『トロピカル・マラディ』または『山月記』

 『トロピカル・マラディ』という映画がスゴかった。濃密でいて静謐。アピチャッポン・ウィーラセタクンというタイ人映画監督の作品である。いままで観てきた映画のなかでも五指に入る。もしかしたら1番かもしれない。

 森林警備兵のケンと無職の田舎人トン―この2人の青年の、果汁の滴るような愛とささやかでいて幸せそうな日常が描かれる前半。「魂の通り道」という伝説が語られ、劇中劇といった形式でもって一転、森を舞台に“虎”の気配がただよい不穏な空気に包まれる後半(これは本当に“一転”する。同じ映画とは思えないほどに。)―前半のケンとトンと、後半の“兵士”と“虎”は、同じ人物であり、同じ人間ではないかもしれない。森の包容感と禍々しさ。最後のシークエンスには胸がつまった。上映終了後には深い吐息がもれた。

 野暮なことを言うけれど、ある作品を観たとき、過去に接してきた作品群を通じて得た知見や価値基準、あるいは個人的な好み・嗜好、ときには気分と、いろいろなバロメーターを使っているものである。バロメーターは必ずしも1つではないから、「映画としてはスゴいけれど好みではない」「言いたいことはわかるが出来はいまいち」というようなことはままある。

 この映画はまずもって、映画としてスゴいと思う。内容と形式とがゆるやかに、しかしカチリと噛みあった幸福な映画だ。それに、まさしく映画でなければ表現することのできない、映画だからこそ現すことのできる世界だった。うれしいことには自分の好み(志向)としても好きなものだった。もう1つの幸福な一致。
 
 惜しむらくはブルーレイはおろか、この映画はDVDもVHSも存在しないということである。これほどの映画が…?と、はじめちょっと信じがたかったが事実、アピチャッポンの映画でDVD化されているのは最新作の『ブンミおじさんの森』(原題を直訳すれば「前世を思い出せるブンミおじさん」)という映画のみで、これは2010年のカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)を受賞した作品である。今回おれが観れたのは吉祥寺バウスシアターで催された「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」という特集上映があったおかげだった。

 ものごとの巡りあわせとは不思議なものだ。

 映画好きな友人が「園子温の『冷たい熱帯魚』がよかった」と言っていたので調べてみたら当時、都内で上映している映画観が1つだけあり、吉祥寺バウスシアターだった。結局『冷たい熱帯魚』は観に行けなかったけども、そのとき、HPにアピチャッポン特集の告知が出ていることに気づいたのだった。『冷たい熱帯魚』と一緒に借りてきたDVDに『ブンミおじさんの森』があった。

 『ブンミ』を借りたのは、先に触れたようにパルムドールを受賞していたためだった(審査員長がティム・バートンだったという点がやや引っかかったけれど)―少し前にWikipediaで過去のパルムドール受賞作一覧を眺めていたところ、個人的に強く印象に残っている作品がいくつかあることに気づいた(たとえば『第三の男』、『タクシードライバー』、『楢山節考』、『ツリー・オブ・ライフ』etc.)。検索のきっかけは『アンダーグランド』だった。この映画もパルムドール受賞作であり、はじめにその旨のテロップが表示されていたのだった。

 一覧を最近のものから見てゆけば、すぐに『ブンミおじさんの森』が現れる。タイの映画だという。しめた、と思った。個人的に、映画には映画でしかできないような表現をまずもって期待する(内容ありきの表現・形式ではあるし、観てはじめてわかることの方が多いのだけど)。ひいては耳慣れない・聞き取れない言語の聞き心地、その言語でのやりとりや、地域、時代によって異なる街並みや人々の振る舞い・仕草、土俗性によって醸しだされる雰囲気を求めていたりする。読書では直接に五官で得ることのできない(想像力で補うしかない)ところの感覚がほしいという気持ちがことのほか強い。

 予備知識なく観た『ブンミ』ははじめ、よくわからなかった。というよりラスト30分に戸惑った、と言うほうが正しい。映像に濃淡光陰があって、1つ1つの場面が幻惑的で印象深かった。また虫の音、鳥の鳴き声、木々のざわめき、水音といった音の使い方が特徴的だと思い、それらが融けあい生みだされるアニミズムな世界は要は半分眠っているような退屈さで、とても心地よい。個人的には好きだった。しかし映画としての出来はどうなのだろう…ラスト30分が奇抜すぎたような…おれの基準では測りがたかった。バウスシアターの特集を知ったのはこのような感想を抱いたころだった。全部で4つの作品が上映されるとのことでせっかくだから、もう1つくらいべつの作品も観てみようかくらいの気持ちで観に行くことにしたのだった。
 
 『トロピカル・マラディ』を選んだのは主人公2人がホモだったからである。個人的に「あいだ(境界)」というのが関心事の1つにあって、松岡正剛の『フラジャイル』を読んで以来、ホモないし同性愛者というのも「女と男のあいだ」という意味で関心の対象になるようになった。頭では理解できるものの、感覚としては未知の領域(ホモになりたいわけではない)。『花のノートルダム』や『蜘蛛女のキス』といった小説を手にしたときも端的な理由はホモが中心に据えられていたからだったが同じようにして選んだのだった。

 特集期間は2週間、1日に4回の上映があり、『ブンミ』以外の3作については上映回数が1週間に2・3回とさらに限られていた。その他は『ブンミ』で埋め尽くされていた……上映期間半ばに『トロピカル・マラディ』を観て驚いたおれは、ついで『ブンミおじさんの森』以外はいまを逃すと次はいつ観れるのかわからないという事実を知るに至り、ならば観ておくしかないではないかとあの手(シフトを替わってもらう)この手(仮病)を使って時間をつくり、1週間、足しげく通ったのだった。初期の2作品『真昼の不思議な物体』と『ブリスフリー・ユアーズ』を1回ずつ、スクリーンということで『ブンミ』も1回、『トロピカル・マラディ』については3回観た。

 この4つの中では、やっぱり、『トロピカル・マラディ』が別格だった。でもたぶん、この映画に心打たれたのは『ブンミおじさんの森』でわからないなりに一度アピチャッポンの映画を体験していたからでもあっただろうと思う。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

 『トロピカル・マラディ』の冒頭で引用される一節。引用元は中島敦の『山月記』、李徴という虎になった男が口にする。

 高2のときに国語の授業で読んだときのことを思い出した。初夏だったような気がする。「読んだ」と書いたけれど本当のところは、先生の朗読を「聴いた」のだった。この初老の男性教師の授業はまったく役に立たないものだった。というのはいつも朗読していたという印象くらいしか残っていない。その朗読がほどよく子守唄のように響くために、国語の授業はおれの睡眠タイムだった。

 おそらくどこの学校でも一度は扱われているのではないかと思われる『山月記』がこの授業でも例にもれず、ある日、取りあげられた。これも朗読された。なぜなのかは覚えていないけれどそのときはちゃんと聴いたのだった。むしろ、先生の低く渋い声の調子が朗々と語るそれに、聴き入った。

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

 朝から晩まで部活尽くしだった日々のなか通学時間が長かったこともあってそれまでも、超過満員電車の中に限っては読書タイムだった。当時手にとっていたものはいわゆる直木賞系統の、かつ現役の作家のものに限られていた。いわゆる純文学と呼ばれる系統は何か小難しく堅苦しいものだと…もっと言えば、時代遅れというような認識をなぜかもっていたように思う。「国語の授業なんて意味ないよ」という周囲の空気にならい、それはまだしも、どうやらおれは過激派だったらしく「教科書に載っているという、ただそれだけで読む価値なし」という具合に蔑んでさえいたような気もする。

 『山月記』に、それまで読んできたものとはまた違うおもしろさを感じたのだった。授業中にあらためて読み返し、部活が終わったあとに本屋に行き、文庫本を購入し、収録されていた他の作品も読んでみた。新宿駅から読み始め気がつくと終点の高尾山口駅にいた。降りるべき駅は30分ほど前に通り過ぎていた―『トロピカル・マラディ』を観た日の夜、高2のときに買った文庫本を取り出し『山月記』を読み返していて、ふと、そんな記憶が呼び起こされたのだった。

 中島敦清朝の『唐人説薈』にある「人虎伝」という変身譚を元に『山月記』を書いた。アピチャッポン・ウィーラセタクンが『山月記』を読んだのは、実は、映画の企画を立てた後に「日本に似たような話がある」と聞いたことがきっかけだったらしい(英語でかタイ語でかはわからないけれどあの文体がどのように訳されたのか気になるところ)。「人虎」はインドから中国にかけてアジア一帯に似たようなものが見られるという―説話、小説、映画と、同じプロットの元にそれぞれの表現形式で、中国、日本、タイと、100・200年というスパンでもって繰り返し息を吹き込まれているその連鎖、変容を思う。

 特集上映にはなかった『トロピカル・マラディ』と『ブンミおじさんの森』との間に製作された『世紀の光』という映画も、いつか観てみたい。いつの日か観れるときが来ることを願う今日この頃。