『科学と科学者のはなし』再読―だいぶ暇だと見えますね、寅彦先生

 ざっくばらんに区別する際に理系とされる分野の本に最近手を出すようになって思うのは、「文型」「理系」という分け方はごく表面的なものに過ぎないんだな、ということである。語られていること、説明されていることの奥へ少し踏み込んでみるだけで、もはや文型・理系なんて括りはなくなる。どちらも人間の営みの産物であることに変わりはない。反対に、文型にしろ理系にしろその“入り口”自体も、やっぱり文型も理系もない。

 寺田寅彦と言えば夏目漱石の熊本時代の教え子で『吾輩は猫である』に登場する「水島寒月くん」のモデルとしても有名だが、物理学者であり俳人でもあった。寅彦は自分をペシミストだと思っていたようで、エッセイを読んでいる限りたしかに根っからの楽観主義者とは言えないと思う。しかしそれに反して(?)、彼の日常・人生はとても愉しそうなのだ。日常を愉しむペシミスト―こんなおじさんが近所にいたら楽しそうだなと思う。

 寺田寅彦はちょっとした“入り口”を、なんの変哲もない日常によく見つける。彼は子供のように、日常に見られるちょっとした現象や生物の仕草などを目に留めては驚き、頭の中に「?」が浮び、不思議に思う。そこには科学的な好奇心もあり、またそれは人間に対する関心へと繋がっていく。


 『蓑虫』という随筆。2階の書斎の窓の向こう、木から垂れ下がっている蓑虫を、彼はふと目にした。じっと動かないその姿に家に引きこもって思索に耽る昔の学者を思い、子供のころ母がカラフルな蓑を作らせようとして失敗に終わったという記憶が甦り、不細工に這っていく蓑虫をちょっと観察しては笑ったり神妙な心持ちになったり、試みに辞書で調べてみると蓑虫は「木螺(ぼくら)」とも呼ぶことを知ってはなるほどと思い、「蓑虫鳴く」という季語があったなと歳時記を開き清少納言が突飛な想像をしていることに驚く。といったことを友人のM君に話したところ、彼は笑って「だいぶ暇だと見えるね」と言った。が、寅彦曰く「M君もだいぶ暇だと見えて、この間自分で蟻の巣を底まで掘り返してみた経験を話して聞かせた」(笑)

 『草をのぞく』は、あるとき浅間山の麓あたりにある温泉地に数日間滞在したときの話。寅彦はそのとき植物への興味が再燃していたので植物図鑑を持っていくことにする。早朝に散歩に出かけていくつか植物を持って帰り、ゆるゆると図鑑と照らし合わせ、やっとこさ1つなにかわかった、という頃に朝ご飯となる。その間に以前から実際に見てみたいと思っていた「インパチェンス・ノリタンゲン(「癇癪持ちの触るな草」という意)」なる植物が「黄釣船草」というたまたま引っこ抜いてきた植物のことだとわかって喜んだりする。

この数日間の植物界見物は実におもしろかった。もっともこんなことは、植物学者、あるいは多少植物通の人にとっては、あまりにも平凡な周知の事実であるかもしれないが、はじめて知った丸のしろうとには、実に無限の驚異と、したがって起きる無数の疑問を提供するものである。

 また『線香花火』という随筆では、寅彦は子供たちと線香花火をしているときに微かな郷愁を感じ、燃え方がいいよなあと思う。そこでその燃え方を見ているとこれが実に興味深い。そこには「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽があると彼は思う。少し調べてみたところ、過去に「線香花火の燃え方」という現象を研究した人は未だいないらしい。何か変わった研究をしたいと考えている何人かに線香花火はどうかと言ってみたがどうも誰も手をつけていないらしいので、自分で2年くらい研究してみたところ、やはりこの燃え方はかなり重要そうで、科学全般に対してなにかしら有用な発見があるだろうと彼は思いもする。

人が省みなかったということは、この問題のつまらないということには決してならない。


 寅彦はいろいろなことに関心や興味を抱くけれど、物理学者である自分がすべてを研究するなんて土台無理な話だし、手に余る、だから誰かやってくれないだろうか。という調子で書いている随筆がいくつかある。そして科学や科学者とは何なのか、とか、科学と人間・日常の関係に対して何かしらの意見・提言をやわらかい物腰で、ときには力を込めて、言及したりもする。

 たとえば、時期が時期だけに否応なしに目につく随筆として、『津波と人間』というのがある。これは1933年に起きた昭和三陸地震で発生した大津波とその被害を扱ったもので、寅彦は地質学や気象学などを研究していたようだが、今読んでも示唆に富む一編である。この随筆に関してはエントリーをべつに設けることにする(長くなりそうだから)。


 科学そのものに関するのものでは、『科学者とあたま』と『化け物の進化』という2編がおもしろい。前者では「科学は人間の叡智のすべてではない。科学は、孔子のいわゆる“格物”の学であって、“既知”の一部に過ぎない」と助言とも警告とも取れることを述べているが、寅彦がこの1編を書いたのが第1次対戦と第2次大戦の間、いわゆる戦間期であったことを考えると「冷静な人だな」なんて思う。現在においては目新しい発言でもないけれど、今回の大地震を受けておれは自分で思っていた以上に科学を過信していたと思ったことをあらためて思う。

 『化け物の進化』は軽快な随筆。寅彦に言わせれば、化け物というのは芸術の一分野であって、人間の誇るべき発明、創造(想像)物とも言える。化け物に関する“事実”をすべて迷信だと言って切り捨て、それこそが科学の目的であり手柄だという誤解こそが「科学に対する迷信」に他ならない。昔は虎柄パンツを履いた鬼が雷を落としていたところを、現代ではそれを水の粒子といった“化け物”で説明しているに過ぎず、「構図」がわかっただけで「解決(回答)」などではない、と述べる。むしろ謎はいっそう深まっていくと。

あらゆる化け物をいかなる程度まで科学で説明しても、化け物は決して退散も消滅もしない。ただ化け物の顔貌がだんだんにちがったものとなって現れるだけである。化け物の数は限りない。

 あと、近年「理科離れ」が囁かれているけれど、もう1つ化け物と科学の関係において興味深いことを寅彦は述べている。当時からすでに、子供が化け物という存在を滑稽とだけ感じたり子供騙しだと思って、寅彦が子供の頃に経験したような「恐怖」を感じないようになっていたらしい。それが良いか悪いか・幸か不幸かは判断しかねるがと断りつつも、彼はこのように述べる。

ともかくも「ゾッとなること」を知らないような豪傑が、仮に科学者になったとしたら、まずあまり大した仕事はできそうに思われない。

 というのは、『こわいものの征服』という一編で子供のころ雷鳴がおそろしくて堪らなかったがそれ故にいつの間にか雷鳴や強風を観察するようになり、果ては長じて理化学の道に進み雷鳴や地震を研究するようになったという年とった科学者の話にあるように、あるいはライプニッツニュートンアインシュタインといった巨人的科学者も神(ゴッド)の存在を信じていたことは有名な話だが、人の好奇心や意欲というものは、目には見えないものに対する恐怖や畏怖といった感情も往々にして伴い、ときにそれが促進力にもなるということかもしれない。「こわいもの見たさ」の力だ。

 日常を“子供のように”という捉えるというのは、一見つまらないと思える物事に対面したときに、驚いたり不思議に思ったり、好奇心をもったりということはもちろん、恐がる、怯える、畏れる、怖気づく…要するに「ビビる」ことも含まれる。ビビることを馬鹿にしてはいけないのである。


 この本は少年文庫というだけあって、「町」「尺」「寸」「尋」といった慣れない単位に関して随筆ごとに逐一「約〇〇メートル」といった注釈が付されているのがありがたい。寅彦の言葉遣いが真面目な筆致でありながらもときに大袈裟で笑う(ex.「(果実が)実になるやいなや爆裂してこっぱみじんになるためかどうか」)。『夏目漱石先生の追想』を読むとしんみりする。寺田寅彦の随筆には味わいもある。

 それにしても、「ウムー」とか「おらのおととのかむーん」という呪文を唱えると蚊が寄ってくるなんて…知らなんだ。