映像と音楽で語られる“現代の民話” 『アンダーグラウンド』
今年7月、アフリカで南スーダン共和国が分離・独立した。また1つ、国が生まれた。このように「国が増える」ということに対して違和感を抱く人はあまりいないのではないかと思われる。(表向き)国民国家がスタンダードになった現代にあって、国というものは「増えることはあれ減ることはない」ものだとなんとなく思い込みがちだ。とくに日本に生まれ・育った人にとっては。しかし、国は亡くなることもある。ソ連のように。
あるいは、バルカン半島にあった旧ユーゴスラヴィアのように。エミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』は、この旧ユーゴスラヴィアを舞台とした、いわば「戦争喜劇」である。また、本作においては舞台と共に重要な要素―語られる時代は、第2次大戦(第一章)に始まり冷戦(第二章)、そして民族紛争に至り国が消滅する(第三章)までの、およそ50年間―
その分、上映時間が170分と長編だ。坂口尚『石の花』を読んでからこっち、ユーゴづいているおれとしては是非とも観たいと思った反面、この長さにやや尻込みしたし、上映館が下高井戸シネマとちょっと遠かったため行くのが面倒臭かった(余談ですが、「面倒臭がりや」と「恥ずかしがりや」は今の若年層ではごくごく普通の性質だと思う)。そんなとき、折りよくid:noman29さんがブログにこの映画の記事をアップされて、どうやら良作のようだったことと、おまけにDVDも手に入らないという事実を知り(公開は1995年)*1、ここは奮起して観に行くことにした。
そして、ひとたび観始めてみれば―のっけから全開で奏でられるジプシーのブラスバンド演奏を中心とした陽気なユーゴ民族音楽、一癖も二癖もあるアクの強いマルコ、クロ、ナタリアの3人、散りばめられたブッラクユーモア、当時の記録映像に主人公たちを紛れ込ませた合成カットetc.―それらによって生み出される狂騒的圧倒的なエネルギッシュさとおもしろさにがっぷり掴まれ、最後までがっつり観入ってしまった。上映終了後には、先の面倒臭さや尻込みが嘘のように、もう一度観たい!!と思っていた。実際、2回観たぜ。
この映画の魅力の源は、文学で言うところのマジックリアリズムに通じるものがあるように思う。もっと言えば、民話。作中人物たちは語り手(作り手)ないし聞き手(観客)と同じ地平上にあり、フラットに描かれると同時に、みな何かが過剰なペルソナとしてある。過剰なのは性格というよりも、資質。聞き手は彼らに親しみを覚えはしても、敬いはしない。ありえないこと、一見すると荒唐無稽であることがそこでは起きるけれど、しかしそれが気にならない、というよりそこに現実味が見える。
たとえば、この映画の印象は、浦島太郎の話にどことなく近いように思う。「アンダーグラウンド」という存在だけでなく、物語の流れ・起伏のあり方が。最後の場面に至るクロと浦島さんはいろいろな意味で反対の行程を歩む。
こうした民話との共通性は、もしかすると、監督をはじめ製作に携わった人たちのそれほど意図していなかったところかもしれない。けれど、彼らの「たしかに存在した旧ユーゴズラヴィアという祖国を“ありのままに”語り伝えたい」という想いがこの魅力を期せずして生んだのかもしれない。などと思う。
最後の場面で、クロと、彼を騙していた親友マルコとの陽気なさらっとしたやりとり―(ネタばれの気があるため反転表示)→「許してくれ」「許そう。でも忘れんぞ」―は、やはり印象的だ。『石の花』のエントリーで、旧ユーゴ出身の友人夫婦をもつid:kuwachann-2_0さんが「彼らにとっては“複雑=スタンダード”であり、そんな彼らこそ真のグローバル市民のような気がします」というコメントを寄せてくださったのだけど、クロとマルコのこのやりとりは、そんなユーゴ人であればこそ“さらりと”口にできた言葉であるかもしれず、同時に、世界中で争いの火種となっている歴史問題・民族問題などに対する、1つのメッセージとして受け取ることも可能だ。
「むかし、あるところに国があった」という一節でこの映画は始まる。主人公の3人と共にはじめから登場し、かつ唯一嘘をつかない吃音のイヴァンも、ある場面でほぼ同じ言葉を口にする―いまは亡き国を語り伝えるこの映画はまた、“現代の民話”かもしれない。
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