ゆとり世代宣言

 おれはいわゆる「ゆとり世代」である。

 「あ、ゆとり世代か」「ゆとり世代だから〜なんじゃない」などと年上の方々が口にするのを幾度か耳にしてきた。逆に「最近の若者は意外としっかりしてる」といった好意的な言葉を聞いたこともあったけれど、そこには「ゆとり世代なのに」と枕詞みたくついていたり、暗にほのめかされていたりしたことも少なくない。あるいはときには、「ゆとり世代ってかわいそうだよね」と同情されたり哀れまれたりしたこともある。

 そういうことがちょいちょいあるためか、自分の中に巣食う「ゆとり世代意識」はなんとなく、どこか払拭とまではいかない。以前は上記のような言葉を耳(目)にするたびに腹立たしくも虚しくもあり、また、ゆとり世代的引け目(コンプレックス)ないし、ゆとり世代であることに鬱憤めいたものがあった―好きでゆとり教育を受けたわけではないのだ、公立に行ったらたまたまゆとり教育だったのであり、義務教育だったのだ―「ゆとり言うな」と悶々していたこともあったし、ゆとり教育全面否定の言説などを本や雑誌で読んだりした際には「きみたちは失敗作だよ」と言われているようなものだと思い、苛立った挙句、それを焚書に処したこともある・・・(笑)ネット上でも「ゆとり言うな」的コメントをときどき目にする。

 しかし、なんかそういう反応って芸がないなと、いつの頃からか思うようになった。なんか気の利いた反応をしたいものだが・・・と、そして最近、ふと思い出されたのが、かの宗教革命(宗教改革)だった。

 時代を遡ること16世紀前半、西ヨーロッパではマルティン・ルター氏が口火を切る格好で宗教革命が巻き起こった。「カトリックなんて腐ってる!」ということで、このときプロテスタントと呼ばれる宗派が出現する。西ヨーロッパ各地で誕生したプロテスタントにもさまざまあるものの、そのうちの1つにカルヴァン派というのがあった。これはまた国によって呼び方がいろいろあったようだが、たとえば、英ではピューリタンとかプレスビテリアン、蘭ではゴイセン、仏ではユグノーと呼ばれていた―ピンときたのはこの呼び名の由来である。

 「イギリス国教会は不純だ!」と嫌悪・否定の態度にでるカルヴァン派に向かって、「君たちは純粋だよね、ピュアだなあ」と国教徒はのたもうた。言うまでなく皮肉をこめた言葉だった。しかしこれを受けてカルヴァン派は、「え、それって皮肉?てかピュアですけど、それがなにか?」と、むしろ自らピューリタンと名乗るようになった(らしい)。あるいはゴイセン。これはオランダ語で「乞食」を意味する言葉だったようだが、当時オランダの宗主国みたいな立場にあったスペインのカトリックたちが、「あの田舎もんが」というニュアンスで「乞食のくせして偉そうなことを抜かす」と蔑んできたのを、カルヴァン派の人々は「乞食?ははは、ウケるー。それもいいね」と、自らをゴイセンと呼ぶようになった(らしい)。

 真偽のほどは定かでないが、つまり彼らは、相手の皮肉や蔑視を己のなかでユーモアに転じたわけである。まこと、あっぱれ。おれもこれに倣うことにした―「そうそう、おれ、“ゆとり”なんですよねえ(笑)ところで、それがどうかしましたか?」

 ということで、あらためまして、おれはゆとり世代である。さしづめ「ゆとりあん」なんてふうに呼んでいただけると、なんかいまっぽい。


(余談ですが、「いまっぽい」と言えば「ナウい」―日本語の「now」という言葉は不思議である。「ナウい」と生まれ、流行し、そして死んだ(死語になった)・・・と思っていたら、今度はツイッター上に装いと意味を微妙に変えて「なう」と蘇えってきた(新語になった)。まるで不死鳥、もしくはゾンビーのような言葉だな―などと、少し前に思ったものだった。)