自然はどこに?/サンタクロースの落し物 『灰色の輝ける贈り物』『冬の犬』

 自然が遠くなった。とぼやく人がときどきいるけれど、その“自然”ってなんだろう。

 2・3ヶ月前の早朝、といっても冬だったのでまだ薄暗い明け方、犬の散歩に出かけたときのこと。近くの線路の下にある小さなトンネルをくぐるとき、突然、犬が何かに喰らいついた。暗かったのではじめは何かわからなかったが、目を凝らしてみるとタヌキの死骸だった。我が家は山の斜面を切り崩して作られた閑静な住宅街の麓にあり、タヌキをよく目にする。食べ物を求めて山(といっても頂上付近に申し訳程度に小さな森とも言えない森があるだけだが)から降りてきているのだろうと思われるが、それはそれで、食べ物があるところに動物が進出してくるのはごく自然なことであり、それほど驚くべきことでもない。

 けれど、この死骸をどうしたらよいのか考えたときに、なんとんなく違和感…不自然さを感じた。どこかに埋めるにしても、どこにでも埋めてよいというわけではないだろう。公私に関係なく土地は誰かの名前で登記されている(誰の土地かも俄かにはわからない)。下手すると「不法投棄」扱いである。また一方で、埋められるほど潤沢な土が近くにない。火葬しようにも、ダイオキシンや火事を防止するためという名目でこの一帯は焚火を起こすといったことも禁じられている。結局、近所のおじさんの助言に従い、市に問い合わせて回収、処理してもらうことになった。少なくともおれが住んでいる地域においては動物の死骸に対して「回収」や「処理」という言葉がしっくりくる。

 自然って遠いんだなと、このとき思ったのだった。地面はコンクリートアスファルトで塗り固められ、土の上にはプラスチックやビニールがいつまでも残る。「土に還る」というごく自然なことが身近に成立しえない。人は病院のベッドの上で死を迎えることが一般的になった。動物と「触れ合う」ときは動物園や水族館へ足を運ぶもの。そういう“不自然”とも言えなくはない環境で暮らしているんだと痛感した。「自然が遠い」というときの“自然”は、だから、「緑が減った」というときの“緑”ももちろんそうだろうが、その奥にある「自然の循環(サイクル)」とか「自然のエネルギー(力)」そのもののような気もする。事実は「遠くなった」ではなく「遠ざけた」だろうけど。

 自然を懐かしむ人が田園風景に郷愁を感じたりすることに対して、「田園だってそれ自体は人工物なんだから自然とは言えない」と批判・嘲笑する人もいる。なるほどなと思ったこともあったが、上記のようなおれ個人の感覚からすれば、田園風景や、田園で暮らすということはやはり自然が身近にあることではないかと思い直した。農業あるいは牧畜、漁業といった生業は、今はビニール栽培とか養殖という手段がありはしても、自然の循環(その恵みと抗し難い脅威)の中で営まれていることに変わりはないから。

 前置きが長くしかも影がかったものになってしまったが、仕方がない。なぜならおれはペシミスト


 自然と共に生きるということがどういうことか教えてくれる作家がいる。カナダのアリステア・マクラウド。彼は処女作を発表してから30〜40年ほどの間で、20篇ほどの短篇と1篇の長篇しか書いていない寡黙な作家である。

 彼が書く小説の舞台はほぼ全て、カナダは東端、ケープ・ブレトン島。描かれているのは漁師や炭鉱夫、樵、燈台守といった人々、あるいはそれらを生業としている世代の子供や孫たち。海や岩、森、動物たちとと共に生きる人たちの生活ぶりは一見すると貧しく地道で、荒波や吹雪のような自然の猛威といった過酷さとも向かい合わなくてはならないが、かれらは自分たちの生き方に自負や誇りを持っている。その一方で時代の移り変わりというものがあり、子供や孫の世代では本人や親が望むと望まざるとに関係なく、人はトロントモントリオール、あるいはアメリカへと移動しホワイトカラー化するようになっていく。

 決して劇的な人間ドラマがあるわけではなく、主題も話もいたって素朴。古典的である。親と子供の間にあるギャップがもたらす葛藤や愛惜、苛立ちとか、子供が自立あるいは大人への階段を踏み出す際に感じる痛みとか。しかしマクラウドの短篇を読むと、澄んだ筆致で語られるさまざまな話には説教臭さなどなく、この主題が古典的ではあってもイコール古臭いということではない、ということがわかる。

 ちなみに澄んだ筆致とはいえ、きれいな描写ばかりというわけでもない。というより、炭鉱事故で木っ端微塵になった人の身体、家畜の屠殺(血の生温かさや断末魔の鳴き声)、牛の種付けの現場(精液の悪臭)など、グロテスクで生々しい描写も随所で目にすることになる。ただ、自然と共に生きるってそういうことでもあるのかもしれず、臭いものに蓋をするのが必ずしも正しいことではなくて、目を背けたくとも直視すべきこともある。その上に生があるのだから、「自然が近い」ということは、生(なま)の“死”や“性”が身近にあるということも意味するのかもしれない。

 マクラウドの筆には温かさもある。それは無学ではあっても己の身体と自然と共に生きる親たちの姿に対する共感を一方的に押し付けるわけではなく、その子供や孫たちの生き方に対しても肯定的に受けとめているように感じられるからだ。人は生きていく上で、置かれている環境や時代は違っても同じような苦しみや悲しみ、悩み、幸福感や喜びを感じるのであって、「生きる」という意味で同じだという抱擁感がある。『すべてのものに季節がある』より―

誰でもみんな、去ってゆく。―でも、嘆くことはない。よいことを残してゆくんだから。

 そして、彼にとっては残したい、あるいはもはや失われつつあるけど伝えようとせずにはいられないというのがゲール文化なのだろう。最近の短篇になるとこのゲール文化の存在感が大きくなる。ときにその想いの強さがさらっと書かれていて、ハッとしたりする。『島』より―

人々は「伝統を守る」ことに対して、この伝統特有の一面を守るのが自分ではないかぎり、関心をもっていた。

 ケープ・ブレトン島に住む人々の祖先はスコットランドからの入植者で、代々ゲール語の歌などが歌い継がれてきたりしたけれど、近代化が進んむ(進んだ)世界中の至るところで起こっているのと同様に、この島でもその文化や言葉が急速に失われつつあるらしい。マクラウドが描く人々はちょうどゲール語が話せる人とそうでない人とが混在するようになった世代でもある。文化や伝統、歴史は、何世代にも亘って受け継がれてゆく中で形成されたものであり、また多くの人々がそれを共通の拠り所として生きる支えにしてきたものでもある。文化や伝統と呼ばれるものは、豊饒とか脅威とかイメージはなんであっても自然と大きく関わっているものなのかもしれない。自然と共に生きていく上で編み出してきたものでもあるから、「自然が遠くなった」現代にその有効性はほとんどなくなったということは必然とも考えられる。などと愚考した。

 マクラウドの作品は、ついつい、ゆっくり読んでしまう。どの話も味わい深いからだ。そしてそれゆえに、ある父親の「(煙草をやめるのは…)うん、つらかったよ、アレックス」(『帰郷』)とか、ある若者の「たまんないよなあ、胸がはりさけそうだぜ」(『広大な闇』)とか、普通ならなんてことのない一言や一文が胸を打つことも多々ある…大多数の人にとっては、たとえ望んだとしても、「あの頃」のような生き方に戻るのは難しい。生きるということが自然や動物たちと背中合わせだった頃には。

 もしくは、身体を動かすことそれ自体が生きるということとほとんど同義でもあった頃には。というのも、マクラウドの作品で描かれる漁師や炭鉱夫たちを見ていると、「身体を動かす」ということがそのまま「生きる」ことなのだと思わせるものがある。自然と共に生きるということは身体と共に生きるということで、人生について語ることはその人の身体について語ることでもあるらしい。思えば、身体もいわば“内なる自然”。今だと身体を動かすことはふつう「健康のため」「気分転換のため」、ウォーキングとかジョギング・ランニングとカタカナで呼ばれる「スポーツ」であり、それはあくまで人生の補い。

 昔と今のどちらがよいかということではなく、昔はそうで、今はこうだということ。そしてどちらも同じ「人」についての話。この2冊に収められた短篇の中には、自然の循環と共に生きていた人たちがいる。自然の循環から離れていった人たちがいる。


 非楽観的かつ3年ぶりに風邪を引いて弱ったおれの手にかかるとトーンが暗くこの短篇集の魅力を削いでしまったような気もするけれど、彼の作品は、オプチミストもペシミストも受け入れる懐の深さをもっている。静かな生の賛歌に溢れ、同時に、知らないはずなのになぜかたまらなく懐かしさを誘う、素朴ながらも他とは変えがたい短篇集だ。吉田健一は言った―「優れた文学にはその根底に生の喜びがあるものである」と。



灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)

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冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)

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