その病は対岸の火事かというと曾子 『街場のメディア論』

 まずはじめに、id:ast15さんのブログ『けれっぷ彗星』は「天災と国防」というエントリーにおける、赤亀(おれ)とast15さんのコメントのやりとりをここに載せてみたい。『天災と国防』という本は、今度の震災を受けて最近公刊された「天災に関する寺田寅彦のエッセイを集めたもの」である(寅彦自身、三陸地震のあと被災地に赴いたよう)。

 ast15さんのエントリーの主意からはちょっとズレるのだけど、おれの目が留まったのは冒頭、以下の部分だった―「関東大震災の時の記録を読むと、僕が3月11日に歩いたのとほぼ同じコースを辿っており、ほとんど同じような感想を持っていたのが興味深い。人の行動や地域の特性のようなものは1世紀やそこらでは大きく変わるものではないのかもしれない。逆に言えば、大きく変わっているところは脆弱性が高いと言うべきか」

 以下、コメントのやりとり(赤亀→ast15さん→赤亀の順)。

「人の行動や地域の特性のようなものは1世紀やそこらでは大きく変わるものではないのかもしれない」、というのは個人的に最近よく思います。「今は世の中の動きがはやい」と言ったりもするしたしかにそういう面もあるだろうけど、「根は変わらない」という表現で譬えると、その変化が目まぐるしいのは「花」とか「葉っぱ」の部分ではないかなと。日本社会や国民性と呼ばれるものの特徴や性質自体は、「根」というよりも「茎」の部分で、この辺の話であれば、1世紀と言わずともここ30・40年の間もとくに変わっていないという印象を受けることが多々あります。本とか映画を通してですが。

社会の変化速度は階層や分野ごとに違うだろう、というのは実感としてほぼ確実なものです。
変わるものと変わらないものがある、というよりは、それぞれ変わるスピードが異なる、という感じでしょうか。産業で例えれば、土木などは100年スパンの産業であるため、構造変化のスピードもゆっくりです。しかしIT業界などはスピードが速い。そうした速度差が摩擦を産み、社会に不整合面を産んでいるのではないか、という気がします。地域コミュニティと防災技術、国民性とITリテラシーグローバル化とローカルの問題。うまく異階層・異分野ごとの速度差をコントロールする必要性を感じます。

「社会の変化速度は階層や分野ごとに違うだろう」「変わるものと変わらないものがある、というよりは、それぞれ変わるスピードが異なる、という感じでしょうか」←たしかにそうかも!変な言い方、その人がアナログ的かデジタル慣れしてるかでは時間感覚ちがうだろうなぁ、となんとなく思っていましたが、それはast15さんが述べられていることに当てはまりそうです。僕の変化観はいわば二次元だった…が、ast15さんのコメント読んで三次元化しました(笑)

 著者である内田樹の言葉を引用すれば、新聞やテレビといったマスメディアは「安全でも繁栄でもなく、変化を求める」。それはそうだ。「今日は何事もなく平穏な一日でした。おわり。」ではニュースにならないし、変化を伝えることはたしかにメディアの役割の一つでもある。が、問題なのは、様々な領域で起こっているいろいろの変化を、すべて一様に「一つのモノサシ(基準)」でしか測っていないことにある。「一つのモノサシ」とは“市場原理”のことであって、言い換えば「社会の諸関係をすべて商取引として捉えている」ということである。

 ast15さんが指摘したように、階層や分野、職種などによってそれぞれに変化のスピードは異なる(とおれも思う)。IT業界の変化は「秒進分歩」であっても土木のそれは「月進年歩」で考えなければならないように、社会制度の中には商取引の比喩では論じることのできないものがあり、宇沢弘文氏はこれを「社会的共有資本」と呼んだらしい。社会的共有資本とはつまるところ、政治にも市場にも委ねてはならない「市場経済が始まるよりも前に存在したもの」のことであり、要するに、急激に変化させてはマズいもの・コロコロ変わられては困るもの。内田氏はその例として医療と教育を挙げる。

 その医療と教育の例の詳しい説明はここでは省くけれど、ひいてはなにやら自己暗示のように、メディア自身がメディアを市場原理で測ることになる。ここに「メディアはビジネス」という信憑が生まれ、それがメディア凋落の原因の一つにもなっていると内田氏は述べる。そして現代人は、「社会の諸関係をなんでも商取引だと思い込むようになった」と。


 ところで、市場原理で測ることの自然の成り行きとして“消費者”という言葉が持ち込まれることになるのは容易に想像できるが、なぜメディアが消費者の側から論を張ろうとするかと言えば、メディアは“世論の代弁者”という常識があるためである。しかし、この「メディアは世論の代弁者(世論を語るもの)」という信憑もメディア凋落の原因になっていると内田氏は主張する。

 そもそも新聞やテレビの仕事に就いているのは、ありていに言って高学歴の人たちであって、加えて激しい就活競争を勝ち抜いた人たちである。それだけの知性をもち、一般人よりもより情報を得ることのできる立場にいながら…あるいは「人々が“まだ知らないこと”をいち早く“知らせる”のがメディアの仕事であり、社会的責務である」のに…アナウンサーはよく口にする、「こんなことが許されていいのでしょうか」と。彼らがこういう言葉を安易に使ってしまうことは、果たして許されていいのでしょうか…? このような「知っているくせに知らないふりをして、イノセントに驚愕してみせる」ポーズを内田氏は「演技的無垢」と呼ぶ。そしてこの「演技的無垢」というポーズは、新聞はもちろん、一般人にも流布した。

 もしくは消費者という言葉と並んで、庶民という言葉は「被害者(弱者やマイノリティ)」という言葉にも往々にして結びつく。たしかに大きな勢力(企業とか国とか)に対して圧倒的に弱い被害者の側に“まずは”立つこと(これを「推定無罪」という)は間違ってはいないし、メディアの役目の1つでもある。が、問題は、あくまで“推定”だったはずのものを、あとで被害者の側に非があったことが判明しても「被害者=政治的に正しい立場」という固定観念に縛られ、それを“絶対”のものとして譲らなかったり流してしまったりすることにある。

 「“なぜ、自分は判断を誤ったのか”を簡潔かつロジカルに言える知性がもっとも良質な知性」だと考える内田氏は、その点から見ても、メディアは自省に欠けているのではないかと問いかける。「そんな問題はないかのように」ふるまっていてはダメだと(知的不調の隠蔽)。


 「メディアはビジネス」「メディアは世論の代弁者」という2つの信憑によってかたちづくられているのが「定型性(定型的な言葉づかい・定型的文体)」である。ひいてはこの「定型性」が今日のメディアの凋落を招いていると、内田樹は主張する。

 内田氏が「定型性」に力点を置いているので、これが具体的にどういうものなのか、氏の言を引用しておくと、「自身の生身に突き合わせてみれば、強い違和感を持つようなことであっても、「鋳型」から「人形焼」のように次々と叩き出されてくると、“そういうものか”と思ってしまう」「自分は正直に言うとそうは思わないけれど、“そういうふうに思うのが普通なのかな”と思ってしまう」ような言説。これは世論へとつながっていく―「誰もその言葉の責任を引き受けない言葉=誰でも言いそうなこと」であり、「語ろうと黙ろうと、意味も責任もない」。

 この定型性の影響は、メディアであるがゆえにメディアに収まらない。たとえば、いわゆるクレイマーが以前にも増して目につくようになった。クレイマーとは「自分が市民的に享受している利益は“当然の権利”であり、それについては少しも“負債感”を持っていない」、「自分の無知・無能や未熟は棚上げ」にして一方的に言いがかりをつけてくるような人だが、個人的には、自分はクレイマーなんかじゃないと思っている人(おれ含む)にもその芽はほぼ確実にある。その根のところには、「最低の代価で、最高の商品を手に入れる」という(場合によって賢いとも合理的ともいえる)消費者的心理があると思うから。

 よく聞く言葉で「まあ受け取り方は、人それぞれだよね」とか「世界は大変だけど、日本は平和でよかったね」といったのも立派な定型ではないかとおれは思う。それは一面で事実や素直な気持ちでもあるだろうけど、定型的な言葉づかいの特徴は、それを口にすると「思考停止する」という点にある

 「すべてを市場原理で測ろうとし、演劇的に無垢にふるまう。それらが合わさったところに定型的な言葉づかいが生まれ、その帰結として、今日のメディアの急速な劣化を招いている」というのが内田樹の見解である。これが事実か、もしくは信じるならば、よく言われるようにネットの普及・隆盛は新聞やテレビといったマスメディアの凋落の原因というよりは(これも定型に当たり)、それらメディアの病を明るみに出す“きっかけ”になったというほうが正しいということになる。


 以上は本書前半部分に書かれていることで、とりあえずこれだけでも、内田氏がまえがきに記した「メディアの不調はそのままわれわれの知性の不調である(同期している)」というのがあながち言い過ぎではないらしいということがわかるかと思う。

 ここではハショってしまうが、後半では電子書籍を絡めた本の話、「反対給付(贈り物に対する返礼義務」「人間社会の基幹制度はすべてこれに基づいている」という文化人類学の用語や仮説、経済学にいう「沈黙貿易」などを援用したり、小津安二郎の映画『お早う』に触れたりしつつ、それらを通して「コミュニケーションとはなにか」ということを考察していく(“価値あるもの”を創造する営み←ことの順序に注意)。


 で、実はここまではほとんど前置きで、おれが書きたかったのは以下の部分。


 ところで、市場原理のくだりで注意深い人・勘の鋭い人は「ん?」と頭に疑問が過ぎったかもしれない。「たしかにメディアは市場原理でなんでも測ろうとしているのかもしれないが、それをはじめにやりはじめたのは、また違うのでは?」というふうに。そう、少なくとも、必ずしもメディアが率先してはじめたことだとは言えない。

 ネットの普及や隆盛の勢いは目を見張るばかりではあっても、その実、ここ最近の話でもある。『電車男』が話題になったのでさえ言っても6・7年前で、その3・4年前からこの国の首相を務めていたのは誰だったかというと、言うまでもなく小泉純一郎。彼は「社会にある諸制度を市場に委ねれば(民主化すれば)すべてよい方向へ動く」と豪語して憚らなかった人物であり、小泉内閣の「構造改革」「規制緩和」とはいわば彼の市場原理主義を体現しようとしたものだった。

 メディアはその役割として一応批判しつつも、小泉を飾り立てていた(ように見えた。彼はメディアを利用するのがうまかった)し、どうしてメディアがそういう感じになってしまっていたのかといえば、小泉自身が格好の話題の種を提供していたということもさることながら、なにより支持率が高かったからだろう。とにもかくにも、小泉は「郵政選挙」で勝った。このような様子を見ていたメディアが単純に「小泉(内閣)の支持率が高い」→「一般市民は市場原理による改善を求めている」と受け取ったのではないかと考えられるし、一方で一般人はどうだったかといえば、おそらく似たようなものだっただろうと思われる。


 こういう流れを振り返ってみてわかるのは、たしかに悪化させたのはメディア自身かもしれなけれど、メディアの病はメディアが勝手に患ったものなんかではなく、その発現にはおれたち一般人による影響もかなり大きいのではないか、少なくとも一役を担っていたのではないか。ということ。

 思うに、自戒をこめて言うと、一般人は社会に問題が発生したとき、なにかと一方的に外部にある“なにか”のせいにしがちではないか。本当のところ、その問題は、一般人の一人ひとりが欲し願ったことの“反映された姿”でもあるのではないか。たとえばおれの世代のタイムリーな話題で言えば就活・就職難というのがあるけれど、就職口が減ったのは、単に不況のせいということだけでなく、皆が総じてホワイトカラーになることを望んできたからでもある。

 一方的に外部の“なにか”のせいにしがちなのは、裏を返せば、その“なにか”におんぶにだっこと頼ろうとする、それができないのなら(なにもしてくれないのなら)我関せずと一切を無視する。ということではないかと思う。そうなってしまうのは消費者・被害者的な位置に自分を置いているためかもしれないし、そのとき人は“速やかな”解決を望んでいると思われるが、速やかにと望むのは、ネットの出現などによっていろいろと便利になったり(「便利になる」というのは「欲望からその実現までの距離が短縮される」ということ―米原万里)、市場原理的にものごとを捉えているためでもあるだろう。

 これはおそらく、メディアや政治に限った話ではない。人間関係なんかにも現れている。

 内田樹はこういう点に触れるとき、その口ぶりはなにか遠まわしというか、オブラートに包んだようなかたちをとっている。ただ、「メディアの不調はそのままわれわれの知性の不調である」というのを力をこめて記しているのには、単に読者の興味を引くためというだけでなく、「そのまま」「同期」という言葉を使うことで主語と目的語を入れ替えても意味の変わらない表現をとっていることからも、上に述べたような意味も込められているのではないかと思う。


 メディアに関していえば、新聞やテレビがなくなってもネットがあるから大丈夫と、今のところはたしかに言えるかもしれない。でもこのまま情報の受け取り手である人々の意識がなにも変わらないのであれば、いま新聞やテレビが患っている病をネットも違うかたちで再演するだろうと思う(ましてやネットは変化の激しいIT業界)。なぜなら、情報源としてのネットを新聞やテレビの単なる“代替物(代用品)”としてしか捉えていないような人も、案外多いのではないかと思うから。

 これからはマスメディアに代わって(ブログ・SNSなどの)ミドルメディアが大きな力をもつだろうという見方がある。とはいえ、「人気あるようだから(有名だから)このブログは信用できる」「いっぱいブクマついているからこのエントリーは有益だ」というふうに早合点したり、そこに書かれていることを鵜呑みにしたり感情的に反発したりするだけなのであれば、いずれ「朝日新聞だから〜」とか「内田樹が言うのだから〜」というのとなにも変わらない。

 それにミドルメディアの影響力が本当に強まっていくとすれば、それは、「おれたち一般人が何を言おうと何も変わらないよ」といって見て見ぬ振りをしたり、無関心でいたりしても許されていたような事柄に対して、これまでよりも個人の声が届くようになるのだからそういう言い訳(諦念)も通用しなくなってくるよ、ということでもあるんでないか。

 「メディアは自省しない」と内田氏は説いた。その点、一般人も自省を怠っていると思う。判断を誤ったり間違いを犯したりするのは仕方のない面もあるが、それを省みもせず同じようなことを繰り返すとなると話はちがう。「歴史は繰り返す」という言葉が使われるのは大抵あまりよくない意味においてであることにも注意。


 自省について、内田樹の言を引用してみたい。

これはほとんど「手作業」というか、「職人芸」のようなものです。指先の感覚とか「匂い」を感知するとかいうのと似た身体技芸です。

 マニュアル的にはできないということ。

 また「速やかな解決を望みがち」ではないかと先述したけれど、(自省に限らず)この種の「作業」には忍耐がいるし、内田氏が本書の最後に述べている「“なんだかわからないもの”の価値と有用性を先見的に見出す感受性(自分宛の贈り物を見つけ出す力)」といったものは、そうした中で徐々に磨かれていくものでもあると思う。


 「吾日に三たび吾が身を省みる」といったのは孔子のお弟子さん、曾氏だった。2200年ほど前の話である。

 この言葉の解釈もいろいろとあるけれど、おれ自身は、これは自戒にちかいものだったのではないかと思う。「日に三たび」というのは自省することの大切さ、ないし必要性を強調するための一種の比喩だったのではないかと。

 「吾が身を省みる」というのは、消極的なものではなく、積極的な行為である。「行きはよいよい帰りはこわい」じゃないけど、ときに少しばかり勇気の必要なことでもある。それは小さな(でも重要な)発見につながる。



街場のメディア論 (光文社新書)

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