第6回:『メモリー・ウォール』アンソニー・ドーア

 記憶のあるところ。あるいはノスタルジーについて。

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

 ケープタウンを舞台にした表題作をはじめ、ワイオミング州、アイダホと韓国の米軍駐屯地、中国のとある寒村、リトアニアハンブルクオハイオ州と場所はさまざま、登場人物も老若男女と異なれば、時代も一様ではない。それでいて一つひとつに体温があって、息遣いがあって、深みもある。粒ぞろいの短篇集だ。

 ドーアの筆が紡ぎだす物語は、読者に、言葉ではちょっと表しがたい感慨を与える…この短篇集に罪なところがあるとすれば、読者の感想が似たり寄ったりになってしまうことかもしれない。検索して出てくるレビューや感想をざっと眺めてみたところ、どれも共感し、頷けるものであることはたしかだが、ぶっちゃけ、おもしろくはない。おれも読後感をふつうに書いたらやはり変わり映えのしないものになってしまいそうであって、それなら、わざわざ書く必要などない。だから、『メモリー・ウォール』の感想としてはやや野暮の気があることは承知の上で、ちょっと分析的に、書いておくのも一興かなと思うことを、つらつら書いてゆきます。


 全編を貫くキーワードは、記憶である。

 「記憶」という言葉と重なりながらも微妙にニュアンスのちがう言葉に、「思い出」がある。「記憶」と「思い出」ではなにがちがうのか。たぶん、懐かしいという感情―ノスタルジーのあるなし、もしくはそれを含む量如何がひとつ、挙げられるように思う。加えて思うに、ノスタルジーは「記憶」と「思い出」とを分けるだけではない。

 「懐かしい」という感情がわかるかわからないかで、人は、大人と子どもに分かれる。

 そう思ったのは、公開当時アニメーション枠を越えて話題を呼んだクレヨンしんちゃんの劇場映画『オトナ帝国の逆襲』を2、3年前に再鑑賞したときだった。ほとんど10年ぶりに再鑑賞にした。涙ちょちょぎれ。いま思うとこれが21世紀の最初の年に公開されたというのはなかなか意味深長であったのだなあ、などと鑑賞後に思いながら余韻にふるふるしていたとき、ふいに、ある疑問が過ぎったのだった。

 「これを観て、子どもは…泣くのか?おもしろいのか?」―クレヨンしんちゃんは、原作は青年漫画だが、アニメは子ども向けとして製作され、ゆえに劇場映画は親子で観るファミリー向けとされる。アニメ版しんちゃんは第一に、あくまで「子ども向け」であって、だからこそDVDの宣伝時には「大人の鑑賞にも堪え得る」感動作であると阿部寛は強調したのだ…しかし、おそらく、「子どもの鑑賞には堪え得ない」。『オトナ帝国の逆襲』は映画としては良作と言えても、「子供向け」としては、出来不出来以前に「過去≒ノスタルジー」という主眼ゆえに実は失格だった…かもしれない。

 とりあえず、しんちゃんのギャグが冴えない。作中に充満する昭和感―時代の違いを前にしんちゃんのギャグがギャグになれないという事態が出来している。笑えないクレヨンしんちゃんを子どもはおもしろいと感じるのだろうか。あるいは、父・ひろしの心の葛藤―抗いがたいほどに過去へ誘われる心と、家族のいる/家族と築く未来へ進もうとする心の衝突―など、理解できないだろうと思う。なにより、子どもはこの映画を観たところできっと泣きはしないだろう。

 なぜなら、子どもにノスタルジーという心の動きはわからない。

 ノスタルジーがわからないから、しんちゃんをはじめとした子ども達は、秘密結社イエスタデイ・ワンスモアの散布する「懐かしいにおい」に誘われない。大人だけが洗脳され、町から姿を消し、「20世紀博」に向かう―ここでおれの目についたのは、埼玉紅さそり隊(女子高生の不良グループ)の動向だった。彼女たちも20世紀博へ吸い寄せられている…つまり、「大人」として扱かわれていた。懐かしいという感情がわかればもう大人と言ってよいということかと、おれは解釈した。

 『オトナ帝国の逆襲』での解釈を、もう1つ。記憶や思い出はにおいを媒介にして甦ることが多々ある。その逆パターンというか、父・ひろしと母・みさえは、ひろしの臭い足のにおいによって過去から現在に戻ってくる。そして「オトナ帝国化計画」を止めるため黒幕“ケンちゃんチャコちゃん”の元へ家族4人で向かうのだが、途中、懐かしい街並みや人々の生活の様子に心を誘われ、目を覚まし、また誘われ、正気に戻り…と幾度か繰り返し、しまいにひろしは涙が止まらなくなって、思わず叫ぶ―「なんだってここはこんなに懐かしいんだよ…!ちくちょう!懐かしすぎて頭がおかしくなりそうだぜ(泣)」

 なるほど、過度の懐かしさ―ノスタルジーは人の頭をおかしくしてしまいかねないのか。などと感心した。反面、この点ついては、腑に落ちるものも多分にあった。たとえば『ALWAYS 三丁目の夕日』が、1作目はいいとして、2作目3作目と製作され興行成績もなかなか好調だったらしいことに垣間見えている気もするのだが(あの映画の続編2つはそれこそ「20世紀博」だ、とか言いたくなる)、ノスタルジーにはある種、麻薬に似た依存性があるのかもしれない。

伝えられる話では、老人ホームで長く暮らす人たちは記憶装置を麻薬のように用い、さんざんいじって古びた同じカートリッジを遠隔装置に挿入するという。婚礼の夜、春の午後、岬のサイクリング。小さな四角いプラスチックは、老いた指に執拗に触れられてつやつやと光る。

(アルマは)黙ったままアームチェアに沈みこみ、遠隔装置のヘッドギアを頭のポートにねじで留め、ときおり口からよだれの筋が漏れる。

 共に表題作「メモリー・ウォール」からの引用。「記憶装置」とは、人間の脳から記憶を取り出してカートリッジに保存し、いつでも再生できる機器のことで、この短篇については近未来(2024年らしい)が舞台となっている。SFっぽいが、SFとは言い切れなくて、あるいはこのSFガジェットの使い方とその効果はヴォネガットを彷彿とさせるものがある。

 今回『メモリー・ウォール』を読んだのを機に、目はつけていたもののなんだかんだと後回しになっていたドーアのデビュー作『シェル・コレクター』も手に取った。これもまた、一読して忘れがたい短編集だった。表題作「貝を集める人」からして舌を巻く。

シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

 たとえば(ドーアへの言及ではほぼ必ず触れられるように)自然描写の腕が、ちょっと並じゃない。この巧みさ、細やかさは、小手先の技術だけでどうにかなるレベルではなくて、書き手の自然に対する肌感覚に裏打ちされているからこその豊かさ、美しさ、静謐さなのだろう…自然の、人間からすると冷淡とも無慈悲とも思える側面や、解読不能性などを切り捨てず、なお素晴らしいと心打たれる眼差し。ここにはまた、自身の筆に妥協や誤魔化しを許さないという意思もある。

 この自然に対する眼差しと意思は、記憶に対するそれにも重なっているように思う。収録されている6作はそれぞれに生殖医療やダム問題などを中心に据えられたものでもあって、独立した作品として成立すると同時に、短篇集として見ると「記憶」というキーワードが中心となってくる。そうしたなか、ドーアの目は「記憶に浸る」ことに伴う負の面も見逃してはいない。たとえば、他人の記憶を読み取り続ける「記憶読み取り人」の寿命はわずか2年ほどと短い。あるいは先の引用部からも窺えるように、ノスタルジーを慎重に避けている節もある。言ってしまえば、ノスタルジーに溺れていないからこそ、この短篇集には多くの読者の深いところに届くものがあるのだと思う。

 では、具体的にはどのように回避しているのか―ひとつ、「現在形」による記述にあると見た!

 なんて、したり顔で書いたけれど、べつにおれが言わなくても読めば誰でも気づくことであって、全編通して現在形で記述されている。「メモリー・ウォール」でルヴォがアルマの記憶を追体験するときも、「来世」でエスターのハンブルク時代が展開してゆくときも、過去形ではなく、現在形で進行してゆく(「生殖せよ、発生せよ」におけるイモジーンのモロッコの記憶が過去形なのは意味深?)。「ネムナス川」でアリソンとジーおじいちゃんが外国語を口にする際に「過去形にすべきときに、現在形で言ってしまう」学習段階であることはちょっと象徴的な点かもしれない。

 「過去」にあるノスタルジーではなく、「現在」にあるリアルさ。この短篇集については「読者はルヴォ」だと言っていい。それにしても、現在形で貫くとはなかなか豪腕である。ドーアが現在形を採用したのにはいま書いたような効果やノスタルジーの回避という意図もあったのではないかと思われるけれど、それ以上に、著者の記憶観とでも呼ぶべきものの現われでもあるかもしれない。

 そう解釈したのには、いまひとつ理由がある。太字で「記憶は細胞内部ではなく、細胞外の空間に存在します」という一説が出てくるのだが、ドーアの短篇では、それぞれに、それぞれの「記憶の形態(記憶を宿すモノ)」の姿がある。化石、有性細胞、植物の種、とある場所、暮らしていた家、写真に写っている魚、絵…アルマは最後の場面で石膏に手形を残す。アルマの夫・ハロルドがアマチュア化石ハンターであることや、「一一三号村」の種屋の女が種屋であることはもちろん、ジーおじいちゃんが墓石職人であることも偶然ではないだろう。これら「記憶を宿すモノ」は、登場人物たちの前に“今”(もしくは“今あるもの”として)あることによって、はじめて、その記憶が開かれてゆく。

 記憶や思い出の中身は、たしかに過去である。しかし、その人にあって記憶が意味をもつとか、あるいは導きとなるときとは、“今”にほかならない。

 この点、先の「ノスタルジーがわかるかわからないかで大人と子どもに分かれる(ノスタルジーとは大人の特権的な感情である)」というのを思い合わせてみると、アリソンと「メモリー・ウォール」のルヴォ、この2人は他の短編の登場人物たちと並べてやや特異な存在かもしれない。記憶を“過去”とするには(「思い出」とするには)微妙な年齢にある。アリソンの心の傷はだから、恋しさを誘いはしても、懐かしさにはなれず、「大きな悲しみ」として刻まれてしまうことになった―そして、祈り、というかたちをとることになったのかもしれない。

 ルヴォの場合は、「記憶読み取り人」であるがゆえに、若くしてすでに晩年にある―アリソンに比して自身そのものがすでに記憶に近い存在になってしまっている。他人の記憶によって命を縮められたルヴォは、ふつうの人であれば(果たせても)何十年かかけてやっとできるかできないかだろうことを、同じ他人の記憶によって濃縮された時間のなかで行なう―ハロルドに出会い、その意思を更新し、その結果をフェコの息子へ残す。

ひとつの記憶を何度も十分に思い出せば、とルヴォは考える。もしかしたらその記憶が前のものに取って代わるかもしれない。もしかしたら記憶はふたたび新しくなるのかもしれない。

毎時間、毎時間、とロバートは考える。地球のあらゆる場所で、果てしない数の記憶が消え、光り輝く地図が墓へ引きずりこまれる。けれども、その同じ時間に、子どもたちが動きまわり、彼らにとってはまったく新しい領域を調査する。子どもたちは暗闇を押し戻す。記憶をパンくずのようにまき散らして進む。世界は作り直される。

(「来世」)

 記憶が新しくなるとき、子どもの姿がある(ハロルドの言葉を思い合わせれば、「祖先の子ども」である大人も含めうる、などと解釈しても間違いにはならないかもしれない)。この短篇集では、子どもたちは「記憶を受け継ぐ者」というような受動的な存在というよりも、ルヴォのように、「記憶を伝達する者」ないし「発見する者」「更新する者」としてそこにいる。


 で、本当はこのあと、「メモリー・ウォール」でキーワード然としているスティーブンスンの『宝島』―中島敦絡みで以前から一度は読んでみようと思っていたこともあってこの機にこれも読んでみたところ、思いのほか引き込まれて、いろいろと気づきもあったので書こうかと思っていたものの、すでに一興を通り過ぎて興醒めの域に踏み込んでしまっている気がする(そもそも『オトナ帝国』に言及した時点で早速脱線、直行していたけれど)。ま、いっか。1つ2つちょろっと書いて、このへんでおしまいにします。

 たぶん、この短篇集の収録作は、収録順に書かれたものと推測する。というのは、途中で気がついたことに、「ネムナス川」ではその前にある「一一三号村」ためか、アリソンは「大きな悲しみ」にダムの比喩を使う。次の「来世」では、「ネムナス川」にある「光を吸って、色を吐く」をべつの表現でローゼンハウム医師の夫人が口にする…といってたまたまかもしれないし、他の短篇間でも符号があるかどうかわざわざ確認していないので実際にはどうだかわからないけれど、仮にこの推測が正しいとして、では、はじめの「メモリー・ウォール」の前には何があったのだろうか。

 『宝島』である。

 「メモリー・ウォール」は『宝島』を下敷きとした―換骨奪胎した短篇だろう。宝島の地図はアルマの記憶、フリント船長のお宝はゴルゴノプス・ロンギフロンスの化石、ルヴォは、『宝島』の主人公ジムの生まれ変わりだったのだ。