向こう側にウサギは何を見たのか 『真昼のプリニウス』

 「見た目はチワワで、中身はドーベルマン」というのか、けっこう過激な小説だ。

 『千の顔をもつ英雄』のエントリーで「今の人には物語が足りないんじゃないか」という話をちらっとしたけど、この小説はこれに正面からぶつかってくる。「反対だよ。何でもかんでも物語や神話にしてどうする」と。

 ここに言う「物語」は、一般に言うそれも含めた、でももっと広い意味での「物語」。


 火山学者の(30歳前後と思われる)芳村頼子は、弟の友人であるテレビ局に勤める門田からある構想を聞かされる。ダイヤルすると無作為に選ばれた短いお話を聴けるという電話サービス「シェヘラザード」(電話サービスなのは単に、この小説が発表された当時にはまだインターネットもケータイも普及していなかったからだろう)。ピッポッパとやる時に何の話が出てくるかわからない点が大切で、だから検索もできないようにする。検索できないということは実用目的ではないということ。「目的がない」というのがミソである。

 門田がこの構想を得たのは、「人はこの世界を細分化し分類してきた。もう分類はいい(うんざりだ)」という気持ちを誰しも持っているのではないかという考えから。カテゴリー分け、細分化される前のあらゆるものが渾沌とある状態の世界を、雑然とした印象のままに、隙間から少しだけ見せる。つまり百科事典の原理の裏返し―それが「シェヘラザード」である。内容は、詩的かつ抽象的なコントや神話の一片、誰か実在の人物のエピソード、自然科学の知見、モノローグ、風景の描写etc.と多岐にわたらせるつもりだと言う。

 たとえば、こんな話が流れる。

これは天明3年(1783年)に起きた、浅間山の大噴火のお話です。3ヶ月ほど前から徐々に活動を活発化させていた浅間山は、7月に(西暦では8月に)入って、とうとう大噴火・大爆発を起こしました。地中深くから噴き上げられたマグマは、溶岩流や火砕流となって、3日間で、近隣の森や川や村、動物、植物、畑や人々を呑み込んでゆきました。マグマが噴き上がるときには大量の水蒸気が発生し、吹き上げられた塵や微粒子が太陽の光を遮り、日本では天候不順、冷害によって、農作物に甚大な被害を及ぼしました。これが「天明の大飢饉」につながったと言われています。また、成層圏まで上がった微粒子は、そのままジェット気流に乗って地球を周り、この後しばらく地球全体を日照不足の状態にしました。それが、フランス革命が起きる原因ともなった不作の遠因の一つだとも言われています。おしまい。

 これは「自然科学の知見」の類だが、こんな感じの「物語」が流れるということ(ちなみに上記の大噴火の影響は、現在では浅間山ではなくアイスランドのラカ火山のものとされているらしい)。思えば同じようなものを、テレビのクイズや新聞のコラム、週刊誌の埋め草としてよく目にする。

 はじめ門田の構想を聴いたとき、あ、これおもしろいかも、とおれは思った。頼子も関心をもち、つきましては火山学者の立場からお話を作ってもらえないだろうか、という門田の申し出を一応考えてみることにする。


 プロットのメインは頼子の動向にある。そして、「人はなぜ物語るのか」というのが大きなテーマとなってくる(さらにもう一つ、大きなテーマが控えている)。はじめ頼子は「シェヘラザード」に興味をもったが、途中からだんだん、言葉で語ること、説明すること、ひいては物語に対して懐疑的になっていく。

 たとえば「雲がシャワーホースの頭の部分だとして、そこから水が噴射されるようにして雨が降る」と説明したとする。このように比喩を使って説明するとわかりやすくなったりイメージしやすくなったりするし、場合によってはこうする以外に方法がないこともある。しかし、本当にこう言ってしまってよいのか。「シャワーの頭」という比喩を使ったことで「雲」は「シャワーの頭」に近くなって、「雲」そのものの姿を失う。「シャワーの頭」のほうがイメージとして強くなる。「言葉に依れば依るほど、実態は希薄になり、それを見るものは幻影の中へ一歩踏み込む。(中略)―(事物)そのものから遠のくのではないか」。

 また頼子の恋人(?)でメキシコで写真を撮っている壮伍は、頼子に宛てた手紙の中で「言葉にすることで悔いを覚える」と吐露する。

ホテルのプールサイドの鋳鉄のテーブルで一字ずつ文章を書いていると、まだ柔らかい現実の表面を言葉で無理に固めてしまうようで、本当にそう書いてしまっていいのか、大丈夫なのかという問いが自分の中から湧いてしまうのをどうしようもない。(中略)本当はこんなものではなかったという思いがつきまとう。

 ここを読んで『トニオ・クレーゲル』のトニオも同じようなことを言っていたなと思い当たった。「言葉は、手取り早く浅薄に感情を片付けてしまう」「文学者はあなたの案件(思い出)を、解剖し公式化し名を指し言い現わし、語らしめてくれるでしょう。そのこと全体を、永久に片付けて無意味にしてしまって…」(カッコはおれ)とリザヴェータに漏らしていた。

 ボキャブラリーが豊富だったり表現力が優れていたりするわけではないけれど、こういう感覚はおれにも少し憶えがある。うまい言葉が見つからなくて、あるいは慣用句などが思い出せなくてイライラすることもあれば、なんにでも名前をつけたがるというか、言葉を当てはめようと、説明しようとしてしまうことに自分でうんざりすることもある。壮伍やトニオが言っていることはなんとなくわかる。

 べつの譬えを出してみよう(すこしズレるが)。BGMというのはクラシックのようなインストゥルメンタル、あるいは洋楽が好まれる。それもベートーベンの「第九」とかへヴィメタみたいなものではなくて、さりげなく流れてゆくような音楽。日本語の歌詞が付いた曲を避けるのはやっぱり意識せずとも言葉を聞き取れてしまうからだろう。歌詞付きの洋楽が平気なのは、言葉が言葉として耳に入らず、音として入ってくるから。BGMの場合、言葉は邪魔者なのだ。


 壮伍は前述と同じ手紙の中で、「僕が思っていることを君に伝えたいと思う。会って話したいと思う。でも、なぜ人は伝えたがるのだろうか」というような疑問を書いている。さて、どうしてなのか。天明浅間山噴火を実際に体験したハツという女性の手記を頼子は読み、感心するも、疑問を抱く。「なぜ人は物語るのか、実際には散発的な感情と反応の羅列に過ぎないはずのものを(脈絡のある時間の流れ、整合性の目立つ)一つの連続とした物語として語りたがるのはなぜなのか」と。後に彼女は架空のハツと架空の対話をして、「あなたにあの手記を書かせたものは一体何なの」とハツに問いかける。

なぜ、手記を書いたのか。(中略)それは、怖いからです。

書かれた言葉、話された物語は手で扱うことができる。(中略)後々になってから言葉にすれば、それは目の前にあって、掌に乗せることもできます。とてもとても怖かったけれど、そこに書かれた以上には恐ろしくなかった。そういうことが言えると思います。

 ハツはこのように答えた。つまり、フリオ・コルタサルイサベル・アジェンデの言う「悪魔祓い」、あるいは「精進落とし」をするような心理に近いのかもしれない。この場合「伝えたい」という欲求以前の衝動がある。ハツが手記を書いたのは、トニオの言う「言葉は感情を殺す」という現象を無意識に逆手に取った格好ではないだろうか。ハツの答えを受けて、頼子は―「世界のザラザラした荒い表面に、人は言葉と物語をかぶせて凌ぎやすくしてきたのでしょう。そういう方法で、人は圧倒的に強い自然界となんとか渡り合ってきたのでしょう」

 しかし、頼子はハツの言葉に納得はしても、「物語ること」そのものを必ずしも肯定できない。なぜなら、人が災害のことや他人の不幸に対して身を乗り出す理由は、おそらく「自分は安全なところにいる」という安堵を求めているということであり、またその話を聞くことで驚愕したり興奮したりすることで生の実感もある程度得られるからでもある。「人はずるいから危険なしに高揚感だけを盗もうとする」。生き残った人がいると知って安心して油断したりもする。

 人は、“世界”とどう向き合っていくべきだろうか。

 門田が「シェヘラザード」と同じ原理で、そこに易か何かを使った占い的要素を付け加えた「キスメット」(トルコ語で「運命」の意)の構想を進めていこうとする一方で、科学者である頼子は、物語や神話のない物ないし場所を求めるようになってゆく。壮伍に宛てた手紙の中で「このところ自分に関することが自分の意思や論理以外の要素で決まるのが心地良く思えるのです」と語る。大学内のプールで戸井田教授が言ったこと―物質世界の外の理屈はいらない、「泳ぐのはいい。自分の身体の中をまるで金魚鉢をのぞくように見ているのがいい」という言葉に共感を抱く。

 易者である神崎は「あっちに世界があって、こっちに人がいて、それから、人と世界の間で何か付き合いや交渉が起こるのではない。人があるから世界があると考えられないか」と、世界がそれ自体勝手に存在しているわけではない、同じものを見ていても人によって見え方はちがうと言う。門田は「世界そのものなんて、ないんですよ。世界というのがそのまま神話なんです」「科学こそ最も権威ある神話ではないですか?自然に対してきわめて組織的な攻撃では?」と迫る。科学者は物語とすっかり無縁なのかと。

 2人の言葉に対して、頼子は否定的な態度を示す。世界そのものはある。世界は、既知の情報や知識だけで組み立てられた教科書ではない。現実の世界ではわかっていることはほんの少しで、わからないものばかりでできている。世界は断片の寄せ集めではない。

 しかし易そのものの思想は否定していない(というか否定も肯定もできないよう)。頼子は、深く考えることを止めて、頭の中を言葉や想念が流れいくのを無視して、筮竹(ぜいちく)の意思に従ってみることにする…浅間山へ向かう。


 …うん、長い。よくしゃべる奴だな。こうやって筋道を追っていったところで、言いたいことや気になることが遠のいていく感じがする。それこそ頼子じゃないけど、

最近は山が生きて見えないのです。もっと正確に言うと、自分たちが作った火山のモデルなり理論なり数式なりの中には全然生きた火山が入っていない。わたしたちはまったく見当違いの方向を見ている。そういう気がするのです。

 という感じ。
 
 反対に、読むときも似たようなもので、「君の読むところのものは、その人の糟粕(残り滓)のみ」という言葉が『荘子』にはある。


 しかし人はやっぱり、何かを伝えようとする。物語を求めるし、作ろうとする。

 ジム・ジャームッシュ監督『リミッツ・オブ・コントロール』という映画があって、おれはけっこう好きなのだが、普通に観るとあれ、退屈である。なぜならストーリーと呼べるものがないから。「孤独な男」という殺し屋が、1つの町で仲間らしき登場人物の一人と内容も脈絡もない話を訥々として、次の町へ移動して、そこでまた別の1人と訥々と話し、次の町へ行く。その繰り返し。ただそれだけ。登場人物たちがそれぞれに話すことに何の意味も因果関係もないし、ストーリーがないから眠くなる。実際はじめて観たときは寝てしまった。

 でも、エンドクレジットの最後に出てきた言葉を見て、上映終了後に、映画の中のイメージとか言葉を自分の中で勝手に連想させたり深読みしたりしていたところ、ふと繋がるところができたりした。なんだか愉快で再観賞した。観る度に何かを発見したり繋がったりするし、観る毎におもしろくなった。それは監督の意図やメッセージを読み取れていったということではなく、思えば、この映画を観る度におれがしていたのは、物語がないところに、断片を拾ってきて自分で物語を創り上げていった。そういうことかもしれない。

 科学だって、これにちかい。知っていること、わかっていることを集めて理論を作りあげる、あるいは仮説を設定する。門田が「科学こそ神話」だと言ったのはそういうことだ。頼子もその点は認めつつも、だからと言って世界のすべてを説明できるわけではない、「世界そのものが神話」というのは違うと。科学の知識を突き詰めていった先にSFが生まれる。科学という神話では説明できない・捉えられない部分がこの世界にはあって、だからSFが生まれてくる余地があり、しかしSFはこの世界ではない。

 人がいかに物語を求めるかというのは、自然そのものや動物を被写体としたドキュメンタリー作品を観てもわかる。たとえば『ディープブルー』や『アース』のような映画、あれはちょびっとだけナビゲーターの声で(もしくはテロップで)説明が付されるが、基本的には動物たちが走ったり泳いだり草を食んだりするだけで、そこにはストーリーがない。90分〜120分の枠をただ観ていても飽きる人が大多数なのだろう。そこで製作側は工夫する―音楽を流すのだ。それも劇的な部分は劇的な、穏やかな部分は穏やかな、というようにけっこうステレオタイプな選曲でもって音楽を流す。おれはあれが疎ましくて、べつに波の音とか風の音とか動物の鳴き声だけでもよいじゃん、眠くなってよいじゃんと思うのだが、とにかく、あれは音楽でストーリーを作っているようなものであり、ストーリー・物語は何も言葉だけで紡がれるものではないのかもしれない。


 最も重大な矛盾というかジレンマというか…言葉や物語のない“あるがままの世界”を求めて向かってゆく頼子を、読み手は小説というかたちで追っている(この小説は頼子の一人称語りでは成立しえない)。おれなどまさにこの場で、「物語」をキーワードに仕立てて長々と流れを辿リ直したり(再構築?)もしている。「言葉」や「物語」が憑いてまわってくる。うまく切捨てができない。

 この小説は、読み手がなにか答えがあると期待していた場合、困惑もするかもしれないし、小説としての完成度は、内容が実は前衛的とも言えるためなのか、少し粗い仕上がりになっている気もする。しかし、それを補って余りある深くかつ過激なエネルギーに満ちている。ゆさぶりをかけてくる一冊。


 自然は罠を用意して好奇心で人を釣る。



真昼のプリニウス (中公文庫)

真昼のプリニウス (中公文庫)