言語と思考の関係―南洋の祖先たちの海洋渡航は実は計画的だったのでは・・・?

 図書館をぷらぷらしているとき、『日経サイエンス』(2011年5月号)という雑誌をなんとはなしに手に取りパラパラ捲っていたところ、「言語で変わる思考」と題されたおもしろい記事を見つけた。

 「言語の違いと人々の思考の違いには深い関係がある」

 なんとなく当たり前のことのようだが、科学的に実証されはじめたのはここ10年くらいの話らしい。執筆者はL・ボロディツキーという認知心理学を専門にしている女性だった。


 北オーストラリアはヨーク岬の西の端に、ポーンプラーヴという名の小さなアボリジニの集落がある。ここで話されている(母語となっている)のは、クウク・ザアヨッレ語という言語である。

 この言語の特徴は、「右」「左」のような相対的な位置の概念ないし言葉がなく、「東」「西」のように絶対的な方位で方向を示すこと。たとえば、「僕の右に妹がいる」ではなくて、「僕の西側に妹がいる」という言い方をする。この言語を日常的に使っている人々は、たとえ見知らぬ景色や馴染みのない建物の内部にあっても、方角を間違えることはないらしい。逆に、「右」「左」といった相対的な概念を主に扱う言語の話者は、馴染み深い景色でも方位がわからないことが多い(というには身に覚えもある)。

 時間の捉え方も言語によって変わる。

 一般に英語話者は、「未来は先(前)」「過去は後ろ」といった捉え方をするが、南アンデスアイマラ後を話す人々は、これとはま逆で、「過去は前」「未来は後ろ」と捉えている。

 この違いが、挙措動作にもあらわれるというのだ。たとえば、英語話者は、未来・将来のことを話すときは心もち前傾姿勢になり、過去のことを話すときは身体を後ろに少し反らせる。アイマラ語話者の場合は、その逆になる。

 あるいは、時間の流れ。英語では「左→右」、ヘブライ語では「右→左」と捉えているが、英語話者とヘブライ語話者とにそれぞれ「赤ちゃん」「成人」「老人」の絵が描かれたカードを渡し、時系列に並べるように指示すると、この捉え方と同じ向きに並べる。前述したクウク・ザアヨッレ語話者の場合は、たとえその人自身がどの方角を向いていようが、常に「東→西」に並べるらしい(太陽や月が進む方角が関係しているのかしら)。もしかすると、「重ねる」と同じになる並べ方をする言語もあるかもしれない。


 話は少し逸れるが、太平洋に点在している島々に辿りついたのは、ラテンアメリカではなく東南アジアやオセアニアにいた人々で、方位磁石とか羅針盤といった道具が生まれる大分前のことだったらしい。ということを思い合わせると、大洋に乗り出した人々は、クウク・ザアヨッレ語を話すアボリジニのような驚異的な(とも思える)方向感覚をもっていたのかもしれない。とすると、無謀な行為でもって広がっていったというよりは、この方向感覚を活かすことで、実はけっこう計画的にだんだん“広げて”いったのではないか。なんて夢想した。


 ここでは方角と時間の例をとったが、他にも記憶(の仕方)への影響や、学習のしやすさの違い、色の識別能力の違い、話す言語の切り替えによって変わるバイリンガルの無意識的偏見、等々、興味深い実験・研究結果が紹介されていた。

 言語の違いが思考の違いを作り出しているのか。それとも、思考の違いが言語の違いを作り出しているのか。おそらく、両方だろう。

 「人々が異なる言語を話しているからといって考え方が異なるとは限らない」とボロディツキー氏は断りつつも、以下のようなことを書いていた。少し長いが引用しておこう。

人間の知識を特徴づける性質はその適応性、つまり変化する目的と環境に合わせて世界に関する概念を再編成する能力だ。この柔軟さの結果として世界中に多様な言語が生まれた。それぞれの言語は独自の認知手段を提供し、その文化の中で数千年にわたって開発されてきた知識と世界観を内包している。そして言語はそれぞれが認識とカテゴリー分けの仕方、世界に意味を与える仕方を含んでおり、それらは私たちの祖先によって開発され研ぎ澄まされてきたかけがえのないガイドブックだ。

 言わずもがなかもしれないが、注目すべきは言語間の「優劣」ではなく、「共通点」や「差異」である。


★L・ボロディツキーの関連記事

「文化の隠れた影響力」
「ロスト・イン・トランスレーション―言語は世界観さえ左右する」