「焼跡の灰の中から強く高く飛び立った」―遠く飛び立った、今/浜田省吾『僕と彼女と週末に』

 「復興」「再建」といった言葉に、一抹の不信や懸念、あるいは不安を拭えない。

 震災からおよそ1ヶ月。被災地はともかくその他の地域は、いろいろ悩ましいこともあれど、暮らしのリズム自体は落ち着いてきていると思う。テレビや雑誌、ネット上で、「がんばろう日本」「ひとつになろう日本」といったスローガンと共に、「復興」「再建」という言葉をよく目に耳にするようになった。

 地震津波の被害にあった地域が壊滅状態になり、その映像や光景を誰もが目にした。それを見て「まるで戦後の焼け跡のようだ」と多くの人が思い、続けて、高度成長期を通して「日本はそこから這い上がってきた」、つまり「復興した」ことを思い合わせる。「復興」という言葉の背後にはこのような記憶と連想がある(実際のところ、戦後の焼け跡は全国各地だったのに対して今回はそうではないから、心理的にも「焼け跡」「焼け野原」の比喩はちょっと違う気がしなくもない…でも、とりあえずそれは措いておく)。

 たしかに日本は、「焼跡の灰の中から強く高く飛び立った」。多くの人たちが挫けることなく前を向いて努力し、生活は便利に快適になっていき、一時は世界第2位の経済大国にまでのしあがった。しかしその一方で、どんなことが起きていたか、それも忘れてはいけないはず。公害をはじめとする環境汚染があり、人口の都市集中と地方の過疎化が起こり、モノがいたずらに溢れる大量消費社会になり、少子高齢化が進んでいったりした。そして、あの復興を通して行き着いた先、「遠く飛び立った今」に、抜け出せない不況とか、人々の孤立化や無関心とか、鬱とか、ホワイトカラーの急増などもあって食料自給率がヤバ過ぎるとか、国の大赤字とか、考えただけで萎えるほどいろんな問題が山積することになった。

 だから「復興」という言葉を聞くと、オイルの黒いシミのような不信や懸念、不安がおれの中には滲みでてきて、「よしやってやる!」とは単純に思えない。


 その反面で、ここ1ヶ月、被災地で活動している知り合いのブログを読んだりニュースを見たりして思わず涙をもよおしてしまったのは一度や二度ではなかった。現地の様子を垣間見ていて思うのは、被災地の人たちにはやっぱり、早く「普通の生活」を送れるようになってほしいとか、日本とかそんなことは放っておいて、まずは自分たちの生活の基盤を作ることに向かって出せる力を心置きなく注いでほしい、というようなこと。

 そして、被災地の人たちが「普通の生活」に戻っていくには、非被災地や、被害はあってもそれほどではない地域の人たちの力が必要でもある。実際、現地に入って直接なにかできなくても、義援金とか節電とかに取り組んで「復興支援」している人も多い。

 そんな間接的にしか支援できない人たちにも、まだできることがあるように思う。「復興」という言葉が出てきたことを思えば、たとえば、先に書いたような「戦後の65年」をここでもう一度振り返り、良かった点はもちろん、悪かった点・問題のあった点を少しでも知って自分なりに考えてみるといったことも、その1つではないかとおれは思う。被災地が立ち直りはじめてから後、同じような問題・無駄な弊害を引き起こさないために(少しでも防ぐために)。これは、被災地“以外”の人でないとできないことでもある。


 本当に良い意味で「復興」するには、過去と同じ轍を踏んではならない。


 そう思ったとき、その取っ掛かりとしてちょうどよいものが手元にあった。昨年末に発売された、浜田省吾の『僕と彼女と週末に』というDVD。これは、彼の楽曲の中でもメッセージ性の強いとされる楽曲と、近代から現代までの映像と彼のライブ映像とをコラボさせて創った、日本と世界の「戦後史」を振り返る意欲作。「いい質問ですねぇ!」でお馴染みの池上彰が「各時代がどういう時代だったか」を概観し手がけた解説が、ブックレットとして同梱されている。

 浜田省吾というミュージシャンは、40代より上の人だと「悲しみは雪のように」で知っているかもしれないけれど、テレビや雑誌に出ようとしない人だから知らない人も多いかもしれない。知らない人はWikipedia―浜田省吾を参照してみて下さい。


 時の流れに曝されていくなかでも残るような曲、文学作品といった創作物は、普遍的なテーマを捉えていたり、創作技術が抜きん出ていたりということはもちろん、作品が生まれた“時代”をよく映し出していることも多い。そういう作品を生み出してきた人たちのパーソナリティは、一般に言うパーソナリティとはその内実がちょっと違うのではないかと思う。

 それが全である「個」であると同時に、その他周囲の「無数の個」や「社会」「世界」の中で浮遊している・取り巻かれているところの、全などではないごく微小の「個」でもある、という“肌”感覚。その“あいだ”で絶えず摩擦や反響が(時に激しく)繰り返される。そこに表現する能力や技術がある。創りだされたものには「普遍的な何か」だけでなく、“時代”と呼ばれるものも自ずと映し出される。そういう感じかもしれない。

 『僕と彼女と週末に』に収められている楽曲は、ロックに、太くセクシーな歌声で、力強く、その時々の時代やメッセージを伝えてくる。1人の人生と世界の流れ。わかっているし避けてはいけないことかもしれないけれど見て見ぬフリをしがちな問題。収録されている曲を「メッセージ性が強い」と表すこともできるかもしれないが、むしろ、浜田省吾からすれば「パーソナルな」曲ばかりなんではないか。祈りだよ。「〇〇世代」という言い方がありはしても、彼の中ではおそらく、広島と長崎に「核爆弾が落とされて以後の世代」は皆「同じ世代」という捉え方をしているかもしれない。

 「本当のことは歌の中にある♪」と斉藤和義が『歌うたいのバラッド』で歌っているし、もともとミュージシャンに関してはインタビューを読んだりしないので、上のような浜田省吾像はあくまで曲を聴いていて思う、というおれの「解釈」に過ぎないけど。


 このDVDで観ることができるのはあくまで戦後史の“概観”。だから、これを観ただけでわかったつもりになることもできないが、戦後史を辿りなおす取っかかり・足がかりとして、このDVDは良作だと思う。

 大学受験の関係もあってか、一般に日本人は近現代史に疎い(かく言うおれも)。けれど、自分たちの暮らしに(大きなことを言えば、人生に)確かに絡んでくる「歴史」といえば、それは近現代史、戦後史と呼ばれる範囲だと思う。

 もしかすると浜田省吾を知らないとか曲を聴いたことがないという人には、ライブ映像も端々でジャックしてくるのでそれが鬱陶しいかもしれない。知らないけど興味あるなという人は、同時発売された『The Last Weekend』というアルバムもあるので、まずはそれを聴いてみるのもいいかも。収録曲はDVDと同じ(アレンジは別)。


 (今の状況を敗戦直後に譬えられるかは措いておくとしても)「復興」という言葉が出てきた大震災直後の今だからこそ、戦後史を振り返る“絶好のタイミング”でもあるかもしれない。



僕と彼女と週末に [DVD]

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