『笹まくら』再読/戦争モノの黒い魅惑

 もし、明日にも日本が戦争をはじめるという情勢にあったとして、そのために自分が徴兵されたとしたら、おれは一体どうするだろう…?

 —なんてことを思ったりしたのは、このごろ、戦争モノに触れる機会がちょっと多いからかもしれない。『ツリー・オブ・ライフ』(これは戦争モノじゃない)を観たのを機に同じくテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』や、アリ・フォルマン監督『戦場でワルツを』を観たり、坂口尚『石の花』に端を発する旧ユーゴ関連もそうだし、半年ほど前から順次刊行されている集英社の「戦争×文学」シリーズに手を出してみたりしていた。

 「戦争×文学」というシリーズについては―これは明治から現代までの日本文学のなかで、戦争が題材になっている短編をテーマ別に収録したアンソロジーなのだが―戦争というテーマはやっぱ重い…ということもあってか、SFとかファンタジーの色が濃い『幻/イマジネーションの戦争』と、マジックリアリズムとかホラー色のある『冥/死者たちの語り』の2冊をまずは手に取ってみた。

死者たちの語り (コレクション 戦争×文学 13)

死者たちの語り (コレクション 戦争×文学 13)

 そうしたなか、あることに気づいた(ちなみに、ここで言う「戦争モノ」というのは、アニメやゲームに見られるような設定・装置ないしアナロジー的なものではなく、戦争そのものを描いているような作品のことを指します)…底なし沼の中は気持ち悪く、身体が沈んでゆくことに恐怖を覚えては反射的にもがくだろうけれど、反面、ふと、もがくのを諦めたとき、泥の感触はなんとなく気持ちよく感じられたりするかもしれない…などと思ったりしたのだけど、戦争モノには、そんな、ある独特の快感がある。

 小説や映画などに触れるとき、「自分ではない人間の人生を味わってみたい」とか「こことは違う別の世界を体験してみたい」といった気持ちが、少なからず働いているものだと思う。思えば、その点、いわゆる「戦争を知らない」世代にあるおれにとって、戦争は格好の題材だと言えるのかもしれない。いま現在の生活のなかで、自分が兵士になるとは考えにくいことであり、またどうしても、実感的には、戦争は「外の話」あるいは「昔の話」としてまずある…つまり、いまここにある自分とは「まったく別の人生」と「まったく違う世界」が、戦争モノには約束されているということである。

 もちろん、戦争そのものは、おもしろがれるものではない。しかし戦争モノというのは、テーマが深刻で、切実で、重いぶんだけ余計に、泥沼のような暗い独特の魅惑を孕んでいるように感じられる。戦争モノに触れたあとは、「すごい世界を通ってきた…」と吐息漏れることが多く、読中読後、描かれているような状況に実際に置かれたとしたら、自分はどうするだろう…?と自問することも少なくない。

 そして、そうした自問の1つに、冒頭の問いがあった―もし徴兵されたら…?まあ、ほとんど迷うことなく、徴兵忌避だろう。これはおそらくおれに限った話ではなく、いまの日本で徴兵制をいきなり敷いたとしても若者が皆それに従うかというと疑問で、というより大部分が従わないだろうし、政府からすれば思うように機能しないということになるのではないか。しかし、たとえば、第2次大戦までの日本にあって徴兵忌避というのは、窃盗はもちろん、殺人よりも重い罪とされていたらしい。憲兵に捕まれば厳罰、自分だけなく親族も世間から白い目で見られることになったという。

 徴兵忌避という行為は、一体何を意味するのか(していたのか)。徴兵忌避を「恥」や「罪」とする社会って、一体どんな社会なのか(だったのだろうか)…?などと思い巡らせていたとき、ふと思い出したのが、丸谷才一の『笹まくら』だった。


 主人公の浜田庄吉は、太平洋戦争をはさむ昭和15年〜終戦の昭和20年、年齢で言えば20歳〜25歳の5年間、徴兵忌避者だった。家族にも友人にも誰にも告げず、「杉浦健次」という偽名を使い、北海道から九州、ときに朝鮮半島まで、全国各地を転々としながら「逃亡生活」を送った(憲兵に見つかると危険なため都市部は避けて)。工業高校出の彼は、はじめはラジオと時計の修理、途中からは砂絵屋(香具師)としてなんとか食いつなぎ、奇跡的に、逃げ切ったのだった―

 3年ぶりくらいに再読したけれど、これは傑作。この小説を鹿島茂は「戦争の気持ち悪い実感を描ききった“戦争後遺症小説”」と評したらしい。そう、たぶん、これは「ある時代の空気」が生み出した小説なのだろう。「気持ち悪い実感」というのがじわりじわりと伝わってくる。

 ジョイスのいわゆる「意識の流れ」という手法を使って、浜田庄吉の「現在」と杉浦健次の「過去」が入り混じりながら描かれてゆく。入り混じりながら、というのは、平行して、ではないということ。記憶と連想。ある感覚やふと頭に浮かんだ言葉を契機に、次第に、ときに強迫的に、ときに甘美に、浜田庄吉の「現在」に杉浦健次の「過去」が甦ってくる。あるいは絡みついてくる。

 終戦から20年後の「現在」、40代の彼は、某大学の庶務課で課長補佐として勤めている。若い奥さんをもらい、地味だが概ね満ち足りた日々を送っていた、そんなある日、彼に1枚のハガキが届く。20年前の逃亡生活のなかで出逢った、当時の恋人であり、恩人でもある阿貴子の訃報を知らせるものだった―このハガキが「過去」を想起させるはじめのトリガーになったようである。しかし、その後はむしろ、「現在」で起こる出来事のほうが「過去」の去来に拍車をかけるようになる(つまり弾はもとから装填されていた)。

 「現在」で起こる出来事とは、大学内の職員人事である。彼は昇進できそうになるが、同僚にそれを阻まれる。というのは、課長補佐にはもう1人、西という男がいて、この男は浜田より1つ年下だが、勤め先の某大学の卒業生であり(浜田は違う)、また浜田よりも先に勤め始めていた。浜田の昇進は西を差し置いてのものだった。浜田がなにか裏工作をしたわけではなく、上が決めた昇進ではあったけれど、西にとってはおもしろくない―「だって、あいつは徴兵忌避者だったじゃないか・・・!おれは違う、たしかに徴兵忌避はしたかったけどその勇気はなかった…“ちゃんと”出兵した。アッツ島に送り込まれ、勝つ見込みはおろか食べものもなく、所属する小隊はアメリカ軍に全滅させられるなか、奇跡的に生き残った…でも、あいつは違うじゃないか」―

 西といえば、この作品は浜田庄吉あるいは杉浦健次の視点で進行してゆくけれど、1つだけ(唐突に、しかし絶妙なタイミングで)、西の視点で描かれる章がある。それは「酔いにまかせた独白」として描かれているが、世間体や道徳観という抑制が外れた「生き残った者」である西の心情吐露もまた、いやに生々しい―ちなみに「生き残った者」の心的荷重を題材にしたものだと、先に触れた『冥/死者たちの語り』にも収録されている、目取真俊の『水滴』が印象的。

 閑話休題。どうやら、終戦直後はむしろ、徴兵忌避が問題になることはなかったらしい。ところが終戦から20年後の「現在」、戦争の記憶が薄れはじめるとともに右傾化する世相の影響を受けて、同僚内で、あるいはベトナム戦争が起きていることを受けて学生間で、徴兵忌避という「過去」がにわかにクローズアップされるようになってしまう。

 浜田庄吉の中で「徴兵忌避は決して恥じるべきことではない」という考えは、「過去」と同様、「現在」でも変わらない。しかし一方で、自分のあの行動のために母が死に、弟は上官に殴られて耳が聞こえなくなったのではないかとか、自分が出兵しなかった代わりに誰かが死んだのだろうとか、この20年間、自責の念のようなものにちょいちょい苛まれてきたらしい。そこに上記のような、居心地の悪い雰囲気。

 敗戦し、憲法が新しく作られ、国は生まれ変わった・・・はずなのだが、戦中の「徴兵忌避」という過去がついてまわる。昇進話から一転、失職の危機に立ち至る浜田は、この職場がずんと息苦しいものとなってゆく…過去の去来が頻度を増す。それは懐かしさや羨望を伴うようにさえなってくる…


 冒頭のおれの問いに戻ると、「現代の日本」を前提にして考えていた。だから徴兵制というものに現実味をもてないところがあるし、「過去」における徴兵忌避というリスクを頭では理解できても、感覚的にはどこか理解しづらい。けれど、この小説を読んでいて、徴兵忌避という行為は、いまで言う「ドロップアウト」をアナロジーとして使ってみると感覚的に捉えやすくなるような気がした―高校でも大学でもよいが、自主退学ないし「中退」という選択を採る際の感覚にちかいのかもしれない。

 この学校は合わないとか、通っても意味がないとか、たとえばそんなふうに思っても、いざ中退となると、ふつう躊躇する(もしくは周りが止める)。昨今学歴なんて関係ないという風潮になってきてはいるとはいえ、実際に大卒かそうでないかは就職に影響が出たりするわけであって、社会的・将来的な(見方によっては無要の)リスクが伴うのは事実―「社会の流れから降りる」という点が1つ。

 また作中に、(終戦後の話で)浜田の履歴書に言及される場面があるのだけど、そこに彼ははじめ「軍歴:徴兵忌避、賞与:なし」と記入していた。つまりそれまで、当時は、学歴と同様に履歴書に書くべき事柄だったということだ。中退しようがこれから先も一度所属したことのある学校名は消せないし、中退という履歴も同様である。これも似ている。

 もう1つ、「中退」に似通っていると思わせることがあった。が、それはこの小説の肝に触れることだとも言える。未読の人の興趣を削ぐことになってしまうかもなので控えます。

 こんなふうに考えて、徴兵忌避は、いまの時代で言うドロップアウトのようなものだったのではないかと。ただし兵役の場合、(一応は)本人の意思に基づいて進学するいまの高校や大学という制度とは違い、「一定の年齢に達した人間(男子)は全員が果たすべき義務」であり(だから、義務教育を離脱すると考えたほうがむしろいいかもしれない)、同時にそれが「正義」でもあったのだから、そこからのドロップアウトに伴うリスクや心的ストレス、周囲の人々に与える影響は、アナロジーのそれに比べて、何重にも重い選択だっただろうと思う。当人のみに限ったインパクトであれば、いまで言うと、国籍の放棄(ないし剥奪)くらいの覚悟が必要だったかもしれない。


 ラストでは「現在」はもちろん、「過去」においても決して現れることのなかったある人物がさりげなく姿を見せたこともあいまって、胸にきた。 



笹まくら (新潮文庫)

笹まくら (新潮文庫)