第9回:『渋滞学』西成活裕

 
 渋滞は、でもやっぱり巻き込まれたくはないね。

渋滞学 (新潮選書)

渋滞学 (新潮選書)

 渋滞と言うとふつう車のそれを指すけれど、世の中にはいろいろな「渋滞」がある。大勢の人が一時に同じサイトにアクセスしたりケータイで電話をするとパケットや電波が輻輳、つまり「渋滞」してとても繋がりにくくなる。心不全によって心臓の動きが悪くなると血液がうまく流れず「渋滞」を起こして、放っておくと鬱血してしまうし、血管内部にコレステロールが溜まって径が細くなると酸素を運ぶ赤血球が通りづらくなり「渋滞」が起こる。死蔵と言えるような貯金はマネーフロー的には「渋滞」。頭や心も「渋滞」と呼べる状態があるかもしれない。

 渋滞という現象はいわゆる「複雑系」である。複雑系は、様々な要素が多重に入り混じって組み合わさって、それで起こる物理過程が複雑すぎるので、要素一つひとつの働きや効果はわかっていても、未来/結果を予知できない。つまりこれまで科学発展の源だった要素還元主義的なアプローチをそのまま適用することができない。また、渋滞学的に言うと、そもそも要素であるところの人や車の動き、生物の個体といった「自己駆動粒子(非ニュートン粒子)」は、水の粒子やボール、惑星といった「ニュートン粒子」と呼べるものとはちがって力学の3つの基本原理―「慣性の法則」「作用・反作用の法則」「運動の法則」で説明すること適わない。「複雑系」て、見方によっては昔の錬金術とか占星術みたいな側面がもしかしたらあるかもしれない。

 だが、自動駆動粒子も過密状態・密集状態にあるとき、意思や心理といった個々別々の作用が限定されてそのふるまいはニュートン粒子のようになる。ここが目の付け所であり、とっかかりである。

 物理学を基(もと)に据えつつも経済学や社会心理学、生物学、工学etc.と、積極的に分野横断して他分野の知見や方法を援用しながら、渋滞という、ありふれているが漠然とした現象をあらためて見てゆくのは地味に楽しい。関係ないと思われた要素が繋がり、ときに何かが浮かびあがってくるという「鳥の眼」的新鮮さもあれば、「セル・オートマトン」というモデル検証によって納得も得られ、渋滞と聞くと好ましくない印象があるものの、アリの行進や森林火災には「渋滞」がむしろ望ましいとわかってはそこに価値の転倒する瞬間があって小気味いい。あるいは防災という実際的な意味で言うと、第3章「人の渋滞」―この章だけ読んでもタメになるはずだし…ここが一番おもしろかったとも言える。

 たとえば、飛行機に乗っていて事故発生。非常口から避難しなければならないという状況に直面したとき、我先に逃げる「競争」と、焦る気持ちを抑えての「譲歩・協力」と、どちらが適当なのか?という話。なんとなく後者のような気もするが、イギリスで行われた小型飛行機の脱出実験によるとこれ、ケースバイケースらしい。実験から得られた「全員が逃げ切るまでの時間」を見てみると、ドア幅が人間の肩幅よりやや広い約70cm以上だと、競争したほうが早い。それより狭いと譲歩協力したほうが早い。

 ていうかパニック状態になってしまえば、扉の幅なんて関係ないよ、競争しちゃうよね…? と、そこでまた興味深いのが、避難口付近にわざと障碍物を置くと、避難時間が短くなる場合があるという逆説的な話。そして、避難時間が最も短くなるのは障害物の位置が避難口の真正面にあるときではなくて、“ちょっと横にズラして”置いた場合だったという(ただし、位置によっては避難時間を長くしてしまう場合もある)。この辺の原因はよくわかっていないらしいが、「アーチアクション」という、アーチ状に架かる橋などに使われている原理と同じことが人の肩なんかで起こるかどうかがポイントだったりするよう。

 どうアプローチしていいのか見当がつかないとか、複雑系のようなこれという方法がすっかり確立したとは言い難い対象と向き合うとき、手当たり次第、分野横断的なスタンスになったりすることにはある程度必然性があるように思う。で、『渋滞学』という本は実はちょっとおれっぽい本でもあるので、身につまされる部分があったというか…。物事には良い面もあれば悪い面もある。先に述べたように本書は分野横断によるおもしろさがよく味わえるし、一読すればきっと渋滞を見る目が確実に変わるけれど、反面、個人的には多分に「雑学的なおもしろさ」でもあったような気がしないでもない*1。読後、物足りなかったというよりも、知的快感まではまだ得られなかったという感じ。

 第6章「渋滞学のこれから」では、「理解する」ということに関して著者・西成氏の見解が述べられている。複雑系の科学についてはよく「複雑なものを複雑なままに理解する」と言われるが、果たしてそれは可能なのだろうか…? 曰く、「要素還元できないならば、人間は永遠に理解できないのだと思う」―この点もたぶん無関係ではなくて、ゆっくり考えてゆこうと思う。


 ……そういえば!

 『渋滞学』が指定されたときにまず真っ先に思い出された小説があった。『南部高速道路』というコルタサルの短編。

 コルタサルの小説は、読書とかセーターを着るとか、カメラを手に散歩に出かけるとか、ありふれた行為や出来事から、知らぬ間に、現実が裏返る。そして『南部高速道路』の場合が高速道路での渋滞。だがこの渋滞、ただの渋滞ではないのである…。読後感もまた堪らない一品。


*1:ただし章末にある渋滞学講義は未読である旨。