英雄とは“あなた”のことだ 『千の顔をもつ英雄』

 少し前に、ふと思ったことがあった。いま日本で生きている人には、人生という大きな枠で考えたときにいま自分がどの辺りにいるのか、照らし合わせてみることのできるような“物語”が欠けているんじゃないかと。だから、たとえば、おれと同年代のいわゆる若年層と呼ばれる世代には、ミュージシャンや作家、お笑い芸人、芸能人を目指す人が(思いのほか)多いんじゃないかなと。

 こういう職業(仕事)は一見すると「夢がある」仕事のようにも思えるが、目指す人が多い理由はそれだけではない気がする。むしろ「夢がある」なんてことは付録みたいなものかもしれない。

 この種の職業に身をおいて活動している人たちに関しては、テレビの特集や雑誌のインタビュー等で、その人がどういう道のり・経緯で今に至ったのかを垣間見ることができたり、窺ったりすることができる。つまり、何かになろうとか目指そうとか思ったときにその過程で、自分がいまどの辺りにいるのかを確認しやすい職種でもある。この種の職業を目指すことは人生の博打のようにも思えるが、実際は、いわば人生のロールモデル、あるいは標識(指標)のようなものがある。これが大きいんじゃないか。だから、学生も(とりあえず)シューカツに励む。

 と、考えてみたことがあった。

 しかし、どうやらおれが欠けているのかなと思ったのは物語というよりも“神話”のよう。

各地に偏在する英雄の通過儀礼が担っている意味は、要するに、その神話がどんな成長段階にいる男女に対しても普遍規範として役に立つという点につきている。それゆえ、神話は最広義の用語で定式化されている。個々人はこの人間についての普遍定式を参照しつつ己の立場を発見し、ついでそれを手がかりにして己に設けられている制約を乗り越えるしかない。

 これは著者のジョゼフ・キャンベルの言葉だが、とはいえ、現代ではかつて人々の生活を支えていた神話は機能していない。二昔前くらいの日本には「いい大学に入って、いい会社に就職する(その後、年功序列年金生活)」という人生のモデルのようなものがあって、それも崩れた今となっては、このモデルを「もはや一種の神話」と言ったりする。原子力発電所の安全性が覆されて「原発安全神話が崩れた」なんて言われたりもする。現代にあって(少なくとも日本では)神話という言葉は、このように「絵空事」「ホラ話」という意味で揶揄的に使われることもある。なぜ神話は本来の意味で機能しなくなったのか。有効性を失ったのか。

 それは、現代の人々が“象徴の文法”を忘れてしまったから。あるいは、“かつての象徴の文法”が使えなくなったからということらしい。象徴は言い換えると“メタファー(暗喩)”のことである。つまり、現代の人々が神話を読み解けないのは、一般の日本人がスワヒリ語を読み取ることも聞き取ることもできないのと似たような状態。しかしスワヒリ語は存在している。また、「リンゴ」を表すスワヒリ語の単語を見たり聞いたりして理解することが出来てもその単語自体は「リンゴそのもの」ではない。といった(事実)認識を神話に対してももつべきなのだ。神話はメタファーによって紡がれ形成されているものだから、メタファーを読み解くことなしに神話はわからない。

 象徴は目的そのものではなくて、伝達の“手段”にすぎない。まずここを取り違えてしまうと「神話=絵空事」みたいなことになってしまうわけで、神話に登場する神々だって象徴(イコン)なのである。それを読み解く“象徴の文法”は失われてしまったが、しかし、神話そのものに秘められた効力や有用性それ自体は今もなお失われてはいないとキャンベルは説く。むしろ、昔と変わらず人間にとって必要なものでもあると。

 でもじゃあ、蓋で閉じられてしまった“神話”という井戸から水を汲み出すには、一体どうしたらよいのか。

 その方法の一つとして、キャンベルは「比較」を行う。世界中から集めた神話を比較してみると、見た目(メタファー)は民族や地域によってその装いやバリュエーションは多種多様ではあっても、驚くほど多くの共通点を引き出すことができる。つまり世界中で、神話を使って同じことを人間は言ってきたということである。比較となると、対象と対象との差異に目が行きがちだけど、同じところ・共通項を見つけ出すことも立派な比較であることの、これは好例だ。

真実は一つである。(だが)その真理を賢者たちは多くの名で呼ぶ。

ヴェーダ

 もう一つの方法として、キャンベルはユングなどの精神分析学の成果も援用する。夢と神話は“無意識の領域”が源泉になっているという点で共通していて、いわば「夢は個性化された神話、神話は脱個性化された夢」であるらしい。だから精神分析学は神話を読み解くうえで大きな援けとなる。しかし同時に、神話が夢と正確に対応しないということにも気をつける必要がある。それは夢が自然発生的なものなのに対して、神話は意識的に制御されてきたものでもあるからだ。神話のメタファーは何世紀、場合によっては何千年にも亘って考えぬかれ、探索され、議論されてきたなかで形成されてきたものであって、無意識的なものを表しているだけではなく意図的な言明もある、ということを忘れてはならない。その認識のうえでの精神分析学の援用である。


 ところで、神話とはなんだろうか。これをキャンベルはいろいろな表現で述べているのだが、ちょっと抜粋してみると、神話とは「現存するもののあらゆる原子の内外に偏在する、静寂の充満をあらわす啓示である。神話は深い意味を伝える形象化にたよりながら、現存するもののすべてを満たしとりまいている、かの究極的な神秘に心と精神を方向づける」。

 これだけだとなにか難しいことを言っているように思えるけれど、神話や象徴を理解する重大な鍵となるのは、たとえば、彼岸(死)と此岸(生)の2つの領域はじっさいには1つのものだといったような、相対立するもの(美と醜、善と悪、快と苦、女と男、自己と他者etc.)が実は同一のものであり、この世界の表層では別の様相として見えているにすぎない、という神話の啓示である。こういうことを表している神の一人として、たとえば、ナイジェリアはヨルバ族の神話に登場するエシュというトリックスター神(道化師)がいる。

 エシュは東西南北それぞれの方向にそれぞれ別の色取りを配した帽子を被って、畠のあいだの畦道を歩いた。両側で農作業をしていた2人の農夫はエシュを見かけて、後でその2人が出会って話したときに、「おれは白い帽子を被ったやつを見た」「いや、あいつは赤い帽子を被っていたはずだ」と言い争いをはじめ、果ては殴り合いをはじめた。そうやってもめごとが広がるのを見て、エシュは楽しむことを好んだ。このエシュというトリックスター神は、1つのものが多様な様相を見せるということを表すと同時に、“宇宙の軸”(アクシム・ムンディ)、もしくは“世界の臍”の擬人化でもあるらしい。

 また神話では、創造と破壊、調和と混沌といった変化の繰り返し・転回・流転、つまり“円環”というモチーフが重要となる。「ウロボロスの蛇」を思い浮かべればわかりやすいかもしれない。「円環の輪は絶えず回り動き、神話の焦点は“成長”に置かれている」とキャンベルは説く。この円環の世界観(「時間の本質は流れ、束の間の存在するものの溶解であり、しかも生命の本質は時間」)と、エシュ的な神秘を象徴している、先史時代のペルーの宇宙父・ヴィラコッチャという「泪を流す神」が個人的に印象的だった。この神は名前も好きだ。


 神話が効力を発揮できなくなった原因の一つとしては、科学の発展が(やっぱり)大きいのだろう。理性や合理性、論理性といったリアリズムの精神でさまざま発展を遂げていくにつれて、幽霊や妖怪、あるいは超常現象といった「非現実的なもの」は無視されるようになった。神話的な観点からすると、これは世界の片一方しか見ていないということになるのかもしれない。

 現在は、そのリアリズム的な風潮が衰えてきている。ラテンアメリカ文学に発するマジックリアリズムという手法の下では、現実と幻想(非現実)とのあいだに明確な境目はない。もしくは、ギブソンの『ニューロンマンサー』の解説で山岸真が書いていたことを思い出した。この解説は20年くらい前のものだろうけど、それ以前のSFと比べみるとサイバーパンクにおいてはSFの「S(科学)」の意味的な変化の影響が大きい、と述べた後の文。

知識や理論の進展が開いた新たな認識の地平が、あるいは霊的な、また非合理的な世界と近しくなってきたということだ。それ自体が(ウォークマンやSFXブームのレベルで)文化そのものと化してきたということでもある。技術的思考や合理性がすべてを割りきったかつてのSFは、ここにはない。


 かつて神話や儀式は、人間が生きていくうえでさまざまな援けとなる機能をもっていた。その一つとして、「人間精神をともすると後ろに結びつけようとする人類の夢想に逆らって、人間精神を前向きに進めるようにはたらく数々の象徴を供給する」というのもあったらしい。

 儀式(イニシエーション)は神話を現実に具体化したようなもので、たとえば、成人するときに行っていたような儀式はそれまで彼が属していた幼児・子供の世界(社会)から彼を引き離し、次の大人の世界で生きていくという意識変革を起こすためのものであったりした。これは心理的・精神的な時空間移動(越境)でもある。儀式には教会や寺院のような特殊な空間を用意することもあり、現代でこのような空間があるとすれば、映画館がそれにちかい性質をもっているのかもしれない(いわば擬似聖堂)。

 このような機能からも窺えるように、神話や儀式は「個人→社会→自然→宇宙」という外へ向かっていくような道のりを辿らせることで、人間を、人間のプシュケ*1を、徐々に、より広くかつ根源的なもの(宇宙の意志)と同化させていく(同じ1つのものだと感得する)手立てになっていたとも言える(それが結局、人間なら誰しもが求めていくものなのだろうか…?)。一方で、よく言われるように、現代は基本的に“個の時代”だ。だからキャンベルは、この本のタイトルにもあるように神話の中でも神々ではなくて、主人公である“英雄”に焦点を当てた(主人公には「感情移入しやすい」、つまり「自分と重ね合わせやすい」という利点もあると思う。


 神話やお伽噺を見ると、英雄の中には旧約聖書のヨナのようにクジラに、赤頭巾ちゃんのようにオオカミに呑み込まれたりするものがある。この「呑み込まれる」というメタファーは、“自分の内にある知られざる(無意識の)領域”に踏み込むということを象徴的に表しているそうだ。宇多田ヒカルの「テイク5」という曲にもこんな歌詞がある。

コートを脱いで中へ入ろう
始まりも終わりも無い
今日という日を素直に生きたい

 キャンベル曰く、神話上の英雄とは、「われわれ誰でものうちに潜み、認識され、活性化されるのをひたすら待ち侘びている、創造と救済の全能なる自己の顕現(イメージ)」で、「鏡に映ずる可視的な肉体をもった自己ではなく、内なる主」のことである。

 英雄の神話的冒険が通常たどる経路は、通過儀礼を説明するときに使われる公式<分離→イニシエーション→再生>を拡大したもので、これが神話の核心を構成する単位でもある。公式をちょっと補足すると、分離は「世界(馴染みの社会・俗世)からの離脱」を指し、イニシエーションは「なんらかの源泉への参入」、再生は「活気あふれる帰還」といったことを意味している。

【ここまで述べたことを図式化した神話のイメージ】

 この過程を、キャンベルはそれぞれの段階ごとにさらに分類し、いろいろな神話を参照しながら解き明かしていく。この分類が具体的にどういうものかは本書の目次を見ればわかるようになっているし、松岡正剛「千夜千冊」でその一覧を載せているのも見つけたので、興味がある方はそちらを参照してみて下さい。


 神話の中で語られる英雄の“冒険”は、「いついかなる場合も、既知のベールを剥ぎとり未知へと移行すること」を意味している。冒険を“人生”と置き換えても意味は変わらないように思う。そして、神話には“円環”のイメージがあると先にも述べたけど、つまり、英雄が長く険しい旅路の果てに達成すること・獲得するものは、実は、成就ではなく“再”成就。発見ではなくて“再”発見なのである。また、神話が成長に焦点を置いているように、英雄も「生成中のものの庇護者であって生成し終わったものの庇護者ではない」。それは常に、彼・彼女が、現在の内に存在しているからだ。

 外へ向かう冒険もあれば内へ向かう冒険の道もある(内と外は同じもの)。ウロボロスの蛇を頭から辿ってもしっぽから辿っても、メビウスの輪を表から辿っても裏から辿っても、誰にでも“再発見”する道は開かれている。そのことを示しているのが“英雄”という象徴なのである。


 と、概観するとこうなふう。

 こうして見ていくと、神話そのものが壮大な象徴・メタファーであることがわかる。メタファーは伝達の手段だから“神話も手段”である。「神話は真実のほんの一歩手前にある」にすぎない。そして人は、英雄の姿をそっくりそのまま真似る必要などないのだ*2


 この本の公刊は原書が1949年(邦訳は84年)なので、ん?と首を傾げる部分があったりして疑問点もあるにはあるけど、それが批難的な心理ではなくて、興味を掻き立ててくる類の疑問だからおもしろい。物語が好きな人、物語ってなんなのか知りたい人は読んでみて損はないはず。世界各地のいろいろな神話が紹介されていて、それらを読むだけでもわくわくして十分楽しい。



千の顔をもつ英雄〈上〉

千の顔をもつ英雄〈上〉

千の顔をもつ英雄〈下〉

千の顔をもつ英雄〈下〉

*1:「プシュケ(psyche)」は古代ギリシャ語で心(精神)、霊魂の意味。ギリシャ神話に登場する娘っこが語源。

*2:はじめに抜粋したキャンベルの言葉を読み返してみて下さい。