第4回:『貨幣論』岩井克人

 お金はなんで、お金なの?

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

 ダーウィンが進化を確信するにビーグル号航海が大きな影響を与えたことは有名な話だが、進化の理論を形作るうえで彼に影響を与えた本としてはまた、ライエルの『地質学原理』も有名だ。そして、この本と並んでもう1冊ある。マルサスの『人口論』である。経済の本からも無視できない示唆を受けたのだという。はじめてこのことを知ったときは、地質学はともかく、経済学と生物学という一見するとほとんど無縁に思える組み合わせに意外の感があったものの、『貨幣論』を読んでみて、『人口論』を読んだときにダーウィンの内で起こった作用、ないし閃きの感覚が―おこがましいけれど―ちょっとわかったような気がした。

 本書は、マルクスの『資本論』をはじめとする著作群、ひいては彼の論理(装置)をたたき台に、思考実験をはじめ、終始、抽象的な話が展開されてゆく。ただし急いで付言すると、抽象的とはこの本の場合、哲学的で難解という意味ではなく、議論がとてもシンプルと言ったほうが正しい。人体で言えば、筋肉や内臓器官はひとまず無視して(あるいは踏み込まず)骨にのみ焦点が絞られているという感じ。『さおだけ屋はなぜつぶれないのか?』とか『スタバではグランデを買え』といったベストセラー本なんかには手え出したことあるけどね…という程度の、要は経済学方面に疎いおれでも思いのほか支障なく読めた。おもしろく読んだ。

 ところで、誰でも一度は疑問に思ったことがあるはずだ。たとえば万札―「なんでこんな紙切れに1万円なんて価値があるんだ?」というふうに。「お金じゃ幸せは買えないんだ!」「お金がなんぼのもんじゃい!」と息巻き、破ってやるぜと指をかけ、いざ、と気合を入れても…躊躇せずにはいられない。なんの抵抗もなく破り捨てられる豪傑はそうそういないだろう。

 ヤマザキマリのマンガ『テルマエ・ロマエ』にはこんな場面がある*1古代ローマから現代日本の温泉街にタイムスリップした主人公ルシウスは、ラーメン屋でお代を払う段になって、手持ちの日本円のどれがどれだけの価値を表すのか皆目わからないことに気づく。ちょっと考えたあと、「黄金の輝きと中心に穴を空けた手の込んだ作り…これは相当に価値ある通貨と見た!」とドヤ顔、5円玉を店主に渡そうとしたのだった(ちなみにラーメンは700円だった)。実は彼の手元には千円札もあったのだが、紙幣を知らないルシウスはお札には目もくれなかった…うん、紙幣がお金であることの不思議に加えて、「なんで紙幣のほうが、硬貨よりも価値が高いんだ?」という謎もある。というか世の中、さらに不可解なことに、電子マネーというもほや手で触ることさえできなければ、ただの数字にしか見えない、実態のない貨幣まであるじゃないか…まこと、貨幣とは不思議面妖な存在である。


第一章 価値形態論
第二章 交換過程論
第三章 貨幣系譜論
第四章 恐慌論
第五章 危機論

 「お金はなんで、お金なの?」なんて、まるで子どもの疑問のごとく単純素朴な問いかけだ。しかし、いざ答えるとなると、これがかなり難しい。というより「実のところ、よくわからない…」という人も少なくないのではないか。

 本書『貨幣論』の第一章〜第三章かけての前半部ではこの、子供のような疑問を巡る議論が展開されてゆくと言っていい。ひいては「貨幣はなぜ、どんどん非モノ化してゆくのか」という点も導き出され、また、第四章・第五章にかけて「貨幣の流動性」や「時間軸」の導入などによるなかなか鮮やかな展開を見せる後半部では、前半部の議論を基にひとつの結論に至る。すなわち、資本主義社会にとって本当にヤバいのは「恐慌ではない。ハイパーインフレーションだ」―なぜならば、ハイパーインフレという現象は「貨幣が貨幣でなくなってしまう」という資本主義社会にとって根本的な危険を孕んでいるためだ…

 と、この結論、ないし理屈は理解できた。反面、ごく個人的な感覚としては前々からそうなのだけど、「ハイパーインフレが実際に起こりうる」という点に現実味をもてない。感覚的に理解しがたい。物心ついた頃からずっと「基本、不況ですねえ」という景気模様のなかで育ってきたためだろうか…理解の援けとなるような良いアナロジーはないものだろうかと、思案する。ところで逆に、本書内で引用されていたケインズの言には膝を打った。やや長いけれど孫引き。

われわれの生きている経済の顕著な特徴のひとつは、たとえ生産や雇用にかんしてはげしい変動にみまわれることがあっても、それは破壊的なほど不安定ではないということである。事実、それは回復への傾向も完全なる崩壊への傾向も見せることなく、かなりの期間にわたって正常以下の水準で活動し続けることができるように見える。さらにまた、完全雇用、いや近似的な意味での完全雇用ですら稀にしかおこらず、しかも短命に終わってしまうと信ずべき根拠がある。変動は唐突に始まるかもしれないが、極端な状態に到達する前に自然にその勢いを失ってしまうように見える。絶望する理由も満足する理由もないような中途半端な状態こそ、われわれの経済に割り当てられた通常の運命なのであろう。

不況だろうと好況だろうと、ごく個々人にとっては景気など言うほど深い意味など持たないし、根本的な影響も実は与えないだろうとおれは思う。もし個々人の人生なり価値観なりに大きな影響を与えるとしたら、個人的なお金の量―お金持ちか貧乏か、のほうではないかと。ただ、そういう個人視点に立ってみても、実感としてはきっと、「正常以下の水準」とか「絶望する理由も満足する理由もないような中途半端な状態」等々と感じる人が大方なのではないだろうかと思う。


 さて、『貨幣論』を読むなかいろいろと連想が働いたのは、マルクスを下敷きにしているがために必然的に伏流水となる「マルクスと労働価値論の関係」、ないしそれ関連の件(くだり)だった。この本の主題は興味があれば実際に手に取ったほうが理解によいと思うので、以下はこの伏流に沿ってゆこうかと思う。言い換えると、『貨幣論』という骨に、連想という名の脂肪をつけてゆきます。

 まず、マルクスにとっての労働価値論のあり方が、なにやらアインシュタインにとっての神に似通ったものがあると思えた―「神はサイコロ遊びなどしない」という発言に端的に現れているように、アインシュタインは神の存在を信じ、崇敬していた。しかし、そのために、のちに「生涯最大の失敗」とアインシュタイン自身が告白することになる、とある“穴”を作ってしまうことにもなった。

 アインシュタインは、彼自身の導き出した宇宙方程式―これによると「宇宙は膨張したり収縮したり」することになる―に困惑した。「神が創った宇宙は永遠不変なはずなのに…」と悩んだ挙句、根拠不明の「宇宙項(宇宙斥力)」という“穴”を自ら導入してむりやり潰れない宇宙を提案した(しかし今度は、星から放出される廃熱が溜まることでこの宇宙もいずれ熱死してしまうという展開になってしまい、アインシュタインのジレンマは終わらなかった)。結局、まもなく、大型望遠鏡によるハッブルの観察・研究から「ほとんどの銀河が遠ざかっている」「銀河の遠ざかる速さは距離に比例する」ということ「ハッブルの法則」が明らかとなる。ただ、アインシュタインの偉いところは、これを受けて潔く間違いを認めたことで、宇宙項は削除されるに至った。ちなみに、このハッブルの法則、宇宙項がなければ宇宙方程式でちゃんと予言・説明できるものだったという。

 『貨幣論』において展開されるのはまったくの新しい論理というわけじゃない。岩井氏曰く、「(マルクスが)半分も使い切らないうちにあわただしく打ち切ってしまった」というマルクスが編み出した論理装置をきちんと作動させたにすぎないのだという―『貨幣論』の内容・主張とはつまるところ、マルクスが避けたと思しき、しかし彼の価値形態論から必然的に導かれる“循環論法”を正面から推し進めることで得られるものなのだと。この点がまるでアインシュタインの宇宙方程式みたいで、マルクスが自身の価値形態論から導かれてしまう循環論法に陥らないために設けた“穴”は、おそらく、労働価値論のためだった。ではなぜ、“穴”を掘り抜いておく必要があったのだろうか?…この循環論法が他でもない、労働価値論をひっくり返し、無効化してしまうためだ。
 
 天才2人、人間臭さを感じさせる共通点があったものである。とはいえ、マルクスの場合、時代の制約や当時の社会的な要請といった切実さを思い合わせてみると、この“穴”、たぶん、単に「逃げ道」と言うにはちょっとちがっただろうとも窺われる。19・20世紀に労働価値論、ひいては社会主義が大きなうねりとなったのは言うまでもなく、産業革命にはじまる急速な機械化・大規模化による劣悪な労働条件や搾取が凄まじかったからだ。また、サン=シモンやフーリエオーウェルたちの思想を「空想的社会主義」と呼び、マルクスエンゲルスは自分たちのそれを「科学的社会主義」と宣したものだが、いわゆるマルクス主義の背景には古典派経済学、唯物史観、それから弁証法があった。とくに弁証法に着目してみると、彼らの目に循環論法は、「論理の陥穽」「詭弁」みたいに映っていたかと思える。

 マルクスが設けた“穴”の通じる先は、金鉱山だった。アダム・スミスリカードなど古典派経済学が「発見」しマルクスが受け継いだ労働価値論とは、「ものの価値とはその生産に社会的に必要となる労働時間によって規定される」「労働の量によって計られる」という「価値法則」のことだが、マルクスは、商品世界ないし資本主義社会において要(かなめ)となる貨幣の価値、というか貨幣の元となる金の価値は、その生産源である金鉱山で働いている労働者たちによって担われていると主張したのだった。

 実は『貨幣論』を読むまでおれは、マルクスの労働価値論にとって金鉱山がこんなふうに切っても切り離せない要素だとはとんと知らなかった。けれど、これを知ったおかげで、数年前に観た映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』のとあるシーンにちょっとした合点を見た。

この映画は、エルネスト―のちに“チェ・ゲバラ”の愛称で知られることになる青年―が、友人のグラナードと共にバイクに跨り南米大陸を縦断するという実際にあった話(エルネストの日記)を原作に作られたロードムービーである。この旅がなければエルネストは、もしかしたら“チェ・ゲバラ”になっていなかったかもしれない…というくらいターニングポイント的な旅だったよう。この機に再鑑賞した。愛車「ポデローサ」が鉄のかたまりになってしまい徒歩で旅を続けることになるあたりから、それまでの陽気さが影を潜めはじめ、2人の旅の様子が変わってゆく。

 チリはアタカマ砂漠を縦断している途上で2人は、土地を追い出され、鉱山に職を求めて旅する夫婦に出会う。夫婦はごく普通の人だが共産主義者であり、そのため仕事がうまく見つからず、鉱山を目指しているのは主義思想を問われないからだという。2人は夫婦と共にとある鉱山に行き着く。そして、非道な鉱山の「現場」を目の当たりにしたエルネストは、現場監督者らしき男に向かって「みんな喉が渇いているんだ、水くらいやれよ!」と思わず噛みつく。しかし男は取りつく島なく、かつ居丈高であり、労働者を積んだトラックでさっさと出てゆこうとする。それを見てエルネストは、「くそったれ!」とトラックに石を投げつけるくらいしかできない。

 このように明らかに象徴的なシーンなわけであって、しかも映画製作者たちを含めおれたちは、カストロと共にキューバ革命を起こし、ボリビアの山ん中でCIAに殺されたという後のエルネストの行く末を知っている。ために、このシーンになんとも言えず悲哀を感じることになる。そして今回、「場所が鉱山」というのが実は他に変えられないポイントであり、鉱山であることによる意味合い・含みを知ることになったのだった。たとえば、共産主義国家の親分株たる「ソ連の崩壊」といった歴史へと観客の意識をカットバックさせるシーンでもあったのだろうと。

 チェ・ゲバラを感化し、あるいは共産主義国家に“化けて”しまった労働価値論は歴史的に失敗したように見え、『貨幣論』においてはマルクスにしたがいながら、マルクスを越えて、マルクスを読み直」すことによって、無効化されてしまうことになる。そして、岩井氏が提示してみせた循環論法というのは「貨幣の起源(貨幣の貨幣たる根拠)」を宙ぶらりんにしてしまい、しかも宙に浮いているからこそ「貨幣は貨幣になる」という構造になっているのだが、「貨幣の起源」についてはアリストテレス以来1000年間、2つの「創世紀」が争われてきたのだという。「貨幣商品説」と「貨幣法制説」である。

 貨幣商品説とは、「貨幣とはそれ自体が価値をもつ商品を起源とし、ひとびとのあいだの交換活動のなかから自然発生的に一般的な等価物あるいは一般的な交換手段へと転化した」という主張。一方で貨幣法制説とは、「貨幣とはそれ自体が商品としての価値をもつ必要はなく、申し合わせや勅令、社会契約、立法にその起源をもとめることができる」という主張だ。マルクスは、そう、労働価値論という点からわかるように、貨幣商品説に立っていたわけである。

 岩井氏はレヴィ・ストロースの「(神話の目的とは)矛盾を克服してしまうための論理的なモデルを提供することである」という言葉を引き合いに出しつつ、2つの説はこの意味での「神話」にほかならない(不毛な論争だ、いくら議論を闘わせたところで本当のことなどわかりっこない)と断じる。真に重要なのは貨幣が「ある」か「ない」かなのであって、さらには、循環論法にあっては始原に起きたはずの「奇跡」と同様の「小さな奇跡」が実は、毎日毎日起きているのだという―

貨幣が今まで貨幣として使われたときという事実によって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣がじっさいに今ここで現実に貨幣として使われる。(中略)貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである。すなわち、(過去をとりあえずの根拠にした)無限の未来まで貨幣であるというひとびとの期待を媒介として、今まで貨幣であった貨幣が日々あらたに貨幣となるのである。(※カッコはおれ)

 2つの「創世紀」のどちらが正しいのかと固執することには個人的にもあまり意味はないように思うし、循環論法の説明にもとくに異論はない。このような循環労論法による見解はむしろ、しっくりくるものがある。
 
 とはいえ、同時に素朴に思ったことは、商品説と法制説を「神話」と言うならば、循環論法も立派な「神話」ではないか…?と。岩井氏は神話、ないしレヴィ・ストロースの発言を誤解したわけではないだろうと窺えるものの、「神話」を一面的に見ているような気がする。

 「循環論法」とは、(著者も述べているように)図式的には「円環構造」である。この「円環」というのは「創世紀」と同じくらい―ウロボロスの蛇やメビウスの輪とかあるように―神話ではおなじみの構造、ないしモチーフだ。あるいは、「循環」を運動として見てみれば「反復」ということになるけれども、この点についてもまた、宗教学者ミルチャ・エリアーデ「歴史時間の特徴は二度と反復されない点にあるのに対して、神話的な時間はつねに反復されるところに特徴がある」と述べていたりする。*2上の引用部からもわかるように「貨幣は反復の産物だ」と言っても間違いではないだろう。

 だから、循環論法も「神話にすぎない」と言える。ただ、仮にいま触れたような意味で神話的に裏を返せば、循環論法だからとただちに却下するのはちがう、というか、循環論法は決して詭弁でも論理の落とし穴でもないということにもなりうる(岩井氏の循環論法の受け取りかたはむしろこっち)。「出口がない」こと、それが「出口」になる。みたいな(あるいは生物学を援用すれば、岩井氏の言う「貨幣の循環論法」は、進化で言う「赤の女王仮説」に似通っているものがあるかも)。

 さておき、循環論法を受け止めてみたとき、マルクスの労働価値論はマルクスの言うような意味をもたないものになってしまい、また、資本主義にとって本当の危機となるのは恐慌ではハイパーインフレということになるのだった。というわけで戻ってきたので、最後に、ハイパーインフレについての思案の続きを。


 上述したように社会規模でのそれは個人的にわかりにくいものがある。しかし、いわば「ひとりハイパーインフレーション」というふうに考えてみると、ちょっとわかりよくなるような気がする…たとえば、日本史の教科書か図録かで見たことあると思うけれど、明治期のページに「(たしか芸姑さんのために)成金がロウソク代わりにお札に火をつけて灯りをとってあげるの図」というのがあった。成金のように人生の中途からお金持ちになったような人は、金銭感覚がおかしくなる、とよく言われる。もしくは、そう見えると。これはつまるところ、彼・彼女個人において「貨幣があってないようなものになる」ハイパーインフレ的現象が起きているからかもしれない。
 
 はたまた、べつにお金持ちに限らずごくごく普通の人にも、錯覚的に「ひとりハイパーインフレーション」は起こりうるものだろう。その恐さを描き出した見事なミステリ小説がある―などともったいぶる必要のないほどよく知られた小説で、宮部みゆきの『火車』だ。

火車 (新潮文庫)

火車 (新潮文庫)

 「謎を解く鍵は、カード会社の犠牲ともいうべき自己破産者の凄惨な人生に隠されていた」という惹句にあるように、「クレジットカードによる自己破産」つまり、「ひとりハイパーインフレによる人生崩壊」がこの小説で描かれていた(と記憶する)。そう、「(硬貨や紙幣のようには)目や手で現物を確認することのできない、ただの数字としてしか認識することができない」電子マネーには、錯覚を起こしかねない。個人的なこと言えば、浪費癖の気味のあるおれは、電子マネーに対してどこか「いくら使っても減らない」ような感覚がある(別の言い方をすれば、お金を使った気があまりしない)ようだから、基本的には使用を控えている。
 
 『火車』読んだの高校生のときであって、細部はもちろん、記憶をちょっと探ってみたところ筋もいい具合に忘れているので、この機に再読しようかしら。


*1:第3巻・第13話

*2:ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』「解説」における、木村榮一氏の言