「微分型」と「積分型」と/おさらいの妙味 『おとなの楽習』(理科)

 最近、自分のなかにある(ないし自分を乗っけていたらしい)“流れ”とでも呼ぶべきものが何か変化してきたような、というより、べつの流れが発生、勢いを増してきたような気がする・・・最近と言っても実は、河出の世界文学全集を読み終わったあたりに(つまりおよそ半年ほど前から)感じはじめていたことのなのだけど。

 ここ5・6年ほど(高2年の半ばあたりからこれまでの)あいだひたすら続いていた“流れ”がふと、1タームおわりつつある、みたいな感覚を抱いたのだった。なぜなのかはわからない。なんとなく、そう感じるものがあった。それで、ところでこの間に自分は何をしていたのだろうか?(求めていたのだろうか?)と、この機にざっくりと振り返ってみたところ―自分のベクトルは端的に言えば、「とにかく外へ」「向こう側へ」というものだったように思われた。言い方を変えると、どうも「破壊」しつづけていたらしい。つまり、自分の視野を拡げようとする方向にひたすら努めてきたようなものだった。これは年相応の志向・欲求とも言えるものの、たぶんそれよりも、おれが「積分型」の人間であるという点に因るところが大きい。

 「微分型」「積分型」というのは、天文学者・宇宙物理学者の池内了が『科学の考え方・学び方』という本で使っていた表現である。「研究者(の考え方・見方)にはおおまかにわけて2通りのタイプがあるようです」「両方の眼をもつのが真に有能な研究者なのですが、そんな人はまれで、どうしても得意な方法にかたよるようです」と―「微分型」とは、問題の詳細を突き詰めて考え、すぐれたテクニックで解決してゆくタイプ。「積分型」とは、問題をより広い観点から見渡して、進むべき方向や整合性を考えるタイプ―ほどの意味である。前者はいわば「虫の眼」、後者は「鳥の眼」と言える(ちなみにおれは、この本を読むまではそれぞれを「スペシャリスト的」「ジェネラリスト的」などと言っていた)。

 これは研究者に限らずとも言えることのように思う。実際には「微分型」「積分型」と分けたとしても、池内氏が示唆しているように、その間の往復運動が必要不可欠であるものの、とりあえずこの伝でゆくと、おれは「積分型」の性質ないし癖がある。たとえば、複数のものをまたぐことでまず共通点と差異、繋がりなどを知ろう見極めようとするところがあるし、もしくは、ともすると「広く、しかし浅い」という事態に陥りがちなのは否めないとはいえ、同時に実感としては「広く捉えないと、むしろ深められない」というところが自分にはある・・・

 さておき、おそらく「積分型」ゆえに無意識に拡げよう拡げようとしていたのだろう。それで冒頭の話に戻ると、ひたすら「外へ」「向こう側へ」というベクトルが強かったと言ってよかったようなところに、なんだか違うベクトルが現れてきた。端的に言えば、どうやら「逆向き」、つまり「復習」「おさらい」というベクトルである―半年ほど前にこれを感じたときは「もしかして保守傾向かな?」とか思い、しばらく様子を見ることにしたのものだけど、現在、「外へ」という向きが変わったというわけでも、減退したということでもないらしく、しかしたとえば、去年の後半からちらほら現れ、今年に入ってから目に見えて増した再読頻度などを通して省みるに、これは乗っかるべき新たなベクトルなのだろうと思うに至った。

 この「復習」の感覚はちなみに、RPGなんかに喩えられるかもしれない。FFとかポケモンとかなんでもよいけれど、ゲームが進むほどに敵のレベルやフィールド・エリアの難易度は上がってゆくものである。で、ときに、いまの自分のレベルでは太刀打ちできないゾーンに直面することがある。そういうときって、どうするか・・・?これまで通過・踏破してきたエリアに戻って、経験値を稼ぎ、レベルアップを図る。あるいは次に進むために必要なアイテムを取り落としてきたらしいとなれば、同様に一旦後戻りして、再探索する―こういう感覚にちかい。つまり、保守化というより、次の段階に進むために必要なステップ―準備というより、“しこみ”というか(ゲームと明らかに違う点は「攻略本はない」ということ)―ある意味「微分型」的行為というか。

 たぶんこれは、いまの自分に必要な“流れ”であるのだろうと思う。というのも、ともかく「外へ向かって前進あるのみ」という感じだったために、いろいろと曖昧で怪しい知識が雑多に寄せ集められているだけだったり、道聴塗説の気味があったり、付け焼き刃的な思考による牽強付会な向きが端々に、少なからずあるように思えるのであって、だからこのへんで、きちんと「復習」することもしていった方がよいということかもしれない。


 ところで、この数年間で瓦解した“殻”(というよりこの場合は“壁”か)の一例をわかりやすいところで挙げると、「文系」「理系」という区別がある。先に登場した池内了の著書『物理学と神』を読んだことで2年ほど前に理系コンプレックスがぶっとんでからこっち、うれしいことに理系分野にも手を出せるようになった(余剰効果として敬遠していたSFも愉しめるようになった)。いわばサイエンスできるようになった(笑)

 これは個人的に、とても大きい。数式を示されてただちにその意味するところを把握する、なんて芸当はもちろんできないけれど、理系的なものの考え方・見方は新鮮であり刺激的で、文系一辺倒だったおれにはときにコペルニクス的転回もあった。加えてより重要な発見は、「文系」「理系」という分け方はたしかにあるものの、実はそれほど確固としたものではなく、語られていること、説明されていることの奥へちょっと踏み込んでみるだけで、むしろ文系・理系なんて括りはほとんど(あるいはまったく)関係なくなることが少なくないということである。ひいては、理系分野に多少親しむようになると、日常の会話や思考に自ずとその影響が出てくる―テクニカルターム(専門用語)や概念、法則などを文字通りの意味で、あるいは比喩として用いることもやや増えてきた。

 たとえば、おれは個人的に、「自分」「自己」「自我」と呼ばれるものは「相変化」という現象みたいなものだと捉えてみたりする。相変化とは物質が固体・液体・気体と「状態変化」する様を言うものだけど、人の状態も一定ではないし、化学物質によって「沸点」や「融点」は変わるけれど、一般に個性と呼ばれるものはこの沸点や融点のちがいみたいなものかもしれない。あるいは相変化について、水でいうと、この相変化の先に「雲」があったりする。雲というのは気象学でいうエアロゾル―空気中の塵や砂粒といった微粒子を核にしてはじめて水分子が雲粒になり、雲が形成される。言うなればエアロゾルは“雲のたね”である。で、比喩の続きをすれば雲は、人でいうアイデアに相当するのではないだろうかと、つまりアイデアには一見ゴミと思えるようなものも必要なのではないか・・・などと考えたりするわけである。

 こんなふうに比喩的に考えるのはおもしろいし、理系分野にある概念の簡潔さ・明瞭さといった作用も働いたりしてか、なんかすっきりした!なんて気持ちよさを感じることもある―ただし、先に「少し踏み込めば文系と理系という区別はそれほど重要なものではない」という話をしたけれど、逆説的なことを言うと、それゆえに文系一辺倒だったおれが理系の専門用語を安易に使うことにはなかなかの危険が潜んでおり、注意を要する。というのも歴史を紐解くと、科学の専門用語が社会学などに敷衍して使われるときによく勘違い・誤用(ときに転じて悪用)されて、あるいは単純化されて、場合によっては現在に至るまで後遺症を与えているケースもある(反対に科学自体も、背景にある文化や社会の影響から逃れられるものではない)。よい例が社会ダーウィニズムとか優生学とかいうのがあったり、中原中也も勘違いのために、ある詩の中でアインシュタインにちょっとお門違いなやっかみを展開をしていたり。

 だからおれの場合、理系分野の知識についてはとくに、復習・おさらいする必要がある。あと、理系分野の本と限定しなくても、『土の文明史』のようにカテゴリー的には歴史だけど一般には理系の知識・要素とされるようなものと不可分である、といったこともよくあり、基本的な事柄についてはとくに説明されていない本も少なくない。しかし、それは読者があらかじめ知っておくべきことでもあると思うから、やっぱり勉強しておくにしくはない―等々と思案していたところに、よさげなシリーズがあったので手に取ってみた。『おとなの楽習』という、中学レベルのおさらい本である。ひとまず物理学だけ買って読んでみたのだけど、これがけっこうよかった。理科攻めようかと、生物学と化学も読んでみた。このシリーズは1項目見開き2ページで解説してゆく形式である。


 この3冊を鑑みてよかったなと思った点を3つ4つ述べてみると、1つ目は、よくある「子どもの素朴な疑問」みたいなところから出発しつつも、読者はタイトルにあるように「おとな」なので、いわば「大人の言葉」で説明できるという点が活かされていることだと思う。だからわかりやすく、かつまた、興味をもって読める(ここで「大人の言葉」ってどんなんよ?と訊かれるとうまく答えられないのですが、後述する2つ目、3つ目なんかを含みうる感じというか・・・)。

理科のおさらい 物理 (おとなの楽習)

理科のおさらい 物理 (おとなの楽習)

 たとえば物理学を例にとってみると、「夕焼けはなぜ赤いの?」という疑問がある。はじめに指摘されるのは、「赤い光と青い光の違いを考えると理解できる」という点。そこから光の波長のちがい、屈折率や散乱の仕方の違いなどを説明ないし確認しつつ、ミー散乱と呼ばれる現象・用語があることを示したりして、夕陽が赤いわけを解き明かす。ひいては「昼間の(青い空にある)雲は白いのに、夕方の雲はなぜ赤く染まるのか?」という関連する疑問に触れ、レイリー散乱という現象にも言及される。ついでに「火星の夕陽は青いのです」とそのわけを、それまでに説明した現象で説明してみる。

 こんな具合に2ページとちょっとしたイラストで1項目を展開してゆくのだけど、ここでよかった点の2つ目を挙げると、1項目だけで読んでもおもしろく、また1項目で読み切りというのを可能にしつつも、同時に、全体の「文脈」も考えられているという点。上の夕陽の話にしても、この話の前の項目で「虹が7色に見えるのはなぜか」という話などを通すことで、波長とか屈折率とか散乱とはどういうものかを了解したうえで読むことができる。1冊単位で見ても、いくつかに分かけられている「章」の順序にさりげなく心配りがあり、つまり、順序をただ単に中学校の教科書に則すわけでも、羅列的にするわけでもなく、はじめから読んでいけば大きく躓くようなことがないように配慮されていることがわかる。

おとなの楽習11 理科のおさらい生物

おとなの楽習11 理科のおさらい生物

 生物学で言うと、はじめの1項目が「生物の特徴は何か?」という話ではじまる。そこでは4つ挙げられるのだけど、いわく「細胞でできている」「代謝する」「刺激に反応する」「生殖する」―ということで、それぞれに1章(ないし2章)設けて順々に説明されてゆく。このときも「代謝する」の前に「細胞でできている」の章で細胞に関する知識が一通りあるおかげで、代謝についての理解がしやすくなるといった流れがあったりする。また、8章あるうちの5章でこれらを説明した後に(それを下敷きに)あとの3章を使って「生態系」へと話を進めてゆくのだけど、ここでよかった点の3つ目を挙げると、その科目という枠に閉じこもっているのではなく、もう一回り大きな枠から、つまり「日常生活のなかにある物理学」「社会のなかにある生物学」というような視点もあるという点

 生物学ならば、脳死とか遺伝子組み換え技術、DNA鑑定、エコロジー、環境問題などなど、社会にある身近な話題も取り入れながら「ちなみに、この問題はこの項目と関係がありまして・・・」といった感じに示されたりする―生物学については筆者がこの点をちょっと意識しすぎたかなと思わないでもなかったけれど、裏を返せば、それだけ日常生活や社会に密接な科目でもあるということだろう(たしかに生物学はよく援用される)。

 ちなみに、おれは高校のとき、化学の成績が2だった(笑)だから理系コンプレックスがぶっとんだとか言いつつ、化学についてはまだまだ敬遠していた。とはいえ物理学と生物学がよかったしと、何より文系理系という区別がそうであったように、物理学や生物学と共に化学も「理科」という意味で同じなわけだしと、せっかくだからついでに手を出してみたのだった。意外だったことには、なんと化学アレルギー(拒絶反応)をもよおすことがなかった。以前は化学記号とか反応式を見ただけでげんなりしたものだけど、理科のほかの方面に接しているうちに、知らぬ間に・・・慣れていたのかもしれない。

 ともあれ、案外知っているようでよく知らなかったりしたもの(こと)がわかったりして、化学もおもしろく読めた。ただ、化学については、物理学と生物学の2冊に比べてこのシリーズのよさがちょっと活かしきれてなかったかなと、ちょっと物足りなかった感が残ったのも事実。などと思いつつも、考えてみると、化学という科目ゆえにしかたない面もあるのかもしれない。たとえば、基本的な化学物質について説明するにしても、1つ1つ説明してゆくうえではどうしても羅列の気味から逃れられないかもしれない。あるいは物理学、生物学、化学の3つで言うと、なんとなく、化学がいちばん数学っぽいように思う。具体的な物質について語っているのに、不思議なことに、抽象的な印象を受けるというか。なぜだろう。

 
 最後に、あと1つ、よかった点を挙げておくと、それは「はじめに」とか「おわりに」についてである。各筆者がそれぞれの科目に対する見方を述べていたりするのだけど、これがステレオタイプな印象をひょっと変えてくれるような示唆があり、その科目に対する興味をさりげなく引き出す効果がたしかにあるように思う。たとえば化学―「実験は“物質”との会話です。会話を通して人の個性が浮かび上がってくるように、実験を通して物質の個性がわたしたちの目の前に描き出されます」。物理学の「はじめに」にでは、「物理」という言葉を大和言葉にして読んでみることをすすめる―「もの」の「ことわり」。つまり、「ものの性質を明らかにし、その関係を理解しようとする」、この宇宙にある「すじみち」を見つけようとする学問が物理学だと。

 あるいは、物理学を共同で執筆しているもう1人の方は、「おわりに」でこんなことを書いている―「ボールを投げるとどこに落ちるのか」ということを考えるとき、物理学ではひとまず空気抵抗は無視してしまう。それは「空気抵抗がないような実際にない状況を考える」ということではなくて、「空気抵抗を考えなくても目の前にある現象を説明できればラッキーと考える」「余計に見えるものを削ぎ落として現象が説明できるかを考えてみる」ということだと。つまり、「大体、合っています」でよいし、むしろこの「大体」が重要だという。というのも、物理学の考え方は「複雑さのなかから“本質はこれだ!”と考えてみること」にあるから。

 ちなみにおれが読んだのは理科の3冊だったけれど、日本史も「はじめに」だけさらっと読んだところ、こんなような一文があった―日本史は暗記科目だと思われているけれど、それはちがう。本当は「考える科目」である。出来事や事件には因果関係が隠れている。だから「1853年にぺリー来航、1868年明治維新」というように「覚える」のではなく、そこにある原因と結果は何か、どのように生じたのか、どういう流れや背景があるのか等々を「考えてみる」、つながりを捉える。それが日本史という科目であると―個人的にこれはそのとおりだと思う。それにこれは、先に書いた2つ目の「文脈」にも通じるものがあるように思う。


 このシリーズ、理科だと天文学と気象学も別個で出ているくらいだから、地質学、出てほしいな、出ないかなって思う。というのも、日本史とか世界史とかに文化人類学なんかが合わさるとぶわっと時空間の広さと奥行が増して壮大になるのだけど、たとえば生物学に地質学が合わさると、同じ感覚を味わえるのです。