物理学的に言うと、神は変幻自在のギャンブラー也 『物理学と神』

 文型だったおれの理系アレルギーをふっ飛ばしてくれた一冊。

 近代科学はヨーロッパで芽を出した。当時のキリスト教徒たちは神から2つの“書物”を与えられていると考えていた。その一つは、言わずと知れた聖書である。もう一つは、“自然”。近代科学はその自然を研究することを、神の意図を理解し、神の存在証明のための作業と考えていたのだが、時代を重ねるにつれ、現在では逆に神なんていないと考えるようにさえなっていった。

 はて、どうしてこのような逆転が起こったのか。

 近代科学の成立から現代に至るまで、今ではまったく関係ないようにも思える「物理学」と「神」は、実は不即不離の関係にある。この本は、物理学の歴史に登場してきた神の姿の移り変わりを追うことによって、物理学の内実がどんなふうに変化してきたかをたどろうという試み。

 ちょっと羅列的になるけれど、神の姿がどのように変わってきたのか鳥瞰してみよう。太文字の部分が神の姿(もしくは状況)に関するところ。

【第1期】(17世紀)

 近代科学の夜明け。コペルニクスが地動説を提唱し、ガリレオが異端審問にかけられ、ニュートン万有引力の法則などを発見する。この時代ではまだ神の存在もゆるぎないものだったが、とはいえいろいろ不都合もあったので、神は人間の住む地上(地球)から無限の彼方へ追放されてしまう。その正当性を裏書したのがデカルト


【第2期】(18〜19世紀末)

 稀代の日和見主義者であったラプラス電磁気学を完成させたマクスウェルなどによって、“悪魔”が召喚される。また、熱力学(エントロピーの法則)やラヴォアジェたちによる「化学」の生誕によって、それまで1000年に亘って人々を魅了してきた永久機関錬金術が死を迎える。神は、現在で言うところの科学者たちが召喚した悪魔やパラドックスからの挑戦状を叩きつけられる


【第3期】(20世紀初頭)

 どの時代の科学もその時代がもつ技術のレベルで制限を受けるが、この頃に技術面がぐんと上がる(重厚長大な産業の隆盛)。また、科学と技術が分化すると同時に、それまではパトロンの資産や家の財産によって研究に没頭することができた“自然哲学者”が、職業としての“科学者”へと変わっていく。彼らは「原子の世界(微視的世界)」へと乗り込んでいき、プランクが数学的な便法として提唱した量子論アインシュタインが原子の世界に適用させたりして、後に光電効果相対性理論を提唱、ハイゼンベルク不確定性原理を提唱する。

 それまでの古典物理学は「あーすればこーなる」式の決定論だったが、量子論では「あーするとこーなったりどーなったりする確率はわかるが“いつ”そーなるかはわからない」という感じの確率論の世界ということが判明する。神はどうもサイコロ遊びをしているらしい


【第4期】(20世紀後半)

 物質の最小単位が原子から、原子核や電子、素粒子になっていくと共にカオスの現象が明らかとなり、バタフライ効果など複雑系の世界にも科学者たちは目を向け始める。そこで神の賭博師(ギャンブラー)という姿が露見する

 後にカオスにはストレンジアトラクターという法則があることが判明し、そこからフラクタル(大きさに対する非依存性)の世界が開かれることになる。フラクタルとは、たとえば、砂粒を写真にとって引き伸ばすとそれを岩だと言ってもわからないといった性質のことである。この発見によって、神はギャンブラーであると同時に、西洋的な神から東洋的な“八百万の神”へと変貌する(あるいは一神教の神が各地に偏在しているとも考えられる)。


【第5期】(現在)

 対象性の破れに注目が集まる。宇宙誕生の瞬間は「無」だったとするとそれは完璧な対象性だったとも言えるが、宇宙はその後、対象性を破ることで変化してきた。神は対象(平等、一様、対等、普遍)を体現する存在のはずだが、現実世界は対象性を破らないと創り出せない。とすると、神は非対称(不平等、区別、差別、特殊)な現実世界を創ることに腐心してきたと考えざるをえなくなり、神への不信がより一層強まる

 また、物理学は経済学の世界にも食指を伸ばし、株式市場や為替市場にもある一定の法則があるということに着目する。実際、アダム・スミスが言った「神の見えざる手」が働いているようなのだが、どうもギャンブラーである神の手は操作する、制御するというより、ときどきふるえているようである

 果ては人間宇宙論なるものが提唱され、一部では神の存在そのものが否定される

 ざっと見ていくと、大体こういうことになる。略歴図の中で赤字の用語・言葉は本書の中で具体的にわかりやすく説明がなされているのでご安心を。

 この本を読みながら神の姿を追っていくと、それぞれの時代の物理学の状況だけでなく、社会の権力構造や世相といった社会情勢を反映してきたこともわかってくる。裏を返せば、一見すると一般社会とは距離が置かれているようにも見える物理学という学問も、(神という存在を通して?)やっぱり社会情勢とは切り離して考えることはできないということもわかる。

 それにしても、ここ400年くらいの間、神はずいぶん忙しくその姿を変えて(変えられて)きたんだなと、ちょっと感心する。


 この本で個人的に一番おもしろいと思ったのは、「無」の話。

 アインシュタインが宇宙方程式を創案したことで宇宙の年齢を計算することもできるようになったが、その方程式ではどんなに遡っても「プランク時間」と呼ばれる時間までで、実はゼロに至ることができない。つまり、宇宙誕生の“瞬間”までは遡れないらしい。この宇宙生誕の謎を解き明かすために物理学者は「無」という概念を使って考えた。

 人はプラスのエネルギー(質量)をもつ物質しか感知できない。逆にマイナスのエネルギー(質量)であった場合、たとえ存在していても人にとっては存在していない、つまり「無」であることと同じことである。「無」っていうのは文字通り「何もないもない」ということで、物理学ではそのような物質がまったくない空間のことを「真空」と呼ぶ。

 その真空に電場という力をかけて徐々に強くしていくと、電場がある値を超えると突然、電子と陽電子(電子の反物質)が対になって生成される。どちらもプラスのエネルギー(質量)をもっていて、おれたちはそれを物として認識できる。これは何もないはずの真空から物を取り出すことができるということで、つまり、真空はいわゆる「無」ではないということである。 

 物理学者はこれを受けて、「無には、人間には感知できないが、マイナスのエネルギー(質量)が海のようにたゆたっているのではないか」「無は豊か」と考えた。

 これはあくまで仮定の話(仮説)だけど、ありえなくはなさそうだし、なんかおもしろい。

 というのも、「無」という言葉はたしかに「何もない」という意味ではあるものの、「無数」「無限」「無尽蔵」といった熟語になると逆に「ものすんんんごくたくさん!」という意味にもなる。中国かどこかには「無は豊かである」という考え方があるらしいとなにかで聞いたか読んだおぼえもある。

 不思議。


 前述したように、おれは一年ほど前にこの本をたまたま手にとって読んで、そのとき頭の中にあった「文型」と「理系」という区別をしていた“遮蔽物”が取り払われた。文化史の単発知識だったものがどんどん繋がっていく快感も味わえるので、世界史が好きだったなんて人にはとくにオススメ。



物理学と神 (集英社新書)

物理学と神 (集英社新書)