第2回:『埋葬』横田創

 この小説は2度読むことになる。きっと。

埋葬 (想像力の文学)

埋葬 (想像力の文学)

 たとえば「打ちのめされるようなすごい本」に遭遇したとき、「誰かにオススメしたくてたまらない!」という衝動に駆られることがある。感動はときに共鳴効果を求めてやまない。一方でたいていは、その「すごい」という感触とはべつに、相手の嗜好に合う合わない等々を思い合わせるなどして控えるか、薦めるにしてもそっと差し出す程度に止まる。しかし、ごくたまに、あからさまな言い方をすれば、「押しつけてでも読ませたい!」という衝動を掻き立てるものに出くわすことがある。

 押しつけること自体はそれほどむずかしいことじゃない。問題は、実際に読んでもらえるかどうかということだ。だからブログの場合で言えば、たとえば、不特定多数の顔も知らない相手に向かって「読みたい」と思わせるだけの文章力・技量が自分になければならない。というより、極端な話、人気タレントや定評のある書評ブロガーといった知名度や信頼を勝ち得ているような人なら、「オススメだよ」というその一言だけでも十分に効果があると思うのだけど、そんな知名度も信頼もないおれとしてはなんとかして「読みたい」「読んでみたい」と思わせるだけの文章を書かなければならない。

 これがとてもむずかしい。とくにオススメしたい本が「ネタばれ厳禁モノ」となると、ぎゅんッてハードルが上がる。どこがどう良かったのか、スゴかったのか、具体に則して説明できないことが多すぎたりして(がっぷりと本質的なところをおさえて無駄を選別する・削ぐ、という作業が不得手ということも手伝い)むずい、ツラい…贔屓の引き倒しになる懼(おそ)れも拭えない。また困ったことに、具体に則せないとなるとむしろ具体的に語りたくなってしまう性癖がおれにはあるらしく…どう書けばよいだろうかと頭をめぐらすほどに、当初の「オススメしたい」という気持ちはだんだん萎(しぼ)んでゆき、「とにかく語りたい」という気持ちのほうがむくむくと肥大してくる。しだいにフラストレーションを募らせる。「もう、いいや、おれだけに留めておけば…(押しつけがましいのはよくないね)」などとひとりごち、断念することになる(あるいはネタばれ全開で書くことになる)。

 というのがよくあるパターンです。だから横田創の『埋葬』についても、同じパターンをなぞるかと思われた。この小説も「押しつけてでも読ませたい!!」と思わせるほどスゴい本だったのだけど、語りの高度なテクニックと構造のトリックを思うと「ネタばれ厳禁モノ」でもあり、一度二度書こうとしたものの、やっぱりどうにもダメだった…反面、以下のような事実を知ったこともあり、オススメしておくことを諦めきれずにいた―横田創は現役の作家で最新作の『埋葬』含めこれまでに3冊公刊されている。しかし、前2冊はどうやら絶版らしい(単行本未収録作もだいぶある)。

 売れていないから「駄作」だとは言えない。むしろ、回転が速すぎる市場にあって零れ落ちてしまったり埋もれたしまったりというケースも少なくないと思う。また『埋葬』については、「受賞」はおろか「候補」になったという話さえ聞かない。要は、文芸誌を読んでいるような人たちでさえこの小説の存在を知らされていないようなものではないだろうか…? 前2冊も読んでみた。この小説家はもっと読まれていいんでないのか(いいはずなのに…)と思ったのである。これがオススメしたいという思いに拍車をかけ、とにかく『埋葬』だけでももっと読まれてほしいと、大袈裟な話、使命感めいた気分さえ催したのかもしれない―かといって先述したようなむずかしさが消え去るわけでもないのであって、いい加減書けてくれ…などと、ここ数ヶ月ほどのあいだ、折りに触れては試み、挫折し、もどかしいことこのうえなかった。

 だから、伴読部という場を逃す手はなかった。だって第一に「押しつけてでも読ませたい!!」という思いを文字通り実現可能なのだから。少なくとも2人には「有無を言わせず」に読ませることができるのだ。まず何を差し置いてでもこの本を指定しておかねばならない!―と、はやる気持ちでもって指定した(余談ですが「押しつけて読ませる」ことにはちょっと快感もあった)。同時に、反作用的に、伴読部を利用するということは感想を書くということでもあるため、果たしてそれができるかだろうかとこの点に危惧ないし不安も少なからずあったおれは、布石になるやもしれぬと、事前にちょっとした細工をしておいたのだった。

 第2回が『埋葬』に決定したあと後日、なむさんとast15さんのお二人とそれぞれとメールすることがありました。その際なむさんには、あたかもまだ読んだことがないフリをして「実はぼくも未読なんですよね」と言い、ast15さんには、あたかも読んだことがあるフリをして「楽しんでください」と伝えました―第三者がこれを知らずに、仮に「赤亀は読んだうえで指定したのかどうか」という点を問題にしたとする…なむさんとast15さん、それぞれの話を聞いたこの第三者はどう思うだろう? 事実はどうなんだ?と困惑するかもしれない。そこでおれを召集する。そして訊ねる。実のところどうだったのか?おれは答える―「ていうかそもそも、指定した憶えなどないよ」

 これは『埋葬』でも言及される、芥川龍之介の『藪の中』に模したたとえ話である。真実はあるはずだがさまざまな解釈しか残されない…「真実は藪の中」というわけだ。しかし『埋葬』は、たしかに『藪の中』の構造を踏襲しているように思えるとはいえ、実は、似て非なるものである。たとえば、『藪の中』では殺された夫が口寄せされて霊媒者の口を借りて語る、上のたとえ話で言えばお呼びですかとおれ自身が現れて語る。一方『埋葬』では、死んだ奥さん、彼女自身が直接自らを語ることはない―このぽっかり空いた「穴」が決定的にちがう。かつ『埋葬』では、ものごとではなく“人”を語ろうとする。すごく恐い。

 実際、帯のコピーには「不穏な告白文学」とあるけれど、この不穏さは1回目と2回目でその濃度や性質がまるでちがうものとなる―そもそもおれは経験的に、「告白小説が不穏じゃないわけがない(帯のコピーはトートロジーとも言える)。なぜなら一人称語りと日記(or手記)という形式を併せもつ最近の小説の語り手は、ほぼ必ず“信頼できない語り手”といってよいのだから」と、要は、読む前からしっかり構えていた…にもかかわらず、1回目はとにかく、度肝をぬかれた。おれのちゃちな警戒心など嵐の前の塵に同じみたいなものだった。

 そして急かされるままに読んだ2回目となると、むしろ今度のほうが不穏さがいや増す。思わぬところに(しかしわりと堂々と)暗示が顔を見せメタファーが潜んでいて、それらに気づくたびにギョッとしたり、背筋が凍りつくような戦慄が奔ったりと、胆を冷やすことおびただしい。ミステリ、恋愛小説、スリップストリーム、あるいはコミュニケーション論等々と、さまざまな「読み味」をもつこの小説にもしおれがタグを1つ付けるとすれば、この再読時の実感も鑑みて「ホラー」とするかもしれない(幽霊とか妖怪とか悪魔とかゾンビとか、一切出てこないけれど)。

 このホラー感というのは、ごく日常的な行為である“語り”に由来するところ大なのだけど、ところで、それぞれのちがう様子を語る語り手たちの口調からは疑念よりもまず、確信を抱いているという印象を受ける、もしくは疑念がちらりと脳裏をよぎっても確信で抑えこんでいるふうである(ゆえにパラノイアともちょっと違うように思える)。そんな語り手たちはなぜあの女性、奥さんのことをあれほどまでに、ときに急かされるようにして、語るのだろう…? 作中、事件を取材しているインタビュアーは『藪の中』を再読したときに抱いた「謎であり疑問」とを思い合わせ、以下のように述懐したのだった―果たして口寄せされた男のように死者は、話すことに欲望、というより渇望を抱くものなのか?と。ちがうんじゃないかと。

死んだ者は話すことができないからこそ生き残ったものは、いや、生き残らされた者は否が応でも死んだ者の話をさせられるのではないか。代わりをさせられるのではないか。つまり写真を撮らされているのではないか。

 だから、たとえば、「語り手たちの口を借りて」語られる彼女の言葉(or 振舞い)は信じていいのかもしれないと思う。(あるいはこれは、敷衍できることかもしれない。つまり、語らせるのは“死者”に限らないと―友人としゃべっているときに「おや、おれはこんなことを思っていたのか」と自分の口からふと出た言葉に我ことながら意外に感じた、というような経験があるのはたぶん、おれだけではないと思う。『埋葬』をオススメしようとしたのは「押しつけてでも読ませたい!!」という衝動に(語ったというよりも)語らされたのかもしれない。というよりこの場合は、語らせられることのできないがために伴読部で採りあげるという“行動”をとらされたと言ったほうが正しいかもしれない。)
 
 さておき、これはこの小説と格闘するための前準備、ウォーミングアップみたいなものでしかない。『埋葬』は優れた小説の例にもれず、いろいろに、多層的に読むことができる。ともかく、打ちのめされるようなすごい小説なのです。読んでみて損はない。