第5回:『ヴァギナ』キャサリン・ブラックリッジ

 
 目を逸らすなかれ。

ヴァギナ 女性器の文化史 (河出文庫)

ヴァギナ 女性器の文化史 (河出文庫)

 これでもか!というくらい、ヴァギナである。神話や伝承、民俗学、宗教にはじまり、文化人類学、彫刻、壁画、言語学、哺乳類や昆虫の生態等を視野に入れつつ、生物学、医学、解剖学、生理学と広角的・多角的にアプローチし、偏見や固定観念、妄念に歪められたヴァギナの姿を描きなおしてみせる。個人的には、前半部の文化面からのアプローチよりも、科学的な面から展開する後半部が興味深く読んだ。

 まずはじめに、本書で明かされるヴァギナの姿の例をいくらか並べてみよう―文化面では、先史時代を眺めてみると、ペニス信仰よりも数千年早くヴァギナ信仰が起こったことが窺われるという。中世までは魔除け(厄除け)や生殖力の増進(豊穣・多産)、あるいは、誕生や再生(復活)の象徴だった。言葉にもそれは表れており、たとえばヒンドゥー語でヨニとは「子宮」「起源」「源泉」という意味をもつ(ちなみに「ヴァギナ」は「鞘」という意)。ときには神として扱われた。三角形はヴァギナのシンボルだった。ハートマークの由来はヴァギナではないかという説がある。

 科学面では、ヴァギナはペニスを裏返しなどではなく、また、クリトリスはペニスの残存物でも相同器官でもなくてむしろ「男性にもクリトリスがある」と言ったほうが正しいことが明かされる。クリトリスはλ(ラムダ)型というよりY字型で、ふつうクリトリスと呼んでいる箇所は全体の一端にすぎない(実体はデカい)。あるいは、鼻と生殖器は形態も構造も似通っているが、古くから言われているように、嗅覚と性にも密接な関係がある(嗅覚はもっとも原初的な感覚のひとつである)。そして、生殖において支配力・主導権を持つのはヴァギナなのだ。

 このように多様な姿を図や説明によって具体的に示されることで事実、驚嘆したり感心したりで忙しかった。が、同時に、「やっぱりそうだったか」と腑に落ちる感を覚えたりもした。どこかで予感していた。思うにこれは、おれだけでなく、おれと同年代(20代)では男女問わず似たような感想を抱く人は少ないかもしれない。つまり、ヴァギナ観が「一変」したり「ひっくり返る」というような衝撃は実はないのではないかと思う(…さてどうだろう。なむさんとast15さんの感想は以下のリンク先)


 逆に「人間の原型は女性」「男は女の派生」いう認識がなぜだかある。なぜそういう認識をもつようになったのかは定かでないものの、ここ10〜20年の小説を省みると、子宮やヴァギナの隠喩や暗喩、描写だと思われる場面を時折目にしてきた。すぐに思い浮かぶものだと多和田葉子の『飛魂』とか、莫言の『転生夢幻』とか。アニメなら『となりのトトロ』にだってそうと解釈できる場面があるにはある。もしくは、ヴァギナがひとつの世界観にまでなっているものまであって、酒見賢一の『後宮小説』がある。

後宮小説 (新潮文庫)

後宮小説 (新潮文庫)

 舞台は17世紀初頭、素乾朝末期の後宮(江戸時代で言う大奥)。この王朝の後宮は帝の閨たるただの後宮ではなく哲学的に裏付けられたものであり、宮女候補がはじめに通るトンネル「たると」は「産道」を模したもの、後宮は「子宮」とされ、また後宮哲学の構築に尽力すること大だった角先生は「真実は子宮から生まれる」という持論の持ち主である。歴史叙述的文体が妙なる小説(ところで反乱を起こした理由が暇つぶしとはひどい笑)。

 さて、『後宮小説』が第1回日本ファンタジーノベル大賞を受賞したのは1989年。20年前にすでにこういう小説がけろっと出てきたくらいであって、その後「男性優位」がことさら叫ばれたりということもなかったように思うので、著者が示したり主張したりするヴァギナ像を受け入れる素地は準備されていたのかもしれない(もしくは、いわゆる「東洋的」なヴァギナ観が脈々と受け継がれているのか?)。一方で、著者には女性礼賛過多のきらいがややあるように思ったけれど…パフォーマンスだろうか。彼女のアンバランスな態度は実際、社会通念に照らせばバランスを取れるものなのかもしれない。


 本書の本願は、「装飾性を除けたヴァギナの全体像を提供してみせること」―歪んだヴァギナ観を一新することにある。これが第一。ひいてはもう1つ、著者が端々で力を込めて主張する点がある。というのも、ヴァギナの姿を歪めてきた原因には、キリスト教イデオロギーや男性優位主義の価値観など社会的・文化的な影響を無視できず、不純・不貞だと疎んじられたり蔑まれたり、男性をものさしとして女性を測ってきたがゆえに女性器の研究が蔑(ないがし)ろにされ、阻害されてきたという経緯があるらしい(とくに19世紀後半から20世紀にかけてヒドかったよう―ちょうどフロイトの時代と被るのは偶然ではないかも)。そのため、ヴァギナの研究は現在、端緒が切られたばかりだという。手がかりは掴めてきたものの、クリトリスや女性の前立腺の構造や機能、オーガズムの役割はまだまだ謎に満ちている。

 科学は文化や社会全体の感情、ものの見方から独立した客観的なものでは決してない。ある科学理論を理解するためにはそれを生み出した文化にも目を向ける必要があるということである―これは肝に銘じておくべきことだ(もほや決して目新しい指摘というわけではないのでなおさら)。

 ヴァギナの構造や機能、ひいてはオーガズムの役割などを研究・解明してゆくうえでは、本書でもしばしば参考にされるように、人間以外の有性生殖をする動物の研究もまた大きな援けとなるようだ―ヴァギナはもちろん、有性生殖をする動物に共通する生殖器官だから。現在のところこの手の研究は、哺乳類と昆虫でだいぶ進んでいるらしい。ところで、裏を返せば、本書での対象は「動物」に限られている。一度だけ、植物学者リンネの「植物と結婚の比喩」について言及されているけれど、象徴や香りについてはともかく、生殖という意味においてはここ以外で植物に言及されることはなかった。有性生殖という視点から捉えれば植物も範疇に入ると考えてみると、ヴァギナ(というかペニスも含む生殖器)やオーガズムの機能・役割を本当の意味で解明するには、植物にも着目すべきかもしれない。

恋する植物―花の進化と愛情生活

恋する植物―花の進化と愛情生活

 この本を読むと、ただ歩いているだけでそのへんの草花に目が誘われるようになって愉快である。などとさておき、副題にあるように、前半は植物の「進化」を藻類→コケ植物→シダ植物→…というように誕生したとされる順に顕花植物が現れるまで段階的に追ってゆく。後半は「愛情生活」に焦点が当てられてゆく。

 本書で違和感を感じるか、問題視されるかするとしたら、「愛情生活」という表現からも窺えるように、著者ペルト氏の擬人法と、その多用だろう。たしかに、ちょっと使いすぎなのではと思えるきらいはあるし、一部のひとからは「擬人主義・人間中心的なものの見方」が批判されているらしい。が、これはどうやら、ただの擬人法じゃない。説明をわかりやすく・理解よくするための便宜上の手段というより、擬人法といえば擬人法なのだが本当のところは、人間が植物に喩えられている。動物の生殖器やオーガズムの機能・役割を知るに、こういういわば「擬緑法」的視点を導入するのも一興ではないかと思う。

 ペルト氏によると、花をつける植物においても、たとえば花粉が雌しべにつけばただちに自家受粉できるかというと実はそうではないという―タイプのちがう花同士が受粉できるようにする働きがある。一方『ヴァギナ』によると、この器官もただの精子の通り道、ないし受け皿ではない。受身ではない。交尾と受精が分離していることを思い合わせてみればよい―なぜ、1回の交尾で確実に受精できないのだろうか。ブラックリッジ氏によると構造が明らかになるにつれ、ヴァギナは幾重にも工夫や障壁を凝らして精子を消化したり、貯蔵したり、破壊したり、排出したりしながら、もっとも適した(自分のDNAと補完的な)精子を選別しているらしいことが窺えてきたのだという。


 ところで、「性」という字の部首はりっしんべん、「心」である。「心」と「生」が合わさって「性」という字になる。
 
 性と死はしばしば対になって現れるという。表裏一体の、エロスとタナトス…ここで、死生観と呼ばれるものを念頭に置きたい。有体に言って、生まれ変わりがあるとか、あの世があると(極楽や地獄がある)と信じるか、あるいは死んだらそれまで、あとは無だと考えるか。いずれにしても死や死後についての見方・受け止め方によってその人の生き方が変わってくるとするならば―人生の終わりには等しく死があるけれど、死は生の反対を指しているわけではない、では人生の始まりには…? 性がある。と言えないこともない。おれ思うに、性に対する見方・受け止め方によってもその人の生き方(あるいは、ものの見方)はそれと知らずに奥底で規定されているのではないかと―「性生観」とでも呼べるものもあるんじゃないだろうか。

 一旦大きく出てみよう。日本はポルノ大国だとよく耳にする。実態は、あるいは諸外国と比べてどうなのかはよく知らないけれど、当たらずも遠からずだとする。これは性に開放的・肯定的だからだろうか?というと、ちがうように思う。むしろ逆で、公私に関係なく、あるいは男女間で、どこか性をタブー視(ないし軽視)しているところがあるように思える。大人であっても、性について、本当のところは無知だったりよくわかっていなかったりする。ポルノとエロスのちがいはなにかと、考えたことはあるだろうか…本能による性欲というよりも、無知の裏返しとしての性欲がポルノを量産しているのではないかとちょっと疑う。

 あるいは、子は親の影響を受ける。もちろん性の面でも。早婚の親の子は早婚になりがちだったり、DVする親の子はする/される傾向が大きいという。過度に性にナイーブだったり避けるような家庭で育った子は恋愛が下手になる傾向にあるのではないかと、周りの友人たちを見ているとなんとなく思ったりもする(彼氏・彼女ができないというだけでなく、長続きしないという意味においても)。とくに恋愛では、その人―“自分”が否応なくしゃしゃり出てくるものである。性の捉え方はパートナーとの関わり方を左右していると思う。未婚率や離婚率の増加にも無関係ではないんじゃないか…などと。

 『ヴァギナ』の後半が印象深かった理由のひとつは、たとえば、女性器の「愛液」「スープ」や性的快感に関する考察がだいぶ説得力をもって展開されていたから。なぜ、それらが必要なのか。ヴァギナも口や鼻と同様、外部に開かれている器官である。相手を気持ちよくさせる、気持ちよくセックスする重要性が生理学的に考察されていたことは、味気ないように思う人もいるかもしれないけれど、男のおれとしては興味深かった―子どもをつくるためにも、病気に感染させない/しないためにも、まず大事なことなのだ。

保健体育のおさらい 性教育 (おとなの楽習)

保健体育のおさらい 性教育 (おとなの楽習)

 『ヴァギナ』と併せて読みたい1冊。「答え」を提示するというよりも「問いかけ」のあるこの本は、男女の性の違いから、セックス、妊娠・出産、産後の夫婦関係、性による経済(経費)、病気やその予防等々と、一人ひとりが広く“性”というものを捉えなおす援けになると思う。「おとなの楽習」はよいシリーズだと思っていたけれど、性教育と呼ばれる分野でも1冊出してみせたことは賞賛に値するのでは(ちなみに、おれの言う性生観は、この本の第2章「性の内政・外交」と題された項にとくに関係する事柄かもしれない)。

 フロイトと同時代の精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒは以下の言を残した―「生命とセックスを否定する態度で育てられた人は、快楽を得ることに不安を持ち、その不安が生理的には筋肉の痙攣として現れる(中略)それは、独立した、自由をめざす生き方を恐れる気持ちの核心にあるものなのである」。ブラックリッジ氏は、最後に、「快楽原理」という項を設けて「脳の主観性」に触れる。

人はみな、快感を得てそれを楽しむ無限の能力を持って生まれてくる。生殖器からの快感だけでなく、ほかの場所からの快感も同じである。しかし、人が性的快感(あるいはあらゆる種類の快感)にどのように反応するかは、身体が受ける物理的なプロセスと、そのプロセスが何を表しているのかという完全に主観的な知覚とは交じり合ったものによってきまることがしだいにわかってきた。

 脳は強力な性器だという(おそらく、もっとも強力な)。ある人が性的快感をどう知覚するかは、興奮やオーガズムが血流に送りこむ化学物質と同時に、過去の経験やその人が属する社会の通念や規範、価値観にも左右される。そして―ここがポイントだが―脳は、化学物質が示す本来の信号・作用を無視することができる。たとえ快感や官能を得られる(得るべき)ときであっても、苦痛にしたり不感にしたりと、打ち消してしまったりといった「不全」を起こしてしまう。

 「ヴァギナ大全」とも呼べる本書に詰めこまれてた大量の情報や知見の大波で洗われたのは、ヴァギナ観というよりも、もっと底のところにあるものだったように思う。



<『恋する植物―花の進化と愛情生活』は「人力検索はてな」にて、id:Hyperion64さんに教えていただきました。あらためて、この場で感謝申し上げます。ありがとうございました。>