「考えすぎ」に見える人に向かって、「考えすぎだよ」なんて言うべきではない

 先日、2年ぶりくらいに会った友人Aと久しぶりで会ったとき、深夜のファミレスで言われた—「考えすぎだよ〜」と。けっこう久しぶりに言われたような気がする。

 この場合の「考えすぎ」というのはつまり、「夫は浮気しているのではないか」とか「わたしはあの人に嫌われているのではないか」とかと疑心暗鬼になっているような様子に対しての「強迫観念」「被害妄想」みたいなニュアンスではなくて、ある人が悩んでいるとか、行き詰っているとかいうように見える場合に対しての、いわば「頭でっかち」というニュアンスのある「考えすぎ」である。

 彼女は悪気があってこのフレーズを口にしたわけではなかった。というか、映画友達だった彼女とその日もナイトショーを観た後のことであって、このフレーズが出てきたときはすでに午前4時くらいだったため、彼女は元気だけど同時に、睡魔と奮闘していた。「頭回んなくなってきた!」と1、2度言ったりもしていたわけで、要は聞く気がないのではなく、聞きたくても聞けない状態という感じであり、このときの「考えすぎだよー」は「わたしもうギブ」という意味合いだった。

 だからおれとしては気分を害するということもなかったのだけど、同時に、友人Aはどちらかというと思考するタイプというより、アクティブな人間、身体を動かすほうが好きなタイプの人間であるということもあって、ちょっと気になったことがあった。ファミレスから出て冷たい外気に触れた瞬間「眠気ぶっとんじゃった!」らしい彼女にその点を確認してみた。「ところで考えすぎだって思うような友達、おれ以外にいる?」「うーん、どうだろう、あんまいないかなぁ・・・」ということだった。ただまあ、言った―「もし考えすぎに見える人に出くわしたら、その人に向かって考えすぎだよ、なんて言っちゃダメだよ」。


 まず、はっきり言っておこう。以前しばしば言われる側にいたおれの実感からすると、「考えすぎ」に見える相手に対する「考えすぎだよ」というフレーズは、ほとんど言葉の暴力である。「何か言ってあげなくちゃ」「力になってあげなくちゃ」という善意からにしろ、「面倒くさッ」「つまんねえ話」という鬱陶しさからにしろ、関係ない。言ってはならない。

 言われた側は、傷つく。悲しくなる。やるせなくなる。あるいは、腹が立つ。なぜなら「考えすぎだよ」というフレーズは、相手のそれまでの思考やもの思いをたった一言で、容赦なくハショり、遠まわしに否定してしまうようなものだからである。たとえ口にした側にそんな気はなくとも(ちなみに先の友人Aも、仕事のことについては実はやや考え込むタイプらしく、「たしかに腹立つかも」と言っていた)。

 何より、ここで言う「考えすぎ」に見える人がその考えなり悩みなりを吐露したときというのはすでに、程度の差はあれ、追い込まれている場合が少なくない。「考えすぎだよ」という一言には「なんでもいいから行動してみなよ」という意味合いもしばしばあると思うけれど、「自分は考えすぎなのかもしれない」ということくらい「考えすぎ」に見える人は思い及んでいるものであってそれでも「考えてしまう」ということなのであって、この言葉は解決に導くどころか、むしろ、さらに相手を追い込む格好になると思ったほうがいい。

 もう1つ、言うまでもないことかもしれないけれど、念のため一言しておくと…「考える」と「悩む」は似て非なるものである。「どういうことなのかわからない」「どうしたらいいのかわからない」のちがい。強いて言えば、「考える」は理性・頭の働き、「悩む」はむしろ、感情の働きだと思う。2つの言葉を言い換えてみるとそれぞれ、「考える」は「思考する」とできる一方で、「悩む」は「打ち沈んでいる」「鬱屈としている」というふうになる―「考えすぎだよ」というフレーズは「悩みすぎだよ」というニュアンス。

 さて、とくに大学に入りたての時期におれはよく言われた、「考えすぎだよ」と。「そんなこと考えてて楽しい?」と言われたことも少なくない。そうして思ったものだった、誰も聞いてくれないんだな、こんな話など。あるいは—たぶん、おれの話し方がわるいんだろう。というより、言葉が不十分なんだろう。そもそも自分で思っているほどには大した話じゃないのだろう―ともかく、訊かれない限り、ないし必要に迫られたとき以外は、自分から自分の考えていることを話すということはあまりしなくなった。

 それ自体は数年前の話であって、ちゃんと話を聞いてくれる人、聞き上手な人もなかにはいるものだということは、今ではわかる。ちなみにこういう人たちは「考えすぎだよ」と(思ってはいても)口にしない。

 また、おそらく当時のおれのようになってしまった結果、溜めこむ一方になってしまったり自力で脱け出しがたくなったり、もしくは自分が悩んでいる・考え込んでいることを(強がってではなく)どこか恥じていて口にしたがらない、というような人にも、少なからず出くわしてきた。「考えすぎ」に見える人が何かを話し出すときはというのはたいてい、「相談しよう」と思ってではなく、ポロッとそれまでの話の流れから出てくることが多い。

 現在のおれはというと、どちらかといえば、相談に乗る側にいることが多い。ただし決して聞き上手だとは思えない(ひとつ考えられる理由は後述)。むしろおれの場合、「何か言ってあげなきゃ」という善意からよりも、話を聞いていると「言わずにはいられない」となって何かを口にすることがふつうである。とはいえ、やたらにこちらの意見をぶつけてたところでさして意味はなく、ではこういう場合どうしたら相手と「対話」できるのだろうかと、ときたま、考えてきた。


 ということで以下は、自分の過去の実感と、聞き上手な人または「考えすぎ」に見える人の観察も参考にひねり出した個人的な、方法論的雑感です。これはおまけみたいなものです。かつまた、半熟ものです。ただ、久しぶりに例のフレーズを言われてちょっと書いておきたくなった。 

 
 まず、何かを言うにしても、話を聞いてからでないと何も言えない…言ってはならないと思う。「話を聞く」こと―これは当たり前な話だけれど、大前提である。聞き上手な人というのは相手を急かさない。ひとまず相手の話が一区切りつくまで、耳を傾けつづける。

 しかしこれ、「言うは安し行なうは難し」なのだ・・・「考えすぎ」に見える人の話というのは混乱、錯綜していたり、同じようなことを繰り返し口にしたり、あるいは、その口調はあまりはっきりしているとはいかず、ときに舌足らずな、ときに歯切れの悪いものである。要は何が言いたいのかわからなかったり、話が冗長だったりして、要領を得ない。ただしここで留意すべき点は、「考えすぎだよ」というフレーズはこのような様子を「単純化した印象」にすぎないということ。

 この点、よく言うように、書いたり話したりすると(アウトプットすると)考えがまとめられる・すっきりするということがあるものだけど、「話(相談事や悩み)というのは聞いてあげるだけでも十分」というのはこのへんの作用・効果のことも指しているのだろう。話し手自身、まだまとまっていない思考・思いをこちらにわかるようにと整理しながら話している。自分が何を言いたいのか、実のところ自分でもよくわかっていないということはとくに、「考えすぎ」に見える人の場合は珍しくないように思う。それゆえか、一瀉千里に捲くし立てるなんてことはまあ、そうそうない。

 裏を返すと、実はこれは、聞き手としては幸いなことでもある。こちらはこちらで急かされることなく整理しながら聞くことができるから。おれの場合、このとき―とはつまり、話を聞いているとき―相手の話を頭のなかでできるだけ整理しながら聞くように努める。というよりむしろ、相手の話をこちらでも整理しようと思うと、自ずと話を聞く姿勢になるらしい(思えばこれは、本を読んだり映画を観たりするときの姿勢にちかいかもしれない)。

 で、聞き上手な人というのはあいづちを入れるとか目を見て話を聞くとかよく言われるけれど、観察していて個人的になるほどと思ったのは、いわば「合いの手」の入れ方―相手の話が淀んだり止まったりしたようなときに、「これこれと思ったのはどうして?」とか「それはつまり、これこれということだよね」とかと、相手の話の流れを汲み取ったうえで、さりげなく一言挟む。これがときに、がんじがらめになっていた話し手の思考のひょっと解けるきっかけになるときがけっこうあるように思う。

 整理しながら聞いていると、「合いの手」的一言が出てきたりする(おれの場合は、相手の思考のお手伝いをしよう・促がそうというよりは単にこちらが腑に落ちなかったり、ちょっとわからなかったりしたことを口にしたら、ときにそれが期せずして「合いの手」みたいになっている、と言った方が正しかったりするかもしれないのだけど)。

 あるいは、これは「考えすぎだよ」と言われていたときの実感でもあるのだけど、「考えすぎだよ」と言うくらいなら、話し手の考えと真っ向から衝突するような意見を言うほうが断然いいと思う。言われたときはたしかに、反発心が起きたりする。反射的に「でも〜」と言ってしまったりと。けれども少し時間が経って落ち着いてふと考えてみれば、なんというか言われたことが、自分に効いていることがわかってくる。要はべつの価値基準を放り込まれたようなものなのでこれも、結果的に、絡まった思考が解ける作用を及ぼすことがあるらしい。

 ひいては「考えすぎ」に見える人の話を聞いているとき、その場で解決できるとは期待しないほうがよい。思考や価値観、意見、もしくは態度というのはそんな簡単に変わらないし、変えられるものでもない。もしその場で一変したかのように見えても、それは往々にして、その瞬間に至るまでに「思い悩んでいた時間の蓄積」があればこその結果だろう。

 「考えすぎ」に見える人の、出口のないように見える思考を解く、そのきっかけになるような「合いの手」的一言と、真っ向から対立する意見との共通点は何かといえば、「相手の思考の盲点を突く」ところではないか―べつの視点や角度から眺められることによって、「考えすぎ」に見える人が囚われている固定観念や思い込み、勘違い、論理の穴ないし飛躍、原因と結果が逆さまになっていることや、もしくは問題にすべきところがズレていることなど、知らず知らずに通り過ぎてしまっている「悩みループの出口」に気づかせてくれることだと思う。

 この点、最近のおれは聞き役に回ることが多いというのは聞き上手によるものではないと、先に述べたけれど、話し相手に選ばれるわけにはひとつ、おれがフリーターであることが関わっているように思う。「自分とはちがう生き方をしている人の話を聞きたい」という気持ちが、無意識だったとしても、どこかにあるのではないかなと。それはちがう視点によって自分の気づいていない点に気づけるかもしれない、「自分の思考の盲点を突いて」くれるかもしれない、という期待が隠れているのかもしれないと思う。


 ―というわけで1つ、「悩みループの出口」とはどういうものなのか、比較的わかりやすい実際にあった例を出しておきます。

 ある日、夜中だったが、電話をかけてきたのは大学時代の友人Bだった。彼女は某大学の附属中高一貫校に通い、そのまま某大に進学し、就活も無事に終えて、某食品メーカーに就職した。電話をもらったときは入社した年であり、7月頃だった。はじめのほうはふつうに、久しぶりぃ、元気?、いま何してんの?と他愛のない話をしていたけれど、たぶん何か悩んでることでもあるのだろうと思っていたところ、実際「もう、(仕事)辞めたい」とのことだった。話を聞いた限り以下のような具合だった。

 曰く「仕事は少しは慣れてきたかな・・・?って感じかな」「朝から晩まで働きづめで疲れるよ」「職場の人は嫌いじゃないけれど、なんだか社風がすごくて、上司は皆それに染まってるというか、なんだかヤだなと思っていたのに、こないだふと気づいたら自分もそれに染まっている兆候があって、ゾッとした」「恐いと思った」「1日中仕事しかしてなくて、なんか自分何してんだろう?って思う」「べつに好きな職種というわけでもないし、というかあまり好きじゃないし」「でも自分が何をしたいかっていうと全然わかんないし、考える暇もないというか」「楽しくない」「気が滅入る」

 おおよそ、このようなことを口にしたのだった。これは前述した方法論的雑感を意識して、つまり「聞きながら整理してときどき一言挟む」ということをやって出てきたもので、ちなみに、ここまでくるのにはこの話題になってからだいたい40〜50分ほどかかった―ここに並べた彼女の言を聴いて(読んで)、どう思うだろうか?なんて声をかけるだろうか?

 よくある話なのかもしれない。実際おれ自身、「そういうのってある程度、予想できたことなのではないの?」とか「辞めたいって言っても、ちょっと早くない?」とかと、まず思ったのが正直なところだった。しかしたぶん、本人もそのくらいことは思い及んでいるだろうと思い、ひとまず一般論的感想は控えた。付言しておくと、最後の「もう辞めたい」のときは電話の向こうから嗚咽と洟をすする音が聞こえてきておれはちょっと焦っていた。

 たしかによくある話かもしれない。しかしそれはそれとして、泣くほど追い詰められているらしい状況のほうが重大事だ。と思ったおれはその原因は何だろうかとひとまず、気になった「社風に染まる恐怖」とはどういう感覚なのかという点から探りを入れた。これはどうやら、「ファシズムに染まる」というと大袈裟だけど、だいたいそういう感覚ないし恐怖かと思われた。あるいは「新しい環境が云々」言ってみたりしたものの・・・なんかちがうよね、これ?みたいな感じが自分でも拭えなかった。この時点でのおれは相手が泣いたことに焦ってしまい、とにかく何か言ってやらなければと気が急いていたのだった。

 しかし空振り感が2・3回あったため、電話だったこともあってとりあえず持論(一般論に限りなくちかいけれど)―「いま辞めるのは早すぎる」という話をしながら様子を見つつ(この話自体も真面目な意見なのだが自分の中でややテンプレ化の気味があるため、他のことに比べ頭を使わなくてもある程度口をついて出てくる話でもあるのです)、「彼女の置かれている状況」をあらためて検討することにしたのだった。*1

 そして話しつつ、途中であることに思い至った。「問題は彼女を追い詰めたものは何か」という点を考えるに、おそらくそれは、社風でも仕事の忙しさでも、職種と彼女との相性でもない・・・これらも無関係とは言えないだろうがわかりやすい分だけむしろ後付け的に原因に思えるだけであって、実際には直接的ではないのでは・・・?と、一旦「友人B」という人間を俯瞰的に眺めたとき、先に何気なく口にした「新しい環境」―もしかして、彼女がいま置かれている「新しい環境」とおれが想定しているそれとのあいだには微妙にズレがあるかもしれないと、ふと思ったのだった。

 理由は、彼女の学歴である。

 友人Bは中学から大学まで一貫して「某大」という枠の中、環境に身を置いていた。まる1日が「これすべて赤の他人」という集団の中に放り込まれて連日過ごす、という経験をこれまで実はしてきていないかもしれない。いや実際には中学入学のときにあっただろうけれど、たぶんもう、忘れている。中学以降は一見すると「新しい環境」に見えても、大学入学のときでさえ、見知った人間が数人はいただろう。だからちょっとした不満や愚痴、冗談などを言える相手が周囲にいたに違いない。しかし今回はそういう存在が身近にいないため、ただ単に「だるいよね〜」と言うだけでも、相手はよく知らない人間だから探り探り、距離感を測りながら口にすることになっているのでは・・・少なくとも「気の置けない同僚」というのはまだいないのではないだろうか・・・とすると、この点における心労が、本人も気づかぬうちにモチベーションを下げているのでは・・・?

 この点を指摘してみたところ、彼女は驚いたのだった。どうやら自分でも気づいていなかったらしい。このとき彼女の声の調子が変わった。明るくなったというより、少し冷静になれたようだった―彼女にとっていまの職場は、同じ「新しい環境」でも、過去における「新しい環境」とは実は、全然ちがう「新しい環境」だったのである。その後10分ほど話したところ、この点が判明したことで少なくとも「いまは仕事を続ける」ということに意味を見出す取っ掛かりを得たようだった。

 この例からわかることはたとえば、一般論ではダメだということ。というよりも、一般論そのものは間違ってはいなくても、一般論の“まま”ではダメだということ。相手の人となりや経緯といったいわば「文脈」に落としてそれを解釈しなければならない。逆に言えば、そのように解釈してみると「悩みループの出口」を見つけ出せることがある。
  
 
 ということでこのエントリー、いつものごとく思ったより長くなったけれど・・・さておき、このエントリーで一番言いたかったことはともかく、タイトルの通りです。なので最後に、いま一度、繰り返しておきます。


 「考えすぎ」に見える人に向かって、「考えすぎだよ」なんて言うべきではない。

*1:ちなみに「辞めるの早すぎる」というのは、だいたいこんな論旨である―彼女は気持ちばかりが先立ってしまって、たとえばイタリア語やりたいから辞めてイタリア留学する、とか言うのならまだしも、そうではなくて辞めて何かべつのことをするにしても具体性がほぼ皆無なわけであって、つまり「この状況から脱け出す」ということが手段というより目的となっているような現時点で「辞める」のは実は、安易かつ楽かつ、また後に致命的なダメージを与えるかもしれない選択である。ここはひとつ落ち着いて、辞めるにしても、ある程度具体性なイメージを持てるようになるまで待ってみてはいかがか。それにフリーターであるおれの場合、何かしようにもまず先立つもの、要はお金を貯めるところから始めなくてはならなくてすぐに行動に移せず、いつもこの点が面倒くさい・・・忙しいだろうけれど、答えを出すことを焦らず少しづつ、これからどうするか考えてゆくのはむずかしいだろうか。たぶん、先のことをイメージできるようになった頃合いには、すんなり行動に移せるくらいのお金も貯まってると思うけども―