主役に生物、舞台は地球 『種の起源』

 「科学の世紀」と呼ばれる20世紀をそっくり飛び越え、さらに50年遡った今から150年前、ダーウィンが『種の起源』を出版した。科学の様相は刻一刻と変わってゆく。ほんの20〜30年前の著作でも今ではまったく通用しなくなっていることも多々ある。では、科学の分野で150年前の著作を読む価値はあるのか。

 『種の起源』を読んでみようと思ったのは、「ヒトはサルから進化した」ということを理論的に知りたい、なんて立派な理由からではなく、きな臭い・うさん臭いとずっと思っていた「進化」という言葉が、最近になって実は勘違いされて使われているということや本来の意味を知ったことで、それまでの嫌悪感が消え、反対に進化論に興味をもったからである。

 「進化」という言葉は、世間一般で使われている意味と本来のそれとでは、まったく違う。「進化」とは、生物が世代を経る中で変化してゆく現象―言ってしまえばただそれだけのことと言える(一世代のうちに起こる現象ではなく、また進歩でもない)。ダーウィンは進化を「変化を伴う由来」という言葉で表現した。また、自然淘汰に目的はないし、適応は万能ではない。

 『種の起源』を実際に読んでみた今、この本を今読む価値は(意義は)あるかと問われれば、迷うことなく「イエス!」と答える。ダーウィンが考えていた進化論がどういうものか(つまり、生物学における押さえておくべき基本)がわかるだけではなく、それ以外にも学べる(得られる)ものがあるからだ。

 150年前に出版されたのに、時代遅れどころか、今だに先を行っているのかもしれない…と思わせるほどに今でも新しい。

 ところで、前述の「ヒトはサルから進化した」という説明自体が間違いで、正しくは「ヒトとサルは祖先が同じ」―いま存在している生き物たちはすべて、進化の最前線にあると言える。


 ダーウィンが進化(当時の言葉では「転化」)理論に思い当たった、あるいは確信めいたものを抱いたのは、『種の起源』出版の20年前のことで、ビーグル号に乗船してガラパゴス諸島をはじめとした南米大陸を訪れたときのことらしい。そのとき彼は、そこに広がる生物たちの多種多様な様にとても驚き、圧倒され、夢中になった。そして当時の常識だった「創造説」はありえないと結論するに至り、帰国後20年間、ずっと自分の理論を温めていた。ちなみに、ダーウィンは聖職者になろうと思っていた時期があったらしい。

 ダーウィンはまず、飼育栽培植物という身近な話から始める。そこで行われる「品種改良」という作業と、その過程で見られる変異や生まれてくる変種を観察・考察して、自分が抱いている進化理論を照らし合わせ、その有用性をざっと確認していく。次に自然に目を転じ、「自然淘汰」といったこの理論の原理を説明していく。

 ただし、実はこの原理の説明自体は全体の1/3程度でおわり、それ以降はほとんど、自分の理論における難題や予想される反論に対しての解決や反証に費やされる。壮大な「脳内ひとりバトルロイヤル」のようなことをしていくわけである。まずこれが、論理的に自説を説くとはどういうことか、反証はどのようにするのか、不明な点・曖昧な点を集められるだけの資料や観察・研究結果に基づいてどのように推論していくか、そもそも「常識」とされている前提は本当に確固たるものなのか、といったいわば「論理的思考とは何か」という意味でのお手本にもなっている

 喩えてみると、序盤の1/3は「進化理論」という装備・道具の準備段階で、その後は、「定説」や「常識」といった論理の戦場や、「自然界」という宇宙へ踏み込んでいくといった感じ。

 具体的には、「本能と習性」「雑種固体の不稔性(生殖能力がないこと)」「生物の分布の謎」「新種の誕生と種の絶滅」「大洋島に固有種が多いのはなぜか」「移動(移住)」等々さまざな現象やテーマを扱いつつ、途中からは地質学も絡めながら自説の有用性を検討していく。

 そうしていく中で、ダーウィンの理論の核である「自然淘汰」という原理を読み解くキーワードとして「遺伝」が重要になってくるのだが、如何せん、当時はその「遺伝」についてはほとんど未知と言っていいような状況だった。メンデルの法則は当時まだ日の目を見ず(広く認知されるのは約40年後)、ワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の発見は約100年先の話である。また、当時の地質学もわかっていることはかなり乏しいというのが実情だった。そこでダーウィンは、あるだけの資料や観察・研究結果を元に、論理と分析、想像力を駆使して「生物史」「自然史」とも呼べそうなヴィジョンを切り拓いていく。

 このあたりが特に、語られる世界が一気に広がり、奥行きもぐんと増して、ダイナミックかつエキサイティングでおもしろい。ダーウィンの論述の周到さにも何度もうなった。幸いにも(?)自分が生物学にも地質学にも無知であることも手伝ってか、そのヴィジョンを示していく過程を読んでいるときは、SFを読んでいる時のようなおもしろさ―センス・オブ・ワンダーがあった。とはいえもちろん、これはSFではなくて、根拠に基づいたかなり信憑性ないし説得力のある推論だ。要するに、生物学者たちにとっては、仮定や仮説を考えるときなどに「アイデアの宝庫」なのだろう。現代の生物学者たちが今でもこの本を読むのはこのためでもあるかもしれない。


 ところで、『種の起源』という世にも有名なこの本は、当時ダーウィンが執筆中だった大著の“要約”として出版されたものらしい。驚きである。そして、この要約を読んでみてなんとなくわかったことが、もう1つある。この本から「社会ダーウィニズム」が生まれたのはどうしてなのか、ということだ。

 ダーウィンが「自然淘汰」などを説明するとき、その説明に擬人法を使っていることが多い。また、自然淘汰には気候のような物理的条件よりも他の生物との相互関係(「生存闘争」)の方が大きく影響していると何度も強調している。どれもわかりやすくするためにあくまで“比喩”として使っていることは普通に読んでいても明白なのだが、流し読み・拾い読みしただけだったり、この“要約”を斜め読み程度でさらに要約したりすると、誤読・誤解する恐れがある。つまり、あまり誠実とは言えない、軽はずみな読者によって、社会ダーウィニズムのようなものが出てきたのではないかと思われた。*1

 たとえば、「弱肉強食」という言葉。「生存闘争」はたしかに「有利なものが不利なものを退ける」という意味ではあるが、これは「2種(個体)間に限って」の話ではない。試みに3種(個体)で考えてみると、AはBに、BはCに、CはAに対して有利という「ペンローズの階段」みたいに堂々巡りといった関係だった場合、一方的に何か1種(個体)だけが有利という話ではない。ということは容易にわかる。実際、自然界は3種どころの話ではないのである。ダーウィン自身も以下のように述べている。

自然界の関係(影響)は単純なものではない。小競り合いが入れ子状に延々と続き、勝利の行くえもわからないはずなのだ。生物相互の関係はみごとに均衡しており、些細なことで勝者の顔は変わりつつも、自然の見かけは長期にわたって同じままである。

生物の相互作用については何も知らないことを思い知らされるにすぎない。もっともそういう自覚は、なかなか得がたいだけに必要なことである。

 今さら社会ダーウィニズム批判?と思う人もいるかもしれないが、世間一般に使っている「進化」という言葉の意味は社会ダーウィニズを踏襲している、と言っても間違いではないかもしれず、気になる。


 勘違いや誤用から、帝国主義の思想が補強されたり優生学が生まれたりして世界大戦とか植民地政策を煽ったのかもしれないし、カジノ資本主義と揶揄されるほどの状態に経済をもっていく促進力の一役を担ったのかもしれない。また、「進化」という訳語自体「進歩」を思わせるわけで、訳されたのはおそらく明治ごろかもしれないが、その時の「時代の空気」みたいなものを含んだ、しかも誤解ゆえの訳語*2を今もそのまま使っているのであれば、よく言われる日本人特有の劣等感や欧米コンプレックス的なものにもこの言葉(訳語)には絡んでいるのではないかとちょっと勘ぐってしまう。

 言葉は一つの意味だけをもつべきだなんて暴論を吐きたいわけではなく、ただ、「進化」という言葉の本来の意味を知ると、今までのような使い方を自ずとしなくなる。進化理論はたしかに、一般の人々に及ぶほどの影響を与えたのかもしれないが、実際には、「進化」という言葉・考え方は誤用や勘違いを超えて「悪用」されてきたと言えるのではないかとも少なからず思う。

 しかし、ここまで人口に膾炙した言葉を訳語がオカシイと言って変えることはPC(ポリティカル・コレクトネス)のようで効果のほどは少し怪しいかも…ならば連想される「進歩」という言葉の意味を、「進化」という言葉の本来の意味を加味して、「進歩とは本当のところ何なのか」を改めて考えてみる方がよいのかもしれない。

 ちなみにダーウィンは、「すべての生物は遡っていくと一つの生命体にたどり着く」ということも、断言はしていなかった。これに限らず「証拠不十分」である場合、彼は(確信をもちつつも)断言するのは控えていた。


 訳者の渡辺政隆は解説で、「この本を読まずして生物学は語れない」と述べている。これにはなんとなく頷けたが(ド素人だけど)、その後に「進化について考えることは、自分(たち)がどこから来て、どこへ向かっているのかという哲学的な問いにつながっていく」というようなことを述べ、だから「この本を読まずして人生は語れない」とまで言っていた。正直、そこまでかとはじめは首を傾げた。しかし読後少し考えていたところ…あながち言い過ぎではないのかもしれない。

 種の起源』は一般向けに出版された本である(その「一般人」は当時のイギリスの中産階級とはいえ)。生物(学)に興味がある人は一足飛びに飛びついてしまってもよいように、個人的には思われる。前述した「ヒトはサルから進化した」という説明になにも引っかからなかった人は、この本でなくても訳者の『ダーウィンの夢』とか長谷川眞理子の『進化とは何だろうか』という良い新書があるので、そちらで「進化」について少し学んでみるのもよいかもしれない。きっと、考え方や世界の見方が“拓かれる”はず。



種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

*1:ただ、id:ast15さんが、「ひとつ思うのは、150年前に『種の起源』を読んだら果たして理解できていたか?ということだ。現代にはダーウィンの思想を咀嚼して平易に説明してくれている本がたくさんあるし、多くの考え方が進化論をベースにしている。こういう時代に読むから理解できるのであって、150年前に読んでいたら、理解できていたか疑わしい」と感想文で述べられていた。これを読んで「たしかに言われてみるとそうかもしれない…」とも思った旨、付記。

*2:実はそもそも英語の「evolution」という言葉に“進歩”のニュアンスが含まれていたことがわかった―『ダーウィ以来』(スティーブン・J・グールド)