稲刈りに行ってきた

 
 司馬遼太郎は人の相貌を見ることでその人がどこの出身か(どの土地の血筋を引いているのか)当てることが得意だったという。『街道をゆく』シリーズの第1巻「甲州街道・長州路ほか」で司馬氏が書いていた長州人(山口県人)の顔によく見られる特徴というのは実際、おれ自身にもよく当てはまるように、読んでいて思ったことがあった。

 おれの両親は山口県出身であり、母の実家は代々米作農家なのだけど、おれが3歳くらいのときに祖母が亡くなってしまい、母が一人娘なので、ここ20年くらい祖父は一人暮らしである(ちなみに父については、実家とほとんど絶縁状態にあるため、孫のおれも疎遠)。

 そんなわけで、小さい頃から高校に進学するくらいまで、長期休暇のあいだは山口で過ごすのが我が家の慣わしになっていた。高校進学以降はそう頻繁には行けず、年に1回行くか行かないかくらいになっているけれど、先月下旬から2週間ほど、1年半ぶりに行ってきた。稲刈りの時期でもあったので、それの手伝いも兼ねての帰省となった。

 山口に行くのはいつも春夏冬だったため、思えば、稲刈りの時期に祖父宅にいるというのは初めてのことで、つまりは「人生初の稲刈り」だった。ということもあり、いろいろと発見や、今まで見たことのない様子を垣間見れたりして新鮮でもあり、稲刈りの雰囲気というのも楽しく、けっこう愉快に過ごした。


稲刈り

 とりあえず、稲刈り作業の工程はというと、おおまかには以下のようだった。

  1. コンバインで稲刈り(この機械で脱穀も行われる)
  2. 刈り取った稲をおっきな穀物乾燥機に入れる→一晩ほど乾かす
  3. もみすり機で脱稃(だっぷ=籾抜き)→玄米を袋詰め


(祖父、コンバインを操縦するの図)*1

 おれが手伝っていたのは、まず「1」の前に、はじめの段階で田んぼにコンバインが侵入できるように(or方向転換できるように)、田んぼの四隅の稲を、鎌でもって、2m四方ほど刈り取る。という作業。思いのほか容易に、さくっと刈れる感覚はとても気持ちよく、けれど思いのほか捗りがたく、腰に負担がかかっているのもよく感じられ、昔はこれをすべて手で刈り取っていたのかと思うとため息がもれた。

 「2」はとくになし。

 「3」のときは、もみすり機から排出される籾殻が縦1mくらい×横50cmくらいの網袋にいっぱいになったところで袋を取替えたり、米が入った袋を運んだり。籾殻の入った袋がいくらかたまってきたら、軽トラで少し遠くにある畑へ運び、畑にそれを撒く(こうすると土壌の肥やしになるとのこと)。あるいは、所望してきた近所の人に渡しに行く。という仕事。

 余談だけど、「3」のとき、刈り取った後は、家は見えるけれどそれは見えるだけで実はけっこう遠く、徒歩で帰るのが面倒臭かったので、祖父がコンバインを操縦する様をぽけーと眺めていた。そして、眺めているのは、おれだけではなかった。カラスやスズメ、白鷺といった鳥たちも田んぼの周りにどこからともなくと現れ、こちらの場合は、よく見ると、一身に見つめている様子である。彼らはコンバインが通ったあとに驚いたように跳び出してくるバッタや蛙を狙っているようだった。彼らにとってもちょっとした収穫時のようだった。

 と、だいたいこんなところで、あとはときどき弁当などの買い出しに行くなどしていたが、つまるところ、あまり役に立たなかったおれ。


稲刈りの賑わい、センチな秋

 先述したように、この時期に祖父宅へ行ったのは初めてだった。また祖父は一人暮らしということもあり、勢い、おれは稲刈りは祖父一人でやっているものとばかり思っていた。しかし、行ってみて、祖父の兄弟姉妹が集まっての共同作業だということを知った―祖父は5人兄弟の一番上・長男で、三重県に住んでいる次男の他は今も県内に暮らしており、(順に)長女、三男、次女(=末っ子)が祖父宅に集合していた。

 また、稲刈りというのは機械化が進んだとはいえ難儀なもので、年寄りの祖父にとってはただただしんどいものだろうとばかり思っていたけれど、実際、たしかにしんどい作業ではあるのだけど、一方で、ときおり個々にちょっと会うことはあれ、兄弟姉妹が一所に介するというのは1年のうちでもこのときだけらしい稲刈り作業の場は、賑やかであり、活気があって、楽しげだった。

 ある日みんなでお昼休憩をとっているとき、新聞の集金に初老の女性が訪れてきたのだけど、なんだか懐かしそうにして「楽しそうですねぇ」と口にした。それで、少しのあいだお茶の場にこの女性も加わって話をしていたところ、彼女の実家も米作農家だということだった。昔はこの時期になると親族が集まって一緒に働いていた、それが楽しかったと―「両親が亡くなってからは甥が跡を継いだんですけどね、今は業者に任せているもんで、みんなが集まるようなこともなくなっちゃいまして…お米もお金を払って食べるようになりました」と苦笑交じりに話していた。

 稲刈りのときの雰囲気が好きだったというこの女性がそれがなくなって寂しいと思う気持ちというのは、なんとなく、わからなくはなかった。孫であるおれ自身は3人兄弟だけど、おれたちの場合、これから先、そこで目にしている情景―祖父ら兄弟姉妹が集まって一緒に仕事して、笑ったり、不満言ったり、和んだり―というようなことはないだろうと思うから、その場にいるのがなんだか楽しいと同時に、微かにセンチな気分もおぼえた。

 ところで、農作業のこの愉快な感じというのは、実は以前に、間接的に感じた取ったおぼえがある。それは、宮本常一の本でだった。


イノシシの話、「じいさま」の話

 民俗学者宮本常一周防大島の出身で、この島は祖父宅から車で2時間ほどのところにある。宮本常一は、各地を旅しながら農民・百姓の暮らしをつぶさに見て、同時に、一緒に農作業をやったりもして、また彼らの話を熱心に聴いて記録していった。その成果として、たとえば、『忘れられた日本人』といった名著が編まれたりした(この本すっごいおもしろい!)。稲刈り作業中や休憩のときに祖父たちの話を聴いているとき、「宮本常一はいろんなところで、こんなふうにして、話を聴いたり調査したりしていたのかもなぁ」なんて思った。

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 たとえば、「うちらがこまい頃には、この時期になると学校が休みになっちょったんよ。それで皆で稲刈りしちょったんよね」という次男のおじさんの話があったり、「この前、獲ってきた魚の活きがようてね、活きがいいのはええけど、台所の床を跳ね回りよって弱った」という長女のおばさんの話があったりと。なんてことない日常の話ばかりなのだが、その日常がこっちのそれと全然違うので聴いていて厭きることがない。中でもおもしろかったのは、末っ子のおばちゃん(以下、末おばちゃん)のイノシシの話だった。

 末おばちゃんは、家の畑のすぐ近くにある山に罠を仕掛けているらしいのだが、数日前の早朝、近所のおばさんが「あんたんとこ、でっかいイノシシがかかっちょるよ!」と知らせに来てくれた。末おばちゃんは寝床から跳ね起き、「お父さん(旦那さんのこと)」もひっぱり起こして見に行ったところ、「ごっとんごっとん」罠が揺れていた。中には大きなイノシシがいた。

 イノシシというのは、罠をしかけて実際にかかった場合、その成果の証拠(?)として尻尾を切り落とし、それを役所に持っていくとお金になるらしいのだけど(ちなみに山口市は1本1,500円、萩市だとなんと5,000円)、末おばちゃんが知らせに来てくれたおばさんに「せっかくじゃけえ尻尾もろうていね」と言いに行ったところ、今度は別の近所の人がその場に現れて「あんたんとこイノシシかかっちょるよ!」。一緒に見に行ってみると、驚いたことに、大人1匹と子供3匹が同時にかかっていた。

 その騒ぎを聞きつけた近所の住民たちが「ようけ集まってきちょったよ」。「野次馬ん中には、一度自分の手でものにしてみたいと思いよる人とか、イノシシ食べたいと思いよる人がおってね、わざわざおっきなドス持ってきちょるもんもおったよー」と末おばちゃんは話していたが、実際、どっかのおじさんが、にわかに包丁で猪を刺そうとした。ところが、包丁はポキリとあっけなく折れてしまい、イノシシはというと、ピンピンしている。「やっぱり素人じゃよう捌かんのね」と笑う末おばちゃん。

 そこに、罠の仕掛け主であり、猟友会の一員でもあるご主人が現れた。ご主人は「目にも留まらぬ速さ」でイノシシを捌き、解体し、また血抜きを行った。そこに集まっていた野次馬はみんな、あまりに速やかな手際に圧倒され、きょとんとしていた(子供3匹はなんだか気の毒だし、食べ切ることもできないだろうしで、結局山に帰したらしい)。みんながきょとんとしている間に鍋が用意され、野菜をちょちょっと切って、ぐつぐつ煮て、ご主人夫妻のふるまいで皆でおいしく猪汁を飲んだ。

 という話だった。ちなみに、イノシシの罠を設けるのには市の許可をとる必要があるらしい。あるいは、猟銃なんかを所持するのにも精神鑑定などの手続きがあり、時間と手間がかかってメンドーらしい。

 さて、祖父の話にもいくつかおもしろいのがあって、個人的に興味深いものもあった。そのうちの1つを挙げると、ある夜、祖父がお酒をちょびちょびやっているときに話しだしたことなのだけど、祖父は若い頃、「百姓になんかなってたまるか」と思っていたらしい。初耳だ。「えらい(山口弁で「疲れる」の意)わりに儲けにならん」、食べていけないと考えていたからだという。

 ところで、先の「稲刈りの工程」にある「1」と「2」は、母屋の隣に増築した2階建てくらいの高さのある小屋(離れ)で行っていたのだが(そこに乾燥機やもみすり機が置いてある)、祖父が若い頃はこれがなかった。なぜなら、「じいさま」が母屋より高いものを建てるのに反対だったからである。「じいさま」とはすなわち、おれから見て曾曾祖父に当たる人だ。

 「じいさま」が亡くなってしばらく後、祖父が跡を継ぐことになったとき、前述したように「えらいのが好かん」と思っていた祖父は、2階建ての小屋(離れ)を立て、ついで機械を導入した。祖父の両親はすごく楽になったと、これを喜んだらしい。また、祖父の住む地域ではこのように機械を導入したのは祖父が初めてだったらしく、しばらくすると、様子を見に来た近所の人たちが「これはええね!」と言ってどんどん取り入れていった。

 というような話がお酒の肴にされた。この話を聴いた夜、布団の中で曾曾祖父のことを考えていた。おれと祖父の年齢とその差を鑑みて推測するに、「じいさま」が生まれたのはおそらく、明治維新前後の頃だっただろうと思われた―「ちょうど夏目漱石なんかと同い年くらいということになるけど、もしかしたら、山口県がまだ長州藩と呼ばれていたときに生まれた可能性もあるな…」などと考えた後、「じいさま」がまだ現役で、祖父が子供だった時代に想像をめぐらせてみた。

 彼らが暮らしていたのは「いま自分が寝ている、まさにこの家、この部屋だった」ことがたしかであり、そんなことも思い合わせていると(あるいは灯が消えていてほぼ真っ暗で、寝入り端だったことも手伝っただろうけど)、「身体が時間の中に潜った」とでもいえばよいのか、ちょうど水に潜ったときのような感じの、でも水圧みたいなものはまったくない、みたいな奇妙な感覚をおぼえた。

 また、いわば時空を越えておれの目の前に現れたものもあった。それは祖父母が娘(マイマザー)のために買ったと思しき日本文学全集(集英社の「現代日本の文学」というシリーズ)。


「噂」の全集

 かつて日本には文学全集が家電並みに売れた時期があったらしい。たしか戦後昭和の大阪万博が開かれたあたりの時期の話。はじめてそれを知ったときは、とある作家の言だったので「またまたー、それはお宅がそうだっただけでない?」などとさらっと流したものだけど、以前帰省して、東京に戻る前日あたりに、乾燥機などのある離れとはまた別の小さい離れ(もはや物置)に、ひっそりと、日本文学全集と百科事典が棚に並んでいるのを発見した。

 奥付を見てみると、発刊から2・3年でなんと第12印とか第15印とか記してあって、ちょっと尋常じゃない。初版が何部刷られたのかはもちろんわからないが、この数字だけでも売れていたことを示すに十分だ。うちのような農家まで買っていたということも考え合わせてみると、「家電並みに売れた」というのは、どうやらウソでも「盛った話」でもなかったのかもしれない。

 ちなみにおれの両親は、まったく言ってよいほどに本を読まない。母の場合は、保母さんやっていたので我が家には児童書や絵本の類はやたらにあったが、いわゆる文学の類は皆無だった。実際、おれが見つけた全集はどうも一度も読まれた形跡がないようだった(およそ35年という歳月の果てに、この全集は孫の手により開かれり)。

 ということで全集があることを確認済みだったので、今度の帰省では、小説の類については新幹線で読むもの(伊藤計劃の『ハーモニー』が選ばれり)以外は持っていかずに、読みたくなったらこの全集から読むことにしていた。読みたいなと思いつつもなんだかんだと読み損ねてきた、そういう作品や、あるいは未見の作家を開拓しようと目論んでいたのだ…中島敦の『光と風と夢』とか谷崎潤一郎の『春琴抄』といった有名どころで目星をつけていたものにまずは手を出し、作家的に言うと、お初にお目にかかり、読んだものがおもしかったのは、石川淳開高健林芙美子織田作之助などだった。

 帰りの新幹線では、山口の本屋で棚を眺めているときになんとなく目についてこのときのために買っておいた、ハリー・クレッシングの『料理人』という小説を読んだ。『バベットの晩餐会』を黒いユーモアとホラーめいたファンタジーで味付け・料理したみたいな感じで、これがなかなかに愉しめた。

料理人 (ハヤカワ文庫 NV 11)

料理人 (ハヤカワ文庫 NV 11)

 著者の名は偽名で、プロフィールなどその人物像は一切不明らしい。

 東京に戻ると思うと暗鬱でやり切れない気分になったため、名古屋で途中下車した。


名古屋で一泊

 名古屋で降りるのも初めてだった。今度の小旅行はなんだか地味に“初”が多かった。以前バイト先が同じで一緒に旅行したりもした、この地でお勤めしている友人に久しぶりに会い、1泊させてもらった。

*1:写真撮るのをすっかり忘れていて、辛うじて撮ったのがこれ1枚という…