アンタのためなら何でもやってあげる 『月曜日のユカ』

 フランス映画みたいな邦画。’60年代初頭と思われる横浜が舞台。


 まず冒頭から、字幕テロップを横に流しつつ英語、中国語、スペイン語の3ヶ国語で横浜を紹介するというひと工夫が施されている。この演出で横浜という港に「日本のどの街とも違う、一風変わったエキゾチック感のある街」という印象をさりげなく与えてくるし、ユカみたいな娘(こ)がいてもありえなくはないかもしれないと思わせる雰囲気を作り出している。

 ユカ(加賀まり子)はナイトクラブで働く18歳の娘で、パパ(加藤武)をパトロンにもち、修(中尾彰)という恋人もいる。教会に通うクリスチャンである一方で、「男をよろこばせることが最大の喜び、人生の目的」を信条とするユカは誰とでも寝る。ただし、キスだけはさせない。素直かつ無邪気で、あどけなさを残しつつも蠱惑的。そしてキュート(たぶんユカじゃなかったらぶりっ子かバカに見える)。この娘が寝てくれるっていうんだから男だったら喜ばずにはいられない。しかしあの唇にキスしちゃいけないというのはむごい。


 ユカの性格(とそのズレ)を端的に表しているのは聖堂でのシーンかもしれない。フランクとかいう男友達にどっかのダンスバーみたいなところに連れて行かれ、夜が明けた後、その聖堂へユカは男を4人ほど連れてきて、順番に抱かれてあげると(ちょっと強引に)誘うシーンがある。男たちはニヤニヤしつつもユカの気迫に気圧される。そのとき、ユカはこんなことを言う。

どうしたのよう!…早くいらっしゃいよ。うんと愛してあげるわ。ここには神様たちが大勢いるけど、だから嘘なんかつかないわ!ねえ、どうしたのよ。いらっしゃいよ!

 太字の部分が彼女の(ふつうに受け取ってしまうと)ちょっとズレているところだ。いろいろな男たちと寝ることは不純・不貞で、神様がいるから憚られるとなりそうなところだけど、例の信条を抱いている彼女にとっては、決して悪いことではなくむしろ善行にあたる。矛盾しているようで彼女の中では矛盾していない。


※以下ネタばれ有り


 ところで彼女がこういう行動に出たのは、その信条からでもあるけど、パトロンのパパを満足させる方法を見出すためでもあった。このシーンの数日前に修とデートをしているとき、パパが家族(妻+娘)を連れてお人形を買っているところを目撃する。そのときのパパはユカが見たことがないほどの満面の笑顔で、ユカはそれが悔しくて、自分もあの笑顔を引き出したいたいと思うようになる。実際パパ本人にもこんなことを言う。

なにしたら一番喜ぶ?パパのこと大好きよ。愛してる。パパのためならなんでもしてあげる!

 このシーンが終盤で、2人の立場を変えて再現され、シンメトリーを作り出すのだけど、それはともかく、このように言ってみたところ今のままで満足だよと言われ、その際「なにかが足りないんだな」と思ったユカは、若いころは今のユカのようなことをしていた母に相談しにいく。そこで母に、一時的の関係であってもそのときは本気で愛するべきだと諭される(吹き込まれる)。彼女の信条もこの母の教育の賜物のようだとここでわかるが、そこでまずはフランクでそれを試し、前述のダンスバーに連れて行かれる。


 ユカは生来、素直すぎるために疑うことを知らない(そこがユカの魅力を作っているとも言えるが)。だから母の言うことに少しも引っかからない。必ずしもそうではないかもしれないのに、愛はセックスの悦びの度合いで量れるものだとユカは思い込んでいる(また、愛が向けられる対象は「1人の男だけ」に限られない)。

 そのために、本気で愛し合っていると思っていた男に突然姿を消されたりもする。その男とは一度も肉体関係をもったことがなく、男が消えた原因は「私と寝て」とユカが言ったことにあるようだが、その男に「あんなことは言うものじゃない。愛なんてそう簡単に言いなさんな」と諭されても、彼女には言われたことの意味がわからない。ユカの素直さは見方によっては、愛に対して“鈍感”にもなる。

 その鈍感さが、本気でユカのことを愛している修を傷つける。パパを喜ばせることに固執するユカに対して彼は、日曜は家族サービスデーだからパパもお前のために時間は取らないさと吐き捨てるものの、ユカはとりあえずそれで納得して「じゃあ月曜でいいわ。月曜くらい私にくれたっていいわ」。月曜日のユカ。

 終盤においてその素直さ(鈍感さ)が、修のプロポーズとパパのお願いによって自身の中で修正を迫られていることをユカは直視する。また、ユカがキスを拒んできた理由もフラッシュバックによって語られるが、修の事故死を前にしてキスという行為の意味を反転させ、修を弔う。そして、だからこそ船長に唇を奪われたことは、ユカにとってそれまで以上に許されざることだった。狂気が頭をもたげる。ラストのダンスシーンはそのメルヘンさが狂気を一方では際立たせていて秀逸。


 というわけで、この映画は脚本がよく練られていると思う。そして、冒頭のシーンのように映像の技法と演出もおもしろいのである。

 ヌーベルヴァーグと呼ばれる’50年代後半あたりにフランスで生まれた映画運動の日本版のようなもので、逆にフランスに影響を与えもした作品…らしい。たしかに、ほとんど静止したような長回し、コミカルな早回し、長いセリフの早口、異様なストップモーション、コマ落ち、ズレた人物の配置等々、変わった技法をふんだんに使っている。こういう前衛的(?)なことをいたずらにされると付いていけずに「観ているこっちとしては興ざめ」することもしばしばだが、この映画では鼻にかからなかった。ユカ特有の“ズレ”を表現する一方で、映像が不自然にならないことに彼女の“ゆるさ”も一役買っているように思った。


 それにしても…加賀まり子ってあんなにキュートだったのか。「ねじり」のイメージしかない中尾彬がちょっと青臭くて、パパの加藤武がオードリーの春日に見えてしかたなかった(笑)



月曜日のユカ [DVD]

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