天秤と風船 (’02年末の彼の地 『イラクの小さな橋を渡って』)

 「大量破壊兵器保有」を口実にイラク侵攻が行われたのは、2003年。あの侵攻であっという間にフセイン政権は崩壊したがその後、現在あの国がどういう状況になっているのか知っている日本人はどれくらいいるだろう。というかイラクがどこにあるのか、わかっている人はどのくらい…?

 ティグリフ川とユーフラテス川。メソポタミア文明と言えば古代四大文明の一つとして誰もが知っている。その地に、今で言う、イラクという国がある。

 この本は著者の池澤夏樹イラク侵攻の直前だった2002年の末に、かの地を訪れ、そのとき見たものや聞いたこと、感じたり考えたりしたことなどを書き、それに写真家・映画監督の本橋誠一の写真を併録した、いわば写真詩集のような一冊。これを読んだのは少し前のことだが、その時ある一節で、ふいにドンと胸を殴られたような衝撃を覚えた。池澤氏が現地で親しくなったA氏が出てくるところ。

A氏は、自分自身の半生を考えてみても、自己形成にもっとも大事な十年あまりを戦争やら経済制裁やらで無駄にしてしまった、と言う。そうでなければ今と違う自分になっていたと思う。だから今回もまた戦争かと嘆かないではないけれど、そう言って耐えている間に歳月は過ぎ、何十年か後にはアメリカ国内の好戦的な連中も力を失って、平和なイラクの日々が来るのだろう。自分の子供たちの世代にはもう少し明るい時代が約束されているのならばいいのだが。


 1990年にイラン・イラク戦争。’91年に湾岸戦争。その後、国連による「経済制裁」という名の禁輸が約10年間。2003年、イラク侵攻。ちょっと乱暴だがここ20年間のイラクの主だった出来事を並べると、こうなる。

 ちなみに、経済制裁による食料や水、医薬品不足が起こったこの時期、イラク国内では乳児死亡率が5倍になった。2001年に国連が発表したレポートによると、経済制裁の影響による死者は150万人、そのうち62万人が5歳以下の子供。

 翻って、自分。イラク経済制裁が行われている時期とちょうど同じ頃、おれは小学生までを過ごした。9.11とアフガンやイラクに対する侵攻は中学生の頃に起きた。そのとき世界情勢と呼ばれるものが今までのそれとは何かが変わった、なんてことを漠然と感じはしたが、それはそれ、自分とは関係のない「外」の話だった。高校生も半ば頃にはその「外」のことが自分と無関係でもないらしいと思いはじめていたとはいえ、そうは言ってもやはり、あくまで「外」の話だった。

 ある意味、A氏が望んでいたような「自己形成にもっとも大事な十年あまり」をA氏が望んでいたような状況で過ごせていた、ということなのかもしれない。

 けれど、その自分は今、どうだろうか…A氏のほうが、一人の人間としてよっぽど大きいように感じた。失われた10年・15年とか、ゆとり教育とか、就職氷河期とか…(ゆとり教育に関しては恨めしさを拭えないが)A氏の言に照らすと、だから?とも思えてしまう。A氏の一節を読んだとき、恵まれた状況で安穏と過ごすことができた自分は今まで一体なにをして、なにを学んできたのだろうかと、自問せずにはいられなかった。


 自分がイラク人の一人だと想像してみる。その自分はどんな人だろうか。独裁者、外交官、軍事顧問官、石油会社の重役…どれも違う。“普通の人”である自分を想像する。著者は2週間だけだったが、現地を訪れ、その普通の人々と話したり、普通の人々の生活ぶりを垣間見た。人々の明るさや親しみやすさ、食べ物の豊富さと質の良さなど、戦争が始まるかもしれないのに(意外にも)普通なイラク人たちの様子を綴っていく。あくまで池澤氏の目を通して見たイラクであるとはいえ、そういう人たちの頭の上に、後に爆弾が落とされた。写真に写っている人たちの中にはそのときに死んでしまった人たちも少なからずいることだろうと思う。

 「命は天秤で量ることはできない」という比喩的な言い方がある。その通りかもしれない。しかしそうできないと言っている裏には、仮に量ってみたとしても「釣り合う」という願望や信仰があるからなのかもしれない。おれは仮に釣り合うとしても、それは秤がそうなるようにもともと調節されているから、なのではないかと疑ってしまう。命を載せていない状態の秤を見ればどちらかに傾いている。下がっている側に「軽い」命、上がっている側に「重い」命を載せれば、見事に釣り合う。そうなるように調節された秤。そういう仕掛け。

 こういう考え方が通るとして、では、「軽い」のはどういう命か。「戦争や紛争時には命が軽くなる」などと言ったりするが、それも違うのかもしれないと思う。A氏の一節を読んだとき、A氏や、同じような状況下にいる人々の命に比しておれの命はそんなに重くはなく、同じ重さだとは思えなかった。おれが過ごしてきた「平和」は空調にかけられて過ごしやすくした平和ではないのだろうか。そういう「平和」の中で生きてきた命はヘリウムで膨らまされた風船ように自意識が膨張し、中はほとんど空っぽで、軽い。ほとんど空っぽな「軽い」なのに、それを「重い」と無自覚に勘違いして過剰に価値を置こうとしているのであれば、それは違う気がした。


 風船的存在の耐えられない軽さ。の重さ。


 命そのものはすべて尊い。とは(かろうじて)思えても、今のおれには、命はみんな平等だとか同等の価値をもつだとか、そんなふうには素直に思えないし、言えない。これをどう受け止めるべきなのか、だからどうしたらよいのか、そんなことはわからない…

 でも、中がヘリウムだろうが何であろうが、軽いのであれば軽いなりに、空中に高く浮かび上がることができる。それは「広い眺め」「遠景」を望めるということであって、風船は「風」の「船」。とりあえず今は、できるだけ遠くまで見たいと思う。

 浮かび上がりすぎると破裂するけど。



イラクの小さな橋を渡って

イラクの小さな橋を渡って