婚活小説 『高慢と偏見』

 普段はあまり「ラブストーリー」と銘打たれたものに食指が伸びない。嫌いなのではなく、自分にはその魅力やおもしろさがよくわからず、大抵楽しめないからである。『高慢と偏見』なんか「世界文学屈指のラブストーリー」と背表紙に書かれているくらいでとても手を出せたものではない。と思いつつも、少し前からなぜかタイトルが頭の中から離れなくなって、どうやらおれはこの本のことが気になっているらしいと。モームが『世界の十大小説』でこの小説を挙げていることを知ってからは脅迫観念めいてきたため、エイヤッと読んでみた。

 嬉しいことに、びっくりするくらい、読んでて楽しかった。読み心地がとてもよい。この読み心地は、おれが読んだことのあるものだとイサク・ディネセンの『アフリカの日々』なんかが近いかも。図書館で借りて読んだけどこの本は買っておこうと思った。


 この小説の舞台は18世紀末のイギリスの田舎町である。主人公のエリザべス・ベネットの家は、中産階級とはいえ何人か召使を持っているようだし、馬とか馬車とかも持っているし、彼女を取り巻く人々も同じような家の人々や資産家たち。言葉遣いなどは、どうやら原文の英語からして、現代の英語から見るとやや古めかしいものらしい(訳文もそれを反映したものになっている)。200年前に出版されたということを考えるまでもなく、その様子が一見古めかしく思える。

 ところがどうして、その内容自体は全然古びていない。というかむしろ、親による「お見合い」が激減し、結婚相談所や結婚情報サービスを媒介にした「婚活ブーム」が起きているらしい今の日本だからこそ、いっそう読み甲斐があるかもしれない。たしかにエリザベスたちの時代には特有の「家」とか「家系」という問題があるにはあるが、エイザベスがそこに大したこだわりをもっていないので気にするほどではない。ダーシーを見てもそう言える。

 あるいは、そこにこだわっている人物も少なからず出てくるが、それだって「家」や「家系」というカタチを「高学歴」や「有名起業・大企業の社員」、「カリスマ〇〇」、「〇〇賞受賞」といったように置き換えればとくに問題にならない。カタチ≒肩書きみたいなものである。同様に、たとえば「狩猟趣味」を「ゴルフ」に、「舞踏会」を「合コン」とか結婚相談所主催の「婚活パーティー」などに置き換えることも可能だ。こうして見ていくとその表面上にある古めかしさに対してもなんら違和感を感じさせないものになる。


 さて内容。今でも通じるものがあって、そこを引き出しているのは、作者の眼力や手腕、描き方。作者ジェーン・オースティンは「英国最高の作家の一人」と言われている。この点少し読んだだけでもそれが大げさではないことがわかる。夏目漱石に「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」と言わしめたその筆力は、一見なんの変哲もないように思える話にふしぎな魅力を与えていて、モームが「大した事件が起こるわけでもないのに、ページをめくる手が止まらなくなる」と言った気持ちに頷いた。

 オースティンの観察眼と筆は、人物や心理の描写が細やかで機知に富んでいて、たとえば、エリザベスの心理や心情(とはいえ彼女は特殊ケースなのではなく、読者にも十分「わかるなー」「あるある」と思わせる心の動き)やその変転が丁寧に、ときにコミカルに描き出されている。また、その筆には皮肉やユーモアもあって、描写されるベネット夫人やリディア、コリンズと言った面々の様子は、作者はべつに彼らを貶そうとしているわけではないだろうに、むしろそれゆえに滑稽で、時にひどくムカつき、エリザベスのウンザリ感を共有できたりもする(笑)


 タイトルにある「高慢(pride)」と「偏見(prejudice)」は、誰にでも、あるいは誰に(何に)対しても少なからずあるもの。この小説に出てくる高慢と偏見のうち主要なそれは、「第一印象」によるエリザベスの偏見、その「第一印象」を与えたダーシーの高慢。そして高慢と偏見は密な関係にある。偏見のあるところ高慢あり、高慢あるところ偏見あり。もしくは、偏見によって高慢が芽を出し育まれ、高慢によって偏見が生まれ助長される。必ずしもそうとは言えなくても、高慢か偏見に思い当たったら一度疑ってみてよいかもしれない。

 ある場面でエリザベスがそれに気づいたとき、彼女は心に叫んだ―自分は「なんて見下げはてたことをしたのだろう!」と。

いま気づいてみれば、なんという恥だろう!でも、何と当然の恥だろう!わたしが恋をしていたとしても、これほどみじめな盲目にはなっていなかったろう。でも、わたしが愚かなまねをしたのは、恋のせいではなく、虚栄心のせいだわ。(中略)たった今まで、わたしは自分を知らなかったのだ。

 印象的なところだったから引用したが、このようにエリザベスは無意識にあった高慢や偏見に気づき、ひいては自分の中にある虚栄心や、人に対して誤解があったことに気づく。ここでさらに、そのとき自分が感じた恥を「当然の恥だ」と認め、「たった今まで、わたしを自分を知らなかった」と受け止めるというのは、簡単なようで実際には難しい。


 この小説は、たしかにラブストーリー(orラブコメ)である。でも描かれていることは恋愛に収まらない。というより広く人間関係に共通するものが描かれている。たとえば、「自分を曲げない」「信念を貫く」ということと、「独りよがり」「自己中心」との違いはなんだろうか。

 人と人の相対的な関係が要するに人間関係であって、その人間関係の中に自分がいる場合、それは相対的であっても客観的ということではない。ふつうは主観的に見た関係だ。主観的だからこそ、高慢や偏見、虚栄心や誤解が生まれたりする。高慢や偏見に気づき、あるいはそれを認める方法の“1つ”としては、よく言うように「相手の立場になって考えてみる」こと…なのかもしれない。

 「相手の立場に立って」というのは、つまり「想像力を働かせる」ということである。ごく単純に話してみると…相手の言葉や素振りを感情的にならずにまずはよく観察して、分析を加えしつつ、想像してみる。もちろん「自分」というバイアスがかかっているのは事実だし、相手のことを「理解する」ことなどできないが、とりあえずそうやって置かれている状況なり関係なりを「相手の立場になって」、というより「相手のことを考慮して」、冷静に捉え直してみる。もしそのことで、糸口が見つかったり誤解に気づいたり状況が改善されたりしたのであれば、その「自分が想像した相手の視点」*1は、1つの「第三者の視点」と言えるのではないかと思う。


 閑話休題。現在片思い中だったり婚活中だったりする人は、気晴らしにでも一度この小説を読んでみてはどうかななんて思う。また、作者が女性で主人公も女性とはいえ、女性はもちろん、男性も楽しめる。というかこういう小説って、『アフリカの日々』を読んだときにも思ったけれど、女性じゃないと書けないという気もなんだかする。

 「ラブストーリーは楽しめない」という偏見をとりあえず脇にどけて手を出してみてよかった。



高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)

高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)

*1:このような視点を物理学では「間主観」と呼ぶらしい。