『第四間氷期』 再読―断絶した未来

雰囲気や成り行きで、ある男女がセックスする。小説を読んでいるとそういうことはよくあって、ゴム持ってたの?とか、病気こわくないの?とか思ったりもするが、ともかくその結果、受精したとする。そのとき問題に成りうるのが「子どもを生むか生まないか」。

その気はなかったのにデキてしまった、というようなことであれば、「堕胎」が選択肢として浮かんでくる。しかし、たとえば倫理的、道徳的に、堕胎は許されるのかどうか。主人公の勝見博士の助手である和田は、「生きるってことが、(中略)それ自身それほど大事なことなら、生まれるはずの子供を堕ろすなんてことは、とてもできませんわね」と言う。

あるいは、殺人は悪いことである。それはなぜだろう。この小説に出てくる“ある人物”は、「それが肉体を奪うことではなく、未来を奪うからなんだ。われわれがよく、命がおしいという…考えてみれば、その命とは、要するに未来のことなんだ」と言っている。

堕胎にも殺人にも、その判断基準として「未来」という要素がある。では、和田の言。「本当の自分の未来を知ってしまってからでも、やはり生きたいと思えるかしら…」


勝見博士は、予言機械を発明した。ただし研究所は政府の管轄下にあり、上からは「政治的な予言はしないように」と言われていた。そこで、勝見博士と助手の頼木は、とあるヒントによって思いつき、無作為に選んだ一般人の私的予言を試みることにする。ところが、目をつけて尾行していた男が情婦のアパートで殺されてしまったことをはじめとして、勝見博士はなぜかどんどん追い込まれていく(ように見える)。

序盤はミステリ仕立てである。が、中盤で数々の謎が繋がっていくにつれて、ことが解決するどころか、その先に未来という“異物”が少しづつ、しかし忽然と姿を見せはじめる。「偶然はつねに単独であらわれてこそ偶然なのだ」。勝見博士は予言機械を発明はしたが、彼にとって大切なのは未来の予言ではなく予言機械であって、「先生は予言(未来)を信じられないのではなく、信じたくないだけなんですよ」と頼木に喝破される。


未来は肯定的か否定的か、言い換えれば、明るいか暗いか、という問いがある。でも果たして、現在という立脚点から、そんなふうに未来に対して判定を下すことはできるのだろうか。たとえば、室町時代の人間が現代にタイムスリップしてきて、今の世の中を良いか悪いか判断できるだろうか…おそらく、できない。価値基準がまったく違うから。するとその場合、裁かれているのはむしろ室町時代の人間であって、裁く側にいるのは未来ではないのか。

と考えた作者の安部公房は、この小説を「未来が現実を裁く」という視点で書いている。「真の未来は、現在の日常的連続感から断絶したところにある」と。勝見博士からすれば、現在の連続感の先にあるとは思えない未来が、日常に闖入してくる。

その未来の姿を、数日前に『種の起源』を読んでいる時ふと連想されて思い出したのが、再読のきっかけ。安部公房がこの作品を執筆していたとき、その机かなにかの傍らには『種の起源』が載っかっていたにちがいない。題名が『第四間氷期』となっているように地質学と、進化理論に代表される生物学とで、作中の未来のリアリティが生々しい。

生物学者たちにとって「『種の起源』はアイデアの宝庫」だと言ったけど、べつに生物学者に限ったことでもないようだ。ダーウィンは「過去」を扱い、安部公房はそこに「未来」をも持ち込んだんだな。と一人思った。


日常で「未来」という言葉を人が使うとき、おそらく、「“自分”がまだ生きているだろうと思われる先」までを念頭に使っている。それは「未来」というより、むしろ「将来」。未来は、現在今ある日常的連続感の先にある、とふつうは考える。だから「断絶したところ」にある未来と言われても、ピンとこない人もいるかもしれない。

でも、たとえば子供がいる場合は、その「将来」が少し延長されるかもしれない。「(“自分”は死んでいるが)子供は生きているだろうと思われる先」くらいまでか。そこまではかろうじて「将来」と言えても、その子供にも子供ができた場合、そこからまた延長される。子供の子供、つまり孫が老人なったときの「現在」は、祖父母である“自分”にとっては「未来」だろう。一見、連続的に発生したように思えるその未来は、しかし、途中から“自分”が不在になるわけだから、実際にはすでに「断絶したところ」にある。

その「断絶したところ」にある未来が、この小説では「変えられない未来」として描かれている。なぜなら、その予言が知られた際に起こることも考慮して、それを下敷きに何度も予言を繰り返す、という手続きを踏んだ上での未来だから。そして、そこに現れる未来の人間は、もはやホモ・サピエンスではない。その未来や変化は、勝見博士自身が関わっているし、しかしだからといってどのような行動に出ても結果は変わらないし、勝見博士自身の未来も変わらない。変えられない。

未来が「変わらない」「変えられない」ということは、一般に言う未来は「ない」ということと同義なのかもしれない。未来がそういうものだと知ったとしても、人は「生きたい」と思えるのだろうか。夢は、希望は、持てるんだろうか。未来の有無に関係なく「生きることは大事なこと」だと考えられるんだろうか。

信じがたい(否、信じたくない)未来をもはや否定できなくなったとき、勝見博士の目に映る現在・日常―今は、それ以前とはまったく質を異にするものになる。「今が大事」「今を生きる」とよく聞くけれど、大抵のそれは、明るいか暗いかにかかわらず、自分の希望や不安や欲望といったものを投影できる(一応)未知数である未来・将来ありきの「今」ではないかと思う。


未来があるからこそ「今がある」とも言えるが、反面、未来そのものは残酷なのかもしれない。



第四間氷期 (新潮文庫)

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