第7回:『エンジン・サマー』ジョン・クロウリー

 
 このお話には<空の都市>と呼ばれる空中庭園が出てくる― 

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)

 ―のだけど、どうしても「天空の城」のイメージになってまうなあとちょっと困っていたら唐突に「ラピュタ」なる名が出てきてびっくりした。ウィキッてみれば、もともとは『ガリバー旅行記』に「空飛ぶ島・ラピュータ」が出てくるのであって(ちなみにこの島は太平洋沖に浮いていると思われる)、宮崎駿もここから名前だけ借用した―と知って2度驚いた。

 今回はast15さんふうに。 


もし野島一成が『エンジン・サマー』を読んだら

 FFXになる。『エンジン・サマー』で描かれている数千年先の未来の姿は、スピラだ。

ファイナルファンタジーX

ファイナルファンタジーX

 文明が滅びた原因とされるものは違う。『エンジン・サマー』には魔法も人獣も召喚獣も出てこない。ゲームのほうは広い意味でのセカイ系、小説のほうはあるいはビルディングス・ロマンふう、という具合に作中の色合いも異なる。しかし両作とも、かつて存在したハイテク文明の記憶がほとんど神話化された、そんな数千年後の世界。
 
 『エンジン・サマー』は遠未来モノだけど、思えば、「文明が滅んでも、世界が終わるわけじゃない」という志向(?)は最近の日本のサブカルにあっては珍しいものじゃないかもしれない。『AKIRA』をはじめ、たとえば『ヱヴァ』も、すでに伝説化されている伊藤計劃の小説も、「終末後」の未来が舞台になってる。でも同時に、その未来は近未来であることが多いようにも思う。『時をかける少女』や『STEINS;GATE』にいたってはいわばカッコつきの「現代」だ。

 近未来(もしくは「現代」)が多いのは気のせいだろうか、知らないだけかな?などと思いつつ(『進撃の巨人』が遠未来モノか。巨人の正体は過去に人間が造り出した大量殺戮兵器だろうから、ハイテク文明期の記憶がゾンビになって付き纏ってるようなものかも)、まあともかく、おれの周辺視野のうちではどうやら近未来モノが多い、というのもあったのかもしれない。FFXをプレイした当時、スピラというあの世界観におれは夢中になったものだった。ティーダが、切なかった。

 遠未来ならではのおもしろさだなあと『エンジン・サマー』を読んでいて思ったのは、物。すなわち、おれたちからすれば何の変哲もない物が全然ちがう使い方をされていたり、発明した人たちも知らなかった機能を発見していたり、特別な意味を帯びていたりする様子だ(それが一体何なのかわからないモノもあったけども)。象徴的なのが、クロスワードパズル。たしかにあのパズルをまったく知らない人があれを見て、加えて言葉による謎解きだとわかれば(というのは、大英博物館で一番人気の展示物はロゼッタストーン―つまり文字モノだ―らしい)ここには何か深遠な意味ないしメッセージが隠されているのではないか?と、<まばたき>でなくても深読みしたくなる人は少なくないだろうと思う。

 というかきっと、おれたちも歴史や神話を見るときに同じことをしているにちがいないと思う。まさに悲喜劇。


叙情派SF

 2012年6月5日、レイ・ブラッドベリが亡くなった。雑誌では特集が組まれ、書店でも図書館でも彼の著作の並ぶ特設コーナーがよく見うけられた。

 実はつい最近まで、ブラッドベリをおれは読んだことがなかった。過去のSF作品に手を出す際に個人的に障壁になるものの1つに、「未来像の旧(ふる)さ」―やや乱暴な言い方をすれば「時代遅れの未来像」がある。彼の代表作『火星年代記』がまた、タイトルからして典型的で、あらすじからも「50年以上前に書かれた火星を舞台にしたSF」であることが窺われる。こういう旧さは、一旦読み始めれば案外気にならないものだと経験上わかってはいるものの、なかなかどうして、食指が伸びずに、勢いほかの作品も1つも読まずにきていた。

 ところが先日、萩尾望都の惹句に釣られて短篇集を1冊、購入してみた。そして、最初の1篇目を一読してみたところ…吐息が漏れました。

ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)

ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)

 SFと一口に言っても、ほかのジャンルと同様、SFもかなり拡散しているので、なにがSFかは人によっていろいろだろうと思う。SFは言っても齧った程度、というおれとしては、「これぞSF!(SFの王道・本格SF)」と呼ぶようなイメージがあるとすればそれは、ディックとかギブスンとかイーガンみたいな、いわゆるハードSFとかサイバーパンクとか呼ばれる類かもしれない。たぶん、だからだろう、ヴォネガットをはじめて読んだとき、SFというよりは「SFっぽい」という感じのガジェットやテクニカルタームの使い方が逆に新鮮に感じられた。ヴォネガットブラッドベリのSFは、SFがジャンルとしてあるというよりも、触媒として使われているというような印象を受けたりする。

 ブラッドベリのようなSFを世に叙情派SFと呼ぶらしい。感触的には、叙情派SF幻想小説とかファンタジーにジャンル分けされていてもとくに違和感はない。思うに、SFというジャンル内には3つか4つの極または方向性があるような気がする―たとえば、ひとつは科学/サイエンス、ひとつは幻想(怪奇)/ファンタジーあるいはファンタスム、みたいな感じ(超現実/シュールレアリスムというのもあったり)。「SFの王道」は振り子がサイエンスのほうにほぼ振り切られているようなSFであるのに対して、自分の気質に馴染みやすいのはどちらかと言えば、ファンタジーに振り子が振られているようなSFらしい。ブラッドベリは後者だった。

 『エンジン・サマー』も後者だった。その読み心地にはブラッドベリに通じる叙情感がある。というか「第一のクリスタル・第七の切子面」にいたっては、まるでブラッドベリの短篇にあるような情景だった。


<灯心草>のパラドックス(?)

 主人公の「真実の語り手」である少年<灯心草>は、聖人になることを目指して、善財童子よろしく<絵具の赤>や<まばたき>、<ドクターブーツのリスト>、<腹収者>等々といろいろな人のもとに赴きあるいは出会い、<ワンス・ア・デイ>との関係もそこには絡まりながら、聖人が聖人である所以や、「真実の語り」と「明るいと暗い」の本質を学んでゆく。最終的に<灯心草>は<空の都市>に辿り着く。

 彼らのあいだでときどきに交わされる問答(語るか語らないか、どのように語るのか等々)はたぶん、ネット社会になったいまにあっては、執筆当時に比べてより一人ひとりに身近な意味を持つようになっているような気がするし、個人的にも興味深かった。訳者の言を借りれば「ファンタジーとしての雰囲気」も十分に楽しめた。名作と呼ばれるだけはある良い小説だとは思う。

 けれども、正直なことを言えば、読後にやや物足りなさ(もしかしたら違和感)が残ったのも事実。数十年前に書かれた小説にこんなこと言うのはちょっと理不尽…というか見当違いかもしれないけれど、内容がより身近なものになったその分だけ、逆に、<灯心草>の正体が明かされるあの最終章が本来もっていたはずのオープンエンドとしての効果(衝撃と切なさ、もしくは余韻)は薄くなったのではないか…という気がしないでもなかった。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 あるいは数十年後のいまの感覚(科学観?)であの<灯心草>を描くと、『ハーモニー』の霧慧トァン、ないし彼女を物語るあの文体/形式になるかもしれない。