第3回:『熊から王へ』中沢新一

 
 野蛮とは実際のところ、何だろうか?それは外にあるのではなく、内にあるもの。

熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ)

熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ)

 もしかしたら他の人も一度触れてみるとよいのでは―と思うものがとりあえず、2つある。1つは進化。そしてもう1つが、神話。2つとも一般的には、誤解や偏見のためにそのイメージが本来意味するところとだいぶ異なってしまっているようで、たとえば「原発神話」という言い方があるけれど、神話が本当はどういうものなのかを知っているとこの使い方にはちょっと抵抗を覚えるというか、積極的には使えない…だって神話は子供騙しでも荒唐無稽でも、空理空論でもない。実際のところ、まったく逆なのである。

 やっぱり、神話はおもしろい!と、この本を読んでいて思った。一見すると単純素朴、あるいは意味フに思えるお話でも丁寧に読み解いてゆくと、そこには深遠な(またダイナミックな)知恵や意味が何層にも織り込まれていることがわかってくる。すると…うまい表現が思いつかないのだけど…ふつふつと湧いてくるものがあるというか、心の底のほうがふわっと開かれるというか。

神話について考えることは、たんなる学問的な興味や趣味の問題を超えて、じつに今日的な意味をもっている。

 かつて神話は、いわば「人生の教科書」ないし、人間は自然・宇宙とどう関わってゆくべきなのかを説き、伝える「指南書」のような機能を果たしてもいた。でも現代人が神話をふつうに読むか聞いたかしても、そのようなメッセージは読み取れない。聞き取れない。なぜなら、神話は象徴(メタファー)で紡がれた物語であり、アメリカの神話学者のキャンベル氏的に言うと、おれたちは神話を読むに必要な「象徴の文法」を忘れてしまったからである。ここにいたって誤解が生じ、現代では「神話」という言葉が「絵空事」の代名詞のごとく使われるようになってしまった―しかし神話は決して絵空事などではないと、キャンベル氏なら彼は、象徴の文法の代わりに、世界中の神話や伝承を並べて比較し、精神分析学や心理学を援用しつつ、神話の奥深さや魅力を引き出してみせた。中沢新一はというと、主に文化人類学(とくにレビィ・ストロースと折口信夫)をべースにして踏み込んでゆく。

 ちなみに、この『熊から王へ』は「カイエ・ソバージュ」という全5冊の講義録シリーズのうちの、第2巻のようである。思うところあってついでに第1巻の『人類最古の哲学』も読んでみたところ、こちらは神話の入門書して良い本だった(とりわけ、ミクマク・インディアンの「シンデレラ」の換骨奪胎ぶりは感動もの!)。キャンベル氏とモイヤーズ氏の対談集『神話の力』と、この2冊を読めば、きっと神話の魅力に鷲掴みされること請け合い。

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 『熊から王へ』もシリーズ2冊目とはいえ、1冊目を読んでいなくてもとくに支障なく読めたし、採りあげる神話をまるっと、もしくはできる限り引用・掲載しているのが良心的で、神話はなるたけ(本来は「読む」ではなく「聴く」ものではあるものの)「現物」に当ったほうがよいと個人的には思っているのでうれしかった。内容も刺激と示唆に富む。実におもしろかった―反面、この第2巻、「神話とはどういうものか」ということを説く以上に中沢新一の思想ないし理論の入門書みたいな感もあって、または神話云々より彼の“想い”が前景化してくることがしばしばある。この点、ちょいちょい気になるところがあったのも事実なのだけど、それについては後述します。

 中沢氏曰く、神話は「二元性にもとづく思考がおこなわれ、ものごとの“対称性”を実現すべく細心な調整がほどこされていた」「人類最古の哲学」なのだという―神話の二元性については中沢氏に限らず、いろいろな人が言っていることである。思うに、この二元性というのがまず神話を誤解させるところで、白黒はっきりさせていると思われがちなのかもしれないけれどそんな底の浅いものではなく、神話にはその先(ないし前提)があるのであって、根本的にはあらゆる境界や区別が消え去り同一化する領域がある、といった視野が含まれている。だから善と悪があったとして、しかしこの2つは絶対的というわけではなく、裏返る・入れ替わることがしばしば起こるといったことを認識したうえでの二元性なのだ。「文化」と「自然」というのも二元性の一例である。


 以下の引用は後半からのものなので口調があれですが、本書ではここで述べられていることを具体的に掘り下げてゆくようになっていた。

私たちはすでに、対称性社会の人々が、人間と熊のような動物との間には、まったく同等の関係がなりたっていて(なりたつべきであって)、たがいに結婚したり、兄弟・親子の関係を結ぶこともできると考えていたことを知っています。人間も熊になることがありますし、熊も人間に変身できます。このような表現をとおして、人間と動物には対称的な関係がなりたつべきであって、人間だけが圧倒的な優位に立って、動物たちの運命を好き勝手にしていいという道理はない、という思想が実現されたのです。

 人間は「文化」によって抑制のとれた生活を営むことができる一方、動植物たちには「自然」の力が具わっていると考えられていた。旧石器時代に神話を語っていた人々(狩猟採集民)はそれら自然の者たちを“野蛮”などとは思っておらず、なかでも「森の王者(首長)」である熊はむしろ、「自然の権力」の象徴だった―熊はもっとも怖れられ/畏れられたと同時に、人間に親しみのこもった友愛の気持ちをかきたてる動物でもあった(くまのプーさんやケアベアなどの人気の一因には旧石器時代の人間と通じるものがあるかもしれない)―かつて人間は、熊を通して自然や超越性について思考していた。

 「熊から王へ」というタイトルが意味するところを言い換えると、「国家(クニ)が生まれたとき、人間の意識にどのような変化が起きたのだろうか?」ということである。中沢氏曰く、神話を語っていた狩猟採集民は国家が誕生する条件が揃っていたにもかかわらず、半ば意識的にそれを回避していたのだという―インディアンたちはひとつの集団の中に複数のリーダーを立てていた。たとえば、首長とシャーマンに見られる位置づけ。首長はいわば理性によって部族の生活を整える「文化」の象徴、預言者だったり医者代わりでもあったりしたシャーマンは自然の力を引き出せる者として「自然」の象徴、という具合に。この2つを分けたていたのは、同居させてしまうとあるべき秩序が失われる、つまり「対称性が崩れる」と考えたためだったのだと。

 首長は王ではなかった。シャーマンと同じく自然の側のものとして戦士と秘密結社というのもあった。秘密結社ではたとえば、「人食い」の儀式が催されたりした。これは北西海岸インディアンのクワキウトゥル族の例が紹介されているけれど、つまり「夏のあいだは人間が動物たちを狩っているが、冬になると今度は人間が“食われる”側にならなければ釣り合いがとれない」という思想を1つの源にして生まれた「ハマツァ」のイニシエーションが行なわれていたという(ちなみにこの「食われる」という表現は後の時代にもよく見受けられる。たとえば赤ずきんちゃんとか旧約聖書のヨナとか)。

深淵と安全の間に、絶妙なバランスをつくりだすこと。首長と「人食い」たちを分離しておくこと。これこそが、対称性社会の抱いた最大の知恵であり、人間が国家を持った瞬間から、とりかえしのつかないかたちで失ってしまった知恵にほかなりません。

 首長とシャーマン(+戦士と秘密結社)が合体したところに、王が現れた。つまり熊に象徴される「自然の権力」までを我が物とした首長が王なのであり、ひいては国家(クニ)ないし文明が生まれることになった。「対称性」が崩れた。そしてこのとき、同時に文明はその根底に“野蛮”をセットすることになってしまったと…中沢氏は説く。

 10年ほど前に問題になった狂牛病。原因は飼料として与えられていた肉骨粉にあるのではないかと当時騒がれていたものだけど、牛や豚の内臓が小さく砕かれて骨と混ぜ合わされた肉骨粉を餌にするというのは、要は「共食い」させているようなもの。狩った動物の肉や内蔵をきれいに食し、残った骨や皮も丁寧に扱っていたアメリカ・インディアンやアイヌのような狩猟採集民からすれば、肉骨粉飼育とはとんでもなく野蛮な行為である。このような野蛮を食い止めることも「文化」の働きとしてあった。あるいは同時期の9.11はどうだろうか…テロという行為はたしかに野蛮だが、それに報復するというのも同じくらい野蛮とは言えないだろうか…?

現代社会というのものがじつに不思議ななりたちをしているのが、わかってきます。この社会は「野蛮」を自分の内部に組み込んだ、一種のハイブリッド・システムとして、機能しているために、さまざまなタイプの「野蛮」を除去できないばかりではなく、ひとたび危機的な状況がおこると、その責任を外の世界の、自分たちがよく理解できない相手に投げつけて、その相手のことを「野蛮」呼ばわりすることになります。

 つまり野蛮は、ハイデッカー風にいうと、人間が自然を「コミュニケーションの相手」としてではなく、「開発」のための対象物として見るようになってしまった(べつの言い方をすると「贈与の関係」ではなくなってしまった)ことに由来する―

 と、おおよそこのようなことが語られていた。ではどうしてゆくべきだろう…? 以上の概要からも窺えると思う中沢新一の主張には、とりたてて異論はない。氏の言うところの現代に見られる野蛮は個人的に、サトウキビや海藻を使ったバイオ燃料に抱くどことなく腑に落ちない感(エコだが、あれは言い換えると生物燃料?)や、あるいはペット産業に感じている気持ち悪さに通じるのかもしれない。「熊」をキーワードに神話に踏み込んでいく過程はスリリングでわくわくするし、たとえばアメリカ・インディアンの「結婚の哲学」なんていうのはいまだからこそ再考する価値のある「哲学」かもと思ったりした。あるいは、著者のロック歌手の連想なんかも興味深く、この連想からおれが連想したのはロックというか宇多田ヒカルだった。歌が、という意味でだけでなく、彼女、クマ好きみたいだし(パンダはちがうらしい)

 同時に、それはそれとして、前述したように気になる点がいくつか見受けられた。もっと言うと、なにか肩透かしをくらったような気がしたのである。「はじめに」で著者が述べているように、講義という形式にまつわる独特のケレンミ味がそう感じさせるのかもしれないと思ったし時節柄というのもあったかもしれない(この第2巻分の講義は9.11の直後だったらしい)。あるいは「良くも悪くも講義録(講義形式)」という感じだろうか…実際にその場で講義を聴くのなら質問できるわけだから、質問させたくさせるという意味では良い講義なのかもしれない。はたまた、先に触れたように『熊から王へ』は5冊のうちの1冊だから他の4冊(というか3冊か)で補填されているのかもしれない(あるいはたぶん、『熊から王へ』に見られる主張を前面に出しているのが『緑の資本論』なのではないかと推測される)。

 しかし、それでも、控えめに言っても、例証がちょっと恣意的ではないか。といって悪ければ、説得力に欠けるように思えてしかたなかった。だから氏の主張に対して異論はなくても、反面、それ以前のところになにか、信を置けないものがあった。


 もっとも違和があったのが何よりもタイトルに関わりのある点―「熊から王へ」と変化した瞬間についてである。たったの2行で済まされているのだ。「社会と宇宙のあいだにバランスをつくりだすこのような仕組みに、あるとき異変が生じたのでした。それはたぶん、臨海に達していた階層制をそなえた新石器社会のどこかでおこったはずです」―これはちょっとひどいと思う。

 ひどいと思ったのはたとえば、外的要因に触れずあっさり済ましてしまっている点である。たしかに中沢新一は、「意識」とか「心の働き」とか「思考」といったいわば内的プロセス、ないし倫理に焦点を当てているようだから、ここではひとまず無視してよいことなのかもしれない…などと思いかけたけれど、やっぱりちがう。中沢新一のなかでは前提として「“現代の”諸問題の原因は何だろうか」とか「この先どうしてゆくべきなのか」といった問題意識があり、講義にもそれが反映されているようなのに氏の話は、いわば「結果」のほうに偏りすぎではないだろうか。戦争をなくそうと言うとき、戦争の悲惨さや残虐さをクローズアップして「だからよくない」と言うのは容易なのだが、もし本気でなくしたいのであれば、過去の戦争が「どうして起きたのか」という「原因」のほうにも目を配らなければならないはず―「原因」に目を向ければ自ずと外的要因が無視できなくなるはずだと思う。

 かつまた、説明が「非対称的」である。たとえば氏は、「神話的思考」の出発は何によって引き起こされたのかという点についてわざわざ認知考古学の知見から、「現生人類の脳には、特化された機能をもった領域の間を自由に動いてゆくことのできる流動的知性を発生させるニューロンの新しい組織化がおこったことによって、いま私たちがもっているような象徴能力が獲得された」というように何度も言及する。つまり、この生物学的な原因により比喩や詩の能力を得るにおよび、他者に対して共感を抱けるようになったのだと―生物学的な原因って外的要因だと思うし、この点については、なにやら科学的。あの2行との落差はなんなんだ。

 あるいは見落としたのかと思い、この点を意識してざっと読み返してみると、「熊から王へ」と変化することになった外的要因にまったく触れていないというわけでもなかった。先の2行を含む章の前にあるべつの章では、たとえばアムール川の河口にいたウリチという民族の「シャチの女」という神話を用いて(この場合は)日本刀という「技術(テクノロジー)」の問題に言及されているし、「王の存在しない社会」が「王の統べる社会」という外的なストレスに遭遇したときの例としてはインディアンのジェロニモの話があったりする。だから、外的な要因に目を向けていないわけではない。ならば、というかだからこそ、先の2行のときにも推測されうる外的要因に少しくらい触れておいてもいいんじゃないの?

 話が前後するけれど、実は読み始めの時点ではまず、「なぜ、北方の(中沢氏的に言うと「東北」の)狩猟採集民に限定するのか」という点がひっかかった。狩猟採集民といえばアフリカ大陸にも多くいたし、オーストラリアのアボリニジニなんかもつい最近まで狩猟採集民だったことで有名なわけであって―と、この点については、「野性の思考」なり「神話的思考」なりを取り出せればよいのかなと思い、それは神話に登場する「熊」を見ればよいと、だからこそタイトルに「熊」を入れたということなのだろう(「熊」≒「北方」「狩猟民」と言える)とひとまず流したのだった…がしかし、この点についても、先の2行の直後にヤマタノオロチの神話が採りあげられたことで再浮上してしまった。

 ヤマタノオロチスサノオノミコト、あるいは草薙の剣の解釈はかなり興味深い。そんな読み方もできるかと驚いた。一方で、ヤマタノオロチの神話は舞台がいまの島根県である。またここには「朝鮮人の渡来」という「事件」が背景にあり、その影響が反映されているものと思われる。弥生人が現れたときって「製鉄(とか弥生土器)」と「稲作」という「技術」が到来したと言われているのではなかったっけ…つまり「狩猟採集民の縄文人」に対して、ここには「定住民である弥生人」という存在もあるわけであって、中沢新一は一応それまでは狩猟採集民の神話を根拠に話を展開していたのに、ヤマタノオロチの神話はその限定の枠をはみだしているのではないか?それならべつに、北方の(「東北」の)狩猟採集民に限定する必要はないのでは?と。

 ところで、このように外的要因にこだわってしまうのには、いま1つ理由がある。以前読んだ『銃・病原菌・鉄』という本の存在だ(つい最近文庫になった)。

 この本では「人類の歴史は地理的・環境的要因にいかに左右されてきたか(制限されてきたか)」という話が展開されている大著だが、そのはじめの方で文明の起こった原因を探る試みのなかで「国家をつくらなかったアメリカ・インディアン」にも触れられていた。中沢新一は「彼らは国家が成立するに十分な条件を備えていた」とは言うものの、具体的にその条件はどういうものなのか、ほとんど言及していないと言ってよい。たとえば「十分な食料があった」と言うけれどその「十分な食料」って、ひと冬分?1年分?数年分?あるいは何人分?といった点は示されない。『銃・病原菌・鉄』で著者のダイヤモンド氏は、地理的・環境的要因として、栽培化可能な野生種があったか、どのくらい(農耕したほうが結果的に狩猟より得になるくらい)あったのか、もしくは農業のはじまりの地は数えるほどしかないが農耕技術や栽培種が広まってゆく伝播のしやすさはどうだったのかetc.と、突っ込んでゆく。この点、説得力がやはりちがう。

 また、中沢氏は「狩猟採集民は王が誕生する一歩手間でターンしてみせた」と強調するけれど、実際それは決してウソじゃないだろうとは思うものの、『銃・病原菌・鉄』では実は、アメリカ・インディアンの祖先たちが南北アメリカ大陸にたどり着いたとちょうど同じ時期に、もともとそこに住んでいた大型哺乳類が軒並み絶滅したという考古学的な知見に基づく話が出てくる。どうやらこれはオーストラリア大陸でも同様らしい…中沢氏は、バイカル湖周辺を故郷とするモンゴロイドたちはいわば「熊の神話を携えて」べーリング地峡を越えていったと説くのだけど、ダイヤモンド氏の言を加味すると、「対称性」を具えていたはずの人々が大型哺乳類の狩りつくしてしまったのでは?(向こうは人間を知らないから逃げなくて、狩るのは楽だっただろう)という、なかなかグロテスクな推測もできなくはない。

 『銃・病原菌・鉄』にわざわざ触れたのは、『熊から王へ』の講義よりも1年ほど前には、すでに邦訳も出ていたからである。もちろん既刊だったからと言ってそんな短期間のあいだに「読んでおけよ!」などと居丈高には言えないが、中沢新一だったら、この本の存在くらい知っていたんじゃないかな?とは思う。『銃・病原菌・鉄』は朝日新聞の「ゼロ年代の50冊・ベスト1」だったくらいなのだから、少なくとも話題にはなっていたはずだろうと。同じ10年前にもすでにこのような知見があったという意味もあって、あえて言及した。

 ついでにもう1つだけ。中沢新一宮沢賢治の『氷河鼠の毛皮』という話をはじめのほうで紹介しつつ「賢治は神話的思考をもっていた」という話を展開するのだけど、どうせなら有名な『なめとこ山の熊』にも触れておけばいいのにと思った(というより、なぜ触れなかったのだろう?)。だってあれ、題名にあるように熊と、小十郎という名の熊撃ち(猟師)の話なのだから。熊は小十郎に問う―「お前は何のためにおれを殺すのだ」と。これを受けて小十郎も、『氷河鼠』の黄色いジーンズの上着を着た青年とほぼ同じことを口にするのだけど、しかし彼の場合は死んでしまう。

 
 ―などと、後半はやや噛みつくような調子になってしまったが、要は、神話の部分がおもしろい分だけ余計に、著者の思想的な部分(ないし叙述の様)が、押し付けがましくないわりにひっかかってしまった(「私たち」という人称を使われることも個人的にはちょっとうるさい)。先の2行はやっぱりおざなりにすぎると思う。ひいては、なんだか端々に、自分の理論なり考えなりに都合のよいところだけピックアップしてきた「牽強付会」という印象を受けてしまう。

 『熊から王へ』は「神話学の講義」というよりもむしろ、神話の「中沢新一的応用編」という向きがあるように思う。実際のところ先のキャンベル氏の『千の顔をもつ英雄』のときも、たとえば精神分析学、とくにユングのそれを無邪気と思えるほど信頼している氏の様子にツッコミを入れたくなったりいろいろと疑問が出てきたものである。しかし、あの本の場合はそれが好奇心や興味を掻き立てるような疑問だった。一方、『熊から王へ』についてのそれは中沢新一に対する警戒心・不信感を催してしまうものだった。

 あと3冊も読んでみたい気持ちはあるけれど、2冊目でこれだと思うと同時に、ためらわれるというか…ちょっと悩みどころ。