ビニール傘考
序
梅雨はすぐそこ。そろそろあじさいも咲きごろ、花言葉は「移ろい」。
夜明けの空はあじさいの色をしていることがある。あじさいは漢字で紫陽花。「ああ、紫の陽ね」…と今思ったおれは紫色が好きなのだが、どっこい、この色、「欲求不満」を表すそうな。
そんなことはまあどうでもよい。梅雨といえば雨の季節で、つまりは傘の檜舞台である。
本日ビニール傘考。
推測編
ある雨の日の昼下がり、早朝からのバイトが終わり更衣室で着替えている最中、ビニール(透明)傘のことが、ふと気になった。 ビニール傘を差している人をよく見かける。というか置き去りにされているものも含めるとちょっとした氾濫を起こしている気がしないでもない。
この傘、今ではとくべつ話題にのぼることなんてそうないが、初めて世にお目見えした当時の世間やメディアの反応はどんなだったのだろうか。 なにより気になったのは、なぜこの傘はここまで普及したのだろうか、ということだった。
ビニール傘が使われる理由はなにか、とりあえず、まずは推測してみた。
- 手に入れやすい。コンビニなどでは必ず売られており、価格も大体100〜700円ほどと比較的お手ごろ。*1
- 失くしてしまってもそれほど「損した」という気分にならない。精神的ダメージ軽度。 例えば電車に置き忘れてしまったり、傘立てに挿しておいたビニール傘を誰かに誤って持っていかれてしまったりしても、諦めはつけやすい。*2
- 普通の傘よりちょっと軽い。途中で雨が止んだとしても、持ち運びが多少は楽である。
- ビニールで透明なので、視界が遮られない。
こんなところだろうか。
ところで、不況だ経済不信だと騒がれ続け、庶民の財布の口はそれなりに固くなっているはずなのに、そして何事においても「エコだ!ECOだ!」とエコーを響かせるがごとく叫ばれている昨今であるにもかかわらず、一見したところビニール傘が減ったようには思えない。
普通の傘を購入し大事に使えば、ビニール傘よりも経済的かつ合理的であるはずなのに。そして流行りのエコにもなるはずではないのか(たとえば、ビニール傘を製造する際には石油が使われる。廃棄時の分解分別が困難→リサイクル難易度・コストともに高)。
それでもこれほどまでに使われているということは、まだ何か他にも理由があるのではないだろうか…と、こんなふうにとりあえずパーと考えた後、さて、いざ帰らん、とおれは自分の傘を取ろうとした。が、なかった。
お気づきのように、おれはその日ビニール傘を使っていたのである。
あーぁ、やられちゃったな、とは思いつつも、まあべつにいっか、と傘立てから別の(新品ではないがそれなりにきれいな)ビニール傘を拝借した。バイト先の傘立てにはこういう時のため(?)の余分なビニール傘が数本置き去りにされていた。はたと思いつき、ついでだからその足で「実験と観察」を行うことにした。
実験と観察編
かつて古代ギリシャで“諸学問の体系化”を行い現在では「万学の祖」とも呼ばれるアリストテレスは、それまでの哲人たちが様々な現象を“解釈”するに止まっていたところに“実験”と“観察”という方法を取り入れ、かの一大業績を成したそうな。
要するにおれはその日暇だったのである。
実験とは単純に、
「その辺のお店に立ち寄る」→「入り口の傘立てにビニール傘を置く」→「10分前後を目安にしてお店から出る(この間、傘立てが見える位置にはいないことにする)」→「自分のビニール傘があるかどうかの確認」
という流れである。
途中下車したり。3つの駅の周辺の、コンビニや書店、ドラッグストア等に7軒ほど立ち寄り(ところで傘立てが表口に設けられているお店は意外と少ない)、以上の実験を行ってみたところ、驚くべきというか案の定というべきか、3回ほど取られてしまった(バイト先を含めると4回)。その度に、残っていた別のビニール傘をほとんどためらいなく抜き取った。
余談だが、以前青色のビニール傘を使っているときは一度も取られなかったものだ。
なぜこんなに取られてしまうのだろうか。ビニール傘だと「他人のものと間違えたり、あるいはそれを装って取り替えてしまったりしてもよいような気がする」のだろうか。たしかに自分のビニール傘が失くなっていて別のそれを拝借するとき、罪悪感はあるようで、ないかもしれない。 逆に取られたとしても、余程のことでもないかぎりそれほど腹が立つわけでもない(なぜかビニール傘は「盗られるもの」という前提めいたものが、個人的にはある)。*3
ただし、入れ替わるごとに手元の傘は劣化がすすむ。ここが観察部分である。
朝持っていたものはほぼ新品に近いものだったが、実験後、最終的に手にしていた傘は…石突(突端)が削れ、丈も若干短くなり、傘布(ビニールの部分)は張りがなく引っ掻き傷のような痕が目立ち、白色のハンドル(持つ部分)は心持ち黄ばみ、骨組みには錆が目に付くものとなっていた。
ともあれ、実のところ、「実験と観察」の結果はある程度予想通りだった。帰宅後、ネットでこの傘に関する情報を少しばかり浚ってみたりした。
★トリビア★
ビニール傘はとある老舗傘メーカーが1940年ごろに開発したのが発祥らしい。当時の傘は色落ちに悩まされること多く、そんな中考え出された代物。ビニール傘は日本発である。
国内においては、1970年〜1980代に品質が向上し需要拡大、しかし1980年代後半に輸入が輸出を上回り、2000年代に中国産の安価なビニール傘がシェアの95%を占めるようになる。現在の需要は横ばい。
この間、折畳み傘(置き傘)のシェアは下降していく。ビニール傘を「ほとんど使い捨て」に近い意識で使う人もいるらしい。
(以上、ウィキペディア参照)
考察編
人間は考える葦である(パスカル)。
その夜、ビニール傘のことが頭から離れず輾転反側、眠れぬ夜を過ごした。嘘である。とはいえ、「推測」と「実験と観察」の結果を参考に、おれはつらつらと考え続けた。
まずは推測編の続き。利便性や損得感情はともかくとして、経済面、環境面を考え合わせると、これだけビニール傘が使用される理由として、推測した4つの理由ではどうにも腑に落ちない。
そこで、「傘そのもの」について考えてみた。
傘はその用途として第一に、「雨に濡れないようにする」という、ささやかながらも切実な目的を果たすべきものだろう。言い換えれば「雨が防げればとりあえずはOK」ということでもある。
こんなこと言うと「じゃ雨合羽使えよ」などと短絡的にのたまう人もいるだろうが、その場合「じゃ、まずは君が使いたまえ」と切り返しておけばよい。そういうこと言うやっぱらは人間の心理をちょっと甘く見すぎである。
だって、この歳でふだん雨合羽(レインコート)って、ダサいじゃん。長靴も同様(女性のファッショナブルな品は除く)。
とここで、懐かしき大学生時代にフランス人の留学生が口にしたことをふいに思い出した。 曰く「ビニール傘使うなんてセンスないよ。フランスでは普通使わないね」。
つまり、雨を防ぐにしても、見た目や身なりというものを人は意識しているはずである。ふだん雨合羽や長靴を使わないのはそのためでもあるだろうし、フランス人がビニール傘を使わないらしいのも、おそらく同じ意識からだと思われる(以下、この意識を便宜上「オシャレ意識」とする)。そもそも、今でこそ一般に普及しているが、ビニール傘はまず銀座で流行ったものであるらしい。
となると、ビニール傘は無色透明だからこそ使われているのかもしれない。おそらく「無色透明」がポイントだ。なぜなら前述したように、青色のビニール傘は取られることがなかった。
また、このオシャレ意識を念頭に考えると、現在の日本においては、派手すぎず華美でもなく、かつ地味すぎずダサいとまでも思われない。要するに、無難な傘と言えるのではないだろうか。「ビニール傘的日用雑貨」みたいなものを売りにしている無印良品の需要がそれなりにあることを思い合わせても、なんだかそんな気がしてくる。*4
あるいは、これは後日得た友人からの指摘だが、この「無色透明」であることには匿名性の要素もあるのかもしれない。
個性だとかオリジナリティーだとか一時期(…今もか?)声高に煽られていたりもしたが、人は「他人」と「自分」を区別したいと思うものであり、同時に、一方では「周りと同じ」でありたい(自分を隠したい)とも思うものである。
続いて、実験と観察編も絡めつつ見えてくるビニール傘の特性はなにか。
「雨を防ぐ」という目的が果たされ、おしゃれ意識もある程度満たしてくれる。 何度も入れ替わったりするが、その際、罪悪感や損した気分は気にするほどのものではない。代わりはいくらでもある。安価で便利。すぐ手に入る。
つまり、ビニール傘は「代替がきく」のである。
「代替がきく」とは、すなわち「取替え可能」。現代社会が論じられる際にときに耳にする言葉だ。
結
ビニール傘は、無色透明で、容易に代替がきく、だからこそ普及したのかもしれない。
また、ビニール傘は日本発という事実と、低価格・等品質が当たり前の昨今、また外国では一般的ではないらしいことも思い合わせると、日本人もしくは現代日本社会の何がしかを象徴している存在なのかもしれない。
ビニール傘でこんな仮説に至るとは…思いもよらなんだ。と、ささやかな達成感を覚えつつ、寝た。
梅雨はすぐそこ。