが無人島じゃなくて、よかった。

*1:スローターハウス5』のとある場面…
あるときローズウォーターがビリーにおもしろいことをいった。人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこう付け加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。」