第8回:『東インド会社とアジアの海』羽田正

 緯(よこいと)で立ち上がる世界史―あるいは歴史叙述とか「グローバル社会」とか。

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

 唐突だが、400年前の日本列島にはまだ「日本」はなかった—と言うとちょっと不思議な感じもするけれど、当時の日本列島は江戸幕府成立直後、しかし同じ日本列島であっても北海道にも沖縄にも江戸幕府の手はまだ届いていなかった。たとえばそういう意味で、現在の「日本」と当時の「日本」は必ずしも一致するわけじゃない。

 17世紀初頭の世界地図を眺めてみると、「日本」だけでなく「アメリカ合衆国」も、「中華人民共和国」も、「ロシア連邦」も「大韓民国」もなかった。というよりその実、どこを見てもいまある「国家」は1つもなかったし、国と呼べるものはあっても国境はしばしば曖昧だった。技術的な面で言えば、電気や自動車はもちろん、鉄道もまだない。当時地球上で一番速い乗り物は、馬だった。現代とは様相を異にする17世紀の世界は、あるいは各地がバラバラに時を刻んでいたかのようにも見えるかもしれない。

 しかし、人の移動や商品の流通という観点から見てみると、ごく一部を除き世界の大部分はこの時点ですでに1つにつながっていたらしい。その様子を窺えるものとして日本史的な例で探してみると…この頃に支倉常長伊達政宗使節として太平洋横断、アカプルコ(現在のメキシコ)経由でローマ教皇に謁見しているし、天正遣欧少年使節団の派遣は常長より30年ほど前の話である。岩美銀山(因幡銀山ー現在の鳥取県)の産する銀は海を越えて、貿易の商品ないし媒介となって広範囲に行き交っていた。

 数年ぶりに再読した。本書はタイトルにあるように、アジアの海を舞台に活動した東インド会社の興亡を通して世界全体の歴史を描いてゆく、あるいは「人とモノのつながりに注目して世界の過去を眺める」ことを試みた意欲作である(ちなみに東インド会社は一つではなく、またここに言う「アジアの海」とは西は紅海・アラビア海からインド洋、東は東シナ海あたりまでを指します)。時は17世紀〜18世紀、北西ヨーロッパで東インド会社が設立された頃から、この会社が歴史的使命を終えて解散してゆくまでのおよそ200年間。

 人の移動と商品の流通によってアフリカや新大陸も含めた世界全体が緊密につながるようになって、人類が地球規模でほぼ一体化したのは16世紀になってからのこと、17世紀にはすでに一体化していたのだという…この「一体化」を指して「グローバル化」と言えなくはないというか、ざっくり言うと、そういう意味では17世紀初頭と現在に違いはないとも思える。でも、17世紀と21世紀の間にはやっぱり根本的に違うところがある…この問は転じて「グローバル化、ないしグルーバル社会とは何か」と考えてみることもできるかもしれない。

 そして、 こうした問に答えるためには、従来のようにひとつの国や地域の歴史を辿ってみても十分ではないと著者の羽田氏は説く。「世界全体を一つと見なしてその歴史をまとめて振り返らなくてはならない」…語弊を恐れずに言えば、要は「従来の世界史を書き換える」と言っているのである。同じく羽田氏による1年前に出た『新しい世界史へ』(以下、『新世界史へ』)を読んでいたこともあって、今回はこの「歴史叙述」という面も個人的には読みどころで、興味深く読んだ。

新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)

新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)

 ところで…歴史叙述なんて用語を使うとやや堅い印象を受ける人もいるかもしれないけれど、個人的には必ずしもそうではないと思っているので、参考程度に、おれ自身がこの点に興味のある理由を端的に2つ3つ述べておきます―まず単純に、もともと歴史が好きだから。一方で、いままでのような国別・地域別、もしくは時系列的な歴史に物足りなさや不満を少なからず感じてきたから(そして本書は、この物足りなさにかなり応えてくれた1冊でもある)。

 いま1つは、歴史叙述とは「(現在に過去を)語り伝える方法」の1つだと捉え直してみれば、それはごく身近な話にもつながるようにも思うから。たとえば「ブログを書く」という行為。言葉や文字によって何を、誰に、いかに伝るか、どのように語るか―歴史叙述云々とはそういう話でもあると思う。


 閑話休題。著者は17〜18世紀の世界を多方面から活写してゆくと同時に、ときに「歴史的常識」にメスを入れてゆく。『新世界史へ』で言及されていた点で言えば、「関係性と相関性の重視」や「中心史観からの脱却」といった志向は本書執筆時点ですでに意識されていたことがよく窺えるし、「新しい世界史」にとくに有用な方法として挙げられていた「環境史」「モノの世界史」「海域世界」の3つのうち、後者2つが本書には同居している。これらに+αで、とある人物の行動や生涯、必要に応じて時代を一旦遡るといういわば「前代史」等々と方途は雑多かつ多岐に亘っていて、また舞台回しの役を演じるのは東インド会社であるから、ひいては会社史の要素も多分にある—会社史を軸に据えたことは慧眼!

 たぶん、会社史はそう遠くない将来大きな意味を持つようになる分野だと思う。経営は隠遁できない。社会や世相、時代…嫌でも世の中と向かい合っていなければならない。会社史にはだからこそ―とくにその会社の活動域が広いor「境界」を股にかけたものだと―人物史・各国史と、モノの歴史との中間的な形式というか、合の子的なおもしろさが出てくるように思う。もしくは、伝記よりも旅行記・見聞録の性格にちかいとも言える。旅行記を読む際に旅人その人のことを知らなくても支障がなかったりするように、会社史もその会社にとくべつ関心や興味をもっていなかったとしても意外に楽しめたりする。例を挙げると、ast15さんが去年の「今年読んでよかった本」の一つに挙げていらした『思想としての「無印良品」』がその好例。これもまたとても興味深い1冊です(以下、『思想無印』)。

思想としての「無印良品」? 時代と消費と日本と?

思想としての「無印良品」? 時代と消費と日本と?

 この本は1980年にセゾンのPV(プライベートブランド)として始まった無印良品の沿革を、経営面ではなくて、企業理念や商品に共通するコンセプトなどに見られる思想面から捉え直した報告書(というのは出版を前提に執筆したわけではないようなので)。設立時「実はカウンターカルチャーだった」無印良品はどのように時代に対応してきたのか、もしくは逆に、社会に対してどのような働きかけをしてきたのかといったことを、思想と、設立当時からおよそ30年間における日本の社会・世相とのあいだを行ったり来たりしなが検討してゆく―この「行ったり来たり」という運動が大事。

 『東インド会社とアジアの海』の場合は、東インド会社よりも“アジアの海”のほうに力点がある。とはいえ、『思想無印』と同様に両者のあいだを往復することで、東インド会社がリトマス紙のような働きを得て「アジアの海」を描き出すのにいい活躍を見せる―たとえば、おれたち日本人は出島に出入りしていた当時のオランダ人たち(東インド会社の社員たち)に対して比較的好意的な印象を持っているか、少なくとも悪者だとは思っていない。一方、インドネシア人にとっては同じオランダ人が悪者・敵となる。実際、かつてオランダ東インド会社の拠点になっていたバタヴィアは、出島が観光地的に整備されているのとは対照的に現在はスラムにちかい有様でうっちゃられているという。どうしてオランダ人に対してこうも印象が違うのだろうか。あるいは裏を返して、どうしてオランダ人たちは場所によって異なる態度・行動を取ったのだろうか。

 「何より利益を優先すべし」という社の方針に照らしてみると、この点では実は、オランダ人たちが一貫していたことがわかってくる。「金儲け」のためにも、彼らの態度や行動は自ずと場所によって変わってきた。つまり、そこに当時の日本列島とインドネシア諸島部の様子を透かし見ることもできる。そして、そこにもう一歩、踏み込んでみると、「陸の帝国の論理」というものもまた垣間見えてくる。

 「陸の帝国」とは、当時の3大帝国―ムガル帝国サファヴィー朝ペルシャオスマン・トルコーをはじめとしたインド洋沿岸を支配していた王朝たちのことで、その論理は「領地ではなく、人を支配する」ことにあったという。これらの帝国・支配者たちは、税をきちんと納めさえすれば、たとえ「外国」からやって来た商人だろうが、港での彼らの活動にとりたてて関心を示さなかったらしい。また治安が安定して貿易も盛んになり、ひいては税収も安定するといったように判断すれば港の統治権や徴税権を自ら与えたりもした。政治面でも、ムガル帝国ではイラン系をはじめインド亜大陸以外からやって来た人物が重要なポストに就くことが珍しくはなかったし、シャム(現在のタイ)にあったアユタヤ朝では山田長政が相当なポストを得ていたりした。

 つまり、「陸の帝国」の論理には、自国民/外国人というような「内と外の区別」はほとんどなく、宗教やエスニシティーが問われることもとくになかったらしい。そのため、インド洋海域はいわば「経済の海」であり、一種の自由貿易地帯だった。一方で同じ「アジアの海」でも、明・清の海禁や江戸幕府の「鎖国/四つの口」に窺えるように、東シナ海沿岸では「陸の帝国」とは異なり海を含めた領域支配、ないし「内と外の区別」をつける論理でもって支配するのがふつうだった。東シナ海は「政治の海」だった。少し遡って室町幕府勘合貿易と、ポルトガル東インド会社の始めたカルタスとが似た発想であることを思い合わせてみたりすれば、北西ヨーロッパと東シナ海沿岸は地理的には遠く離れていても、同じ「海の帝国の論理」の支配する世界だったと言うこともできる。

 この「陸の帝国」の論理というやつは、はじめて読んだときにもとくに印象的な点だった。高校の世界史で「強者と弱者の論理」で説明されて違和感というか不可解さの残っていたオスマン帝国のカピチュレーションはもしや、こちらの論理に依るところが大きかったんじゃないだろうか…なんて思ったりした覚えがある。また、後々の歴史を鑑みるととりわけ興味をそそられる点でもあって、近現代史的には「陸の帝国」は「海の帝国」の後塵を拝すような格好になっていったけれど、現在はと言えば、いわば「海の帝国」だった国々・人々がある種「陸の帝国」化を目指しているようにも見える…つまり、在り方というか論理としては、どちらかと言えば「陸の帝国」のほうが「グルーバル社会」と呼ばれる現代に適したスタンスのように思えたりもする。で、ところでじゃあ、そもそもグルーバル化、ないし「グルーバル社会」って何だろう?という疑問が今回はしばしば脳裏を過る。


 白状しますと、おれは「グローバル化(グローバリゼーション)」ということをいままであまり深く考えたことがなかった。で、直訳が「地球規模化」であることに引き摺られてか、空間的、いや平面的な意味で捉えていたように思う―「国境が意味を成さなくなってゆく」とか、「一つの空間にいろいろな国の人々・人種、モノ、文化が混じり合う」というような「異種混淆」ほどの意味のみで受け止めていた節があって、しかしこれは、グローバル化というよりも「国際化(インターナショナリゼーション)」である。国際化もたしかに「グローバル社会」の一側面ではあるだろうが、決定的な要素でもないかもしれない。国際化がそのままグローバル化ということになるなら17世紀の世界も立派な「グローバル社会」だと言えなくはない。

 もしくは、情報化。これは「情報の氾濫」とか「データベース化」ほどの意味だとしての話だが、国際化と同じように「グローバル社会」の特徴であるだろうと同時に、本書を読んでいるとこの点もやっぱり、決定的ではないように思う。国際化にしても情報化にしても、あと「他人との繋がり方云々」なども、梅干しを見たから唾液が分泌された、みたいな、作用ではなく反応というか、「二次的に意味を増した現象」という感じがする…もっと、こう、「グローバル社会」たらしめている決定的な要素が何かあるんじゃないか。

 市場原理はどうだろう…この装置が世の中に定着していったのはちょうど『東インド会社とアジアの海』で扱われている200年のあいだのことらしい。というのは『入門経済思想史 世俗の思想家たち』によると、経済は昔からあったが、「経済学」という学問、「経済学者」という人種は「市場システム」が定着することではじめて出現したものであり、アダム・スミス以前には存在しなかったのだという―ちなみに、この本はなむさんにオススメしていただいたものです。これがまた、すこぶるおもしろい。

入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫)

入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫)

 人類は何世紀もの間、実務の世界が政治的・社会的・宗教的生活と渾然一体となっていた世界にあって「伝統(慣習)」と「命令(権力の鞭)」という2つの方法によって社会を運営してきた。そして、歴史的にはごく最近になって、3番目の方法―市場システムという方法が発見された。市場システムがゆっくりと、しかし着実に定着してゆくなか、「利得」という概念もまた根付いてゆき、「経済人」が生まれくる。しかし問題だったのは、市場システムが伝統や命令よりもはるかに優れた方法/装置であることは感覚的にわかる反面、その実態も、先行きも実はよくわからないことだった…

 ざっくり言うとこういう次第で、そこに登場したのが「経済学者」たちだったのだという―18世紀の話。アダム・スミスをはじめ彼らは、それぞれに、まずもって「経済思想(ヴィジョン)」を打ち出してきた。そしてその「ヴィジョン」は人々の意識や行動に、政治家や軍人の言動よりもはるかに決定的な影響を及ぼしてきたのだという。 では、彼らの「ヴィジョン」とはどんなものだったのだろうか…? というわけでこの本は、何人かの偉人的経済学者たちに焦点を当てて、彼らの人生や当時の社会的背景を織り交ぜながらこれを解き明かしてゆく。

 アダム・スミスが『国富論』を出版したのは1776年―ちょうど東インド会社がその歴史的使命を終えようとしていた頃である。また、「グローバリゼーション」という言葉が一般により膾炙したのは1991年のソビエト崩壊以後らしい…つまり市場主義経済がいよいよ地球規模で席巻!という頃。市場原理の存在は400年前の世界と現代とで大きく異なる点かもしれない。


 ところで、話を少し戻します。先に触れた『思想無印』では、「百貨店と動物園と万博は出自が同じ」という話が印象的だった。『鉄道旅行の歴史』という本によれば、蒸気機関車の発明と実用化が人々の知覚を激的に変えたのだという―冒頭で軽く触れたように、17世紀初頭はもちろん19世紀初頭まで、一番速い乗り物は馬だった。蒸気機関車によって「風景が飛ぶように流れてゆく」スピードで移動するようになると、馬のときとは違って、近くの一点に視点を止めていられない(そんなことしたら目が回る、酔う)。このとき人々は、景色を「パノラマ的に」見るようになった。そうした空間の捉え方がたとえば購買意識にも影響して、それまでは専門店を1つ1つ回るのがふつうだったところに、あらゆる商品が1カ所に集められ一望させる百貨店が生まれ、そしてヒットした。動物園も万博も「広範囲に散らばっているものを1カ所に集めて一望させる」という同じ原理によるものであり、この3つがほぼ同時期に生まれたのは決して偶然ではないのだという。

 試みに、この「空間の再編成」について敷衍させてみれば、冷戦時の宇宙開発競争において有人宇宙飛行が実現した結果「地球を外から目にした」ことも―この場合は“実体験”したのはごく一部の人間とはいえ―人々の空間意識を激的に「再編成」したのかもしれない。もしくは「深海を除けば、地球上に人跡未踏の地は残されていない」という認識。いずれにしても、現代は「地球」という単位が意味をもつようになった時代と言えるかもしれない。
 
 空間ときたら、時間も考えておきたくなる。で、実は『思想無印』を読んだとき、蒸気機関車がもたらした作用で見逃せないと思った点がある。移動速度の変化、つまり「時間の短縮」だ。『東インド会社とアジアの海』を読みながらピンときたのもむしろこっちだった。19世紀当時の「空間の再編成」にしても「時間の短縮」によって引き起こされた事態だろうし、ごく一般人の感覚的にもこの「時間の短縮」のほうがより実感としてわかるものだと思う。

 東インド会社の活動域は、たしかに広大だった。けれども同時に、ヨーロッパからインド亜大陸あたりまでは片道およそ8ヶ月、順調に行っても往復で2年前後…そのくらいの時間は費やさなければならなかった。しかるに、蒸気機関車登場以降「科学の世紀」と呼ばれる20世紀を通して自動車や飛行機などが発明、実用化されてゆくに伴って、移動速度はさらにぐんぐん増していった。その度に「時間の短縮」が起こってきたはずである。

 そして、思えば、電話普及以後の世界はそれ以前とは違って「乗り物の速度を超えて情報が伝播し、行き交う」世界になったのか…と、今更ながら気づく。そしてネットが普及した現在における、たったいま地球の裏側で起きたばかりのことをごくごく普通の人が数秒後・数分後には知り得るという、この速度。この高速さについて冷静に考えてみても実は言うほど驚きを覚えないという事実。むしろ、ネット注文した商品が翌日か2日後ではなくもう少し経ってから届いたときなんかに「ちょっと遅いな」と感じてしまうこの感覚。
 
 現代社会という意味での「グルーバル社会」を根っこで規定しているもの、あるいは17世紀の世界との根本的な違いは、地球という単位と、(市場原理とインターネットによる?)時間の変質ー「圧縮された時間」かもしれない。そんなことを思った。