午前十時のノスタルジア
映画って結構シビアな―というか制約の大きい―表現形式だなぁ。などと、ときどき思う。
「スクリーンで観る」ことを前提にして製作されているにかかわらず、一般人が実際にスクリーンで観れる期間はとても短い。ほとんどの作品が1年も経てばスクリーンでは観られなくなり、一度上映が終了してしまうと、もう一度スクリーンで観れるのはいつになるやら。というより、名画座などでやってくれない限り、二度と観れないと思ったほうがよい。
まぁあらためて言うまでもないくらい、当たり前なことではあるけれど。
でも、映画はいちおう本来はスクリーンで観るべきものであろうから、DVDやブルーレイで何度でも観ることはできても、本当の意味では体感しきれないところ(たとえば単純に「臨場感の減」とか)というのはあって、これは無視できるものでもないのだろうなぁと。
この点、音楽も似ているのかもしれない。ライブとCDとでは同じ「聴く」でも、やっぱり違う…こういう見方をすると、演劇なんかは映画や音楽にも増して制約が増す。
さて、なにが言いたいのかと言うと、ある音楽を聴いたりある匂いを嗅いだりすることで記憶や思い出が呼び起こされることがあるように、映画を観てもそういうことがやっぱり起こるのかもしれない。ということ。
ここ2年間ほど、TOHOシネマズを中心に一部のシネコンで『午前十時の映画祭』と銘打ち、「往年の名作」と一般に言われているような作品を1週ごとに随時上映している(来年にも第3回をやるようだが、それでひとまず終わりにするとのこと)。はじめにこれを知ったのはまだ映画館でバイトしているときだったため、「またメンドーな企画ですねこりゃ。まったくもって迷惑な話である(朝からシニアがいっぱい来ちゃうじゃんか)」と思わずため息が漏れた憶えもある一方で、客としては嬉しい企画であることにまちがいはない。おまけに安い。
地味に数作ほど、おれも観に行った(客として)。見たところそこそこ混んでいて、客層はやはりシニアが多いけれど、比較的若い人もちらほら来ている。年齢問わず、お一人様もけっこういる。
個々の作品が“名作”と言われるに値するのかどうか、それはわからないが、幾度か『午前十時の映画祭』に足を運んだ結果、とある印象に残ったことがある。鑑賞後の一部のシニアの姿である。
エンドロール―ないものもあった―が終わって館内が明るくなったとき、ちらと隣の人や前の人なんかを窺うと、膝元で音を立てない程度に静かに小さい拍手をしているおばあちゃんがいたり、顔をうつむけ涙をちょっと拭いつつしばらく余韻に浸っているらしいおじいちゃんがいたりと、ふだん映画を観に行ったときとはややちがう様子を目にした。
全体の感じも、「まぁおもしろかったね」的な軽い満たされた感ではなく、『おくりびと』のときにあったような「天国の香り」でもなく(笑)、おいしいものを食べた後のような至福感・満足感がそこはかとなく漂っていた。とはいえ、以前一度は観た映画であり、そしてもう一度観たい、という人が大勢来ているだろうから、これは当然といえば当然かもしれない。
しかし、いま喩えで使った「おいしいもの」の“おいしい”というのは、美味という意味じゃない。懐かしい味、という意味合いにちかいように思う。小さい頃に母親がときどき作ってくれて大好きだったオムライス、みたいな“おいしいもの”。
「若いときにはじめて2人で観に行った映画で、それをまた映画館で観れて嬉しい」と、隣の座っていた老夫婦と話したとき、そのおばあちゃんは言っていた(これは『ベン・ハー』のときで、後で調べたら50年前の映画だとわかり一人おどろいた)。
おばあちゃんやおじいちゃんがさりげなく拍手をしたり涙を拭っていたりするのは、映画に感動したということももちろんあるのだろうが、いま観た映画を、リアルタイムで観た当時の記憶や思い出がフィードバック(orフラッシュバック)したり、心が過去へタイムトラベルしたりしているからなのかも…などと思ったりする。
これに、先に触れたシビアさを思い合わせた。「もうスクリーンでは観れない」という期間があったればこそ、シニアたちのあいだでは感慨も一層増した…とも考えられる。
となると、「たとえ新作であってもスケジュールの新陳代謝が盛んで次から次へとラインナップが変わっていくし、本みたいに数年後にもう一度読んだらどんなだろうみたいな楽しみ方をしようにも、スクリーンで観れないのが残念である」と思ったり、「なんかもったいないというか、シネコンでも旧作もときどき上映すればよいのに」と思ったりもするけれど*1、スクリーンで観れる期間が限られている―つまり「期間限定」―というところも、映画が映画であるための由縁に一つ、あるのかもしれない。などと思ったり。ずっと上映していたら、それはそれで映画の楽しみ方もまた、ちょっと変わってくる気がする。
ちなみに、おれが観た午前十時のなかでは『アマデウス』なんかが印象深き映画だった。鑑賞当初は、実はそれほど感銘を受けたわけではなかった。が、主人公のサリエリという人間に存在感があって忘れがたがった(それがために後に再観賞することになった。また、思えば、このサリエリが『トニオ・クレーゲル』のおれの解釈へ導いたといえる)。
なんて思ったことなんかを忘れていたとしても、うん十年後にスクリーンで観る機会があって観に行ったら、思い出したりするのだろうか。でもたとえば、先の老夫婦のように50年後だったとしたら、おれは70歳を超えている。
…う〜ん、たぶん、もう死んでるだろうな。シビア。