おっきな割れないシャボン玉 『生物から見た世界』/「Simple is best」の意味

 「人それぞれに“見えている”世界は違う」と耳にすることがあるけど、人間が見ている「世界」と、その他の動物が見ている「世界」も異なる。このパンフレット的な本は動物たちにこの世界はどう見えているか、というより、どのように見ているかという話。

 その見ている世界を「環世界」と呼ぶ。環世界はシャボン玉のようなものである。

 まず、高校の生物学で習ったニューロンとか、神経伝達のおさらい。人間の場合、一定の閾値を超える刺激を受容体(感覚器)が受けると、ニューロンで構成された感覚神経を情報を伝える信号=興奮が電位変化というかたちで伝わり、中枢神経(脊髄→大脳→脊髄)を経由して運動神経に至る経路を辿って、結果、作動体に反応が起こる。人は大脳の段階で理解・思考・判断といった精神的処理を行っている。

 この本が出版された当時、学者たちの間では、人間以外の生物たちは<知覚>と<作用>という道具のみ―中枢神経に当たる部分が省かれた状態(反射弓)のみを持ち合わせているのであって、要するに反射的な生を生きていると生化学的に考えるのが定説だった。喩えると、生物たちはスイッチを押せば自動的に動く「機械」みたいなものだと。そうではなく「機械操作係」に当たるものが存在する、という視点でこの本は考察していく。


 環世界は、生物個々の「時間」と「空間」の捉え方の違いによって主観的に個々に生じる。人間の一瞬は18分の1秒でその一瞬の連続が時間(映画はこの頻度で1コマを連続して投影したもの)になるが、他の生物はこの一瞬の長さが違うため時間の感覚が異なる、すなわち時間は一様ではない。といった時間に関する提起も興味深いのだが、ここでは空間の話に絞ろう。

 通常、三半規管を持っている生き物だと3次元で空間を捉えるらしく、前後左右上下がものさしになる作用空間、モノに触れることによる触空間、目の認識による視空間の3つによって成り立っている。視空間の場合、その生物がもつ視覚エレメントの数や眼球の構造によって見える世界は変わるので、たとえば人間の目には蜘蛛の巣が見えるけれど、ハエの目では、ちょうど目の悪い人がメガネやコンタクトをはずして少し遠くを見るような、ぼやかした水彩画、印象画のように風景が(人間基準でいうと)見えているために蜘蛛の巣(糸)が見えない。

 「環世界はシャボン玉のようなもの」という喩えは、最遠平面による。最遠平面は作用空間と視空間によって捉えられた空間の限界地・地平線のことで、一般に人間の大人で6〜8キロ以内のものは「近いか遠いか」でも距離を(3次元的に)測れるが、それ以上先にあるものは「大きいか小さいか」で絵を見るように(2次元的に)捉えるようになる。その地平線=最遠平面で球形に覆われている範囲、それが環世界というイメージである。

 単細胞生物であるゾウリムシやある種のクラゲのような反射動物もいるが、ほとんどの生物は知覚できる対象に対して複数の「意味」を与えている。ユクスキュルは意味のことをトーンと呼んでいて、環世界の研究では「意味の関係」を押さえなければならないようである。たとえばヤドカリはイソギンチャクを目にしたとき、腹が空いていれば「摂食トーン」、自分が背にする住居としての貝を覆うのに使えそうなら「保護トーン」(ヤドカリとイソギンチャクは共生の関係にある)、貝を背負っていないときは貝変わりにしようとして「居住トーン」となる。

 環世界は、外部からの刺激によって呼び起こされた知覚記号の産物。しかし中枢神経系が発達している生物には上記のようにトーンを選択する「機械操作係」がいて(実行できる行為が多いほど多数の対象物を識別できる)、本書で触れられる「なじみの道」「故郷(ハイマート)」「探索(像)」などで主観的な要素が濃厚になる。これはたとえば、まったく知らない土地をその土地に住む(知悉している)人に道案内してもらえばわかることで、他所者にとっては見えているものは雑然としていて何も教えてくれるものではないが、土地の人にはそこに標識(トーン)が見え、方向感覚や方向歩尺(何メートルくらいの距離か)でもって迷うことなく道順を描くことができる。

 こんな感じで、見えている世界は変わる。個々が環世界の中にいるからである。

環世界には純粋に主観的現実がある。しかし環境の客観的現実がそのままの形で環世界に登場することは決してない。

いずれの主体にも主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実に他ならない。

 昨今「環境問題」が話題だが、この「環境問題」の環境とは「自然」のことではなく、要するに人間の「環世界」のことを言っているのである。

 ユクスキュルは「本能はない。それは自然の設計である」とか「魔術的環世界」なども後半で提起している。本書が刊行されたのは1934年。パブロフの犬の「条件反射」とかローレンツのカモの「刷り込み」などの経験によって得られる「学習」とか、「走性」というのを高校でやったけれど、その辺との関係が実はちょっとわかってないおれ。

 しかしユクスキュルの主張は今なお刺激的。たとえばコクマルガラスはキリギリスに「摂食トーン」を与えているのではなく「ぴょんと動くもの」にそれを与えているし、魚はたとえ目の前に近道があろうと一度覚えた道を外れるようとはしない(その道に「安全トーン」があるから)。こういうことは視覚だけでなく、嗅覚や聴覚などによっても現われる。


 本書は生物学の本だからもっぱら生物と物理的な世界の関係を検証しているけれど、この「環世界」は大脳が発達した人間の抽象的思考や観念・想念に対しても言えるだろうと思う。というかユクスキュルも冒頭で触れているようにその辺はカントとか、ニーチェラッセルあたりが考究していると思われる。トーンを「イメージ」と言い換えるとわかりやすいかもしれない。たとえば環世界という概念で、以下のように敷衍して考えることもできる。

 単純な話、アメリカが好きなら「良いイメージ」、中国が嫌いなら「悪いイメージ」といったように国像にトーンを張っていて、人間関係ならムカつく奴には「ムカつくイメージ」、優しい人には「優しいイメージ」といったようにその人の人間像にトーンをつけている。もちろん同じ国や人に対して複数のトーン(イメージ)をもっているのだろうが、もし単純に一つのトーンしか張っていない(自分がその国や人を一様なイメージでしか見れない)場合、それは「偏見」とか「先入観」と呼ばれるものだったり、揶揄的に「単細胞な奴」となる。となると複数の視点をもつ(複数のトーンを張れる)ことが大切になってくる…でもちょい待ち!

 ゾウリムシやクラゲの場合そこに「選択」という意思行為はなく単純な行為しかできない(避け続ける・泳ぎ続ける)が、その行為の確実性自体は上がる。中枢神経系が発達した生物は選択肢が増える、つまり多くの対象物をいろんなトーンで識別できて、ヤドカリの例からもわかるように1つの対象物に対しても行動の幅が広がる。しかしコクマルガラスがぴょんと動くものにならキリギリスでなくても飛びついてしまうように「食べる」という確実性そのものは下がってしまうことも多々ある。

 行動の幅が広がると確実性が下がる、というのは人の観念であれば、1つのものを複数の視点で捉えられるがその視点が増えれば増えるほど複雑になって判断できなくなる、惑う、迷う。というのに似ている。でも1つのものに1つの視点・イメージだけでは不具合や不都合や理不尽が生じるわけで、視点の単純性と複雑性のあいだに葛藤が起こる。さて、どうしたものか。

 ここで冒頭の「動物たちがこの世界をどう見えているか、というより、どのように見ているか」というテーゼを思い出したい。「動物たち」を「人」に、「この世界」を「その対象」と置き換えてみよう。単純と複雑のあいだで混乱してしまうのは、「どう見えているか」というところを問題にしているからだ。本当に問題になっているのは「どのように見ているか」つまり「自分がどう見るか」ということであって、「これは善か悪か」「それは正か否か」ではなく「どれを善とするか・正とするか」という、判断や決断をする「意思」や「価値観」の問題。

 思うに「Simple is best」の意味するのは、複数のものから(複雑な状況や関係の中から・それに合わせながら)1つを選ぶ(選べる)ことであって、複数のものを1つのものとしてしか見ないということではない。もしくは、複数のものから共通点を見つけ出すということではないだろうか(意識的無意識的関係なく)。人間的に大きいと感じる人を学力にではなく「人間的に頭よい・賢い」「懐が深い」と言ってみたり、行動力がある人を見て「単純な人は強い」と言ったりするのは、然るにこういうことなのではないかと。同じ単純でも「単細胞な奴」の単純さとはまったく異なる単純さなのである。

 観念の世界も一種の環世界で、シャボン玉。


 いわゆるセカイ系っていうのは、観念の環世界の話なのかな…?環境問題の捉え方もセカイ系にやや近いような気がする(だから「環境に優しい」って言い方はなんか奇妙)。

 たしかに個々の生物が個々の環世界から出ることは叶わない。「環世界がすべて」とも言えるのだ。でも、環世界は主体が知覚を投影する“客体”の存在なしには存在しえない。すべての環世界を集めたところでその“客体”になることはなく、むしろ渾沌が生まれる。その“客体”の姿(実態)を見ること・知ることは「環世界がすべて」なので永遠に不可能。そしてこの“客体”が実は、すべての環世界を生み出す“主体”でもある。

 『真昼のプリニウス』の頼子が求めていたのは、この“客体”であり“主体”であるところの自然(宇宙)なのかもしれない。



生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)