都知事の「天罰」発言を受けて―その「日本」を内から見るか外から見るか

 どうでもよさそうでいて実はそうでもなさそうだと思った点について。

(この震災に関しては今週のお題で出される以前に数日前に少し書き留めたけど、ちょうどよい機会なので)


 1週間ほど前に都知事(石原)の「天罰」発言が“一瞬”、物議を醸した(後にめずらしく撤回したのでまた大地震が起こるかもしれんと危惧した)。今回の場合は状況が状況なだけに、テレビや新聞もさすがにこの発言に固執するようなことはしていなかったとはいえ、やっぱり、けっこう非難の声があったようでもある。

 都民であるおれは、以前から石原慎太郎が嫌いだ。この「天罰」発言も、彼の努める立場を考えると、決して正しいことだとは言えない。再出馬したみたいだけどこれで再当選まではしないのではと嬉しくさえ思っている。*1

 しかし、彼の口に「天罰」と言わせたその気持ちや考え方自体に関しては、それほど間違っていたとはおれは思わない。都知事を弁護するなんて気持ちはさらさらないが、この発言に対する非難から窺える人々の意識の方も気になったので、ちょっと書いてみよう。


 都知事の「(日本への)天罰」という発言は、「世界の中の日本」「69億分の1億3000万」というマクロな視点で考えてみると、必ずしも否定はできない。

 日本はいわゆる「先進国」に属する国で、政治不信・経済不調からなかなか立ち直れないとは言いつつも、基本的に必要最低限以上の生活をしている割合が他の多くの国や地域に比べればすこぶる高く、モノが溢れている大量消費社会である。一方でその日の生活もままならないという状態が普通である極貧国や発展途上国と呼ばれる国や地域の数は、先進国の数をはるかに上回る。

 よく「富の偏在」という言葉を聞くけれど、その富は先進国と呼ばれる国々に著しく偏っているのは事実。当然、日本にもかなりの富が集中している(「富める側」にいる)。先進国である日本はそのような極貧国や発展途上国といった国や地域の人々から搾取していると言われても大きなことを言える立場にはないということはたしかであって、少なくとも、そういう非難に対して間違っているなどと言えない。

 このように「世界の中の一国」という視点に立って考えてみると、被災地が東北だろうが首都圏だろうがあまり関係ないのだ。同じ「日本」なのだから「天罰」のように思えても(捉えても)無理はない。スマトラ沖や四川省で大地震が起きたとき、スマトラをそのまま「インドネシア」と、四川省を「中国」というように大雑把にひとくくりにして捉えていた人が大半なんじゃないだろうか?

 都知事の発言に対して非難・抗議した人たち、あるいは反発を覚えた人たちは、でもやっぱり違う!というかもしれない。「我欲にまみれた日本人への罰」だったしても、主な被災地が東北であることなどを考えると「神様は無慈悲だ」と言いたくもなる。

 しかし反発を覚えた時点でそれは違う視点、つまり「日本の中の東京」「日本の中の三多摩地区」というような感じで、いわば前述の「世界の中の日本」に対してミクロな視点とでもいった立場にその人は立っている。


 おそらく今回の震災で日本国中の人たちが「日本で大変なことが起こった」ということを認識し、実感して、「自分は日本の国民の一人なんだ」という自覚を促された人もけっこういたと思われる。「日本」という“一体感”がにわかに湧きあがった感がある。外国で起きた災害に対して抱きがちな「対岸の火事」みたいな感覚はほとんどの人にはないと思うし、むしろ抱いているのは「他人事とは思えない」「もどかしい」、あるいは「無力さ」という感じだろう。

 その自然な気持ちや衝動から、義援金やいろいろな物資の寄付(少し立てばボランティア活動)、日常レベルでは節電に励むこともできる。これはとても大切なことだし、人間の良い面だ。

 一方で、非被災地の人たちのそのような思いやりは、自分が「被災地ではない所にいる」という認識があってこそとも言える。言い換えれば、「日本の中」から見ているがゆえに、被災地に対して、「日本」という同じところであると同時に自分たちのいる所とはちがう、いわば「内側の“外部”」のように捉えてもいるということである。意地悪いと思う人もいるかもしれないが、これは、「一つの共同体」という視点に片足だけつっこんでいるだけ、と場合によっては言えなくもない。

 というのも、このミクロな視点が一部裏目に出た感じなのが、被災地“以外”の地域で起きた過剰な買いだめや買占めという現象ではないかと思うからである。実際に被災した場合(集団で苦境に陥った場合)、助け合いや協力、買い控えが自然と行われるという模範を、自分と同じ「日本という一つの共同体」の一員であるはずの被災地の人々が示しているのに、だ。はじめの方は自己防衛本能が働いたとも思えるから仕方のないところもあるかもしれないが、それにしても行き過ぎ(まあ、おばさん中心になんだろうけど)。被災地の人たちの様子を見れば、あのような状況下では所有物はある程度「自己所有」から「集団所有」へと変わるということもわかるはず。

 このように考えて自分は何も準備しないとふんぞり返るのはそれはそれで違うが、準備するのは最小限でいいはずなのだ。こういう考え方をもし信じられないのであれば、その人はむしろそういう自分を省みるべきだと思う。信じられないと思うその人自身の存在が、被災したときに周囲の人たちに対して迷惑・脅威・お荷物になるかもしれないと。


 ミクロな視点を持っていれば都知事は(たとえ「被災地の方々はかわいそうですよ」と付言しようが)「天罰」という発言は控えたはずだし、また、ミクロな視点に立っている人たちもマクロな視点を持っていたなら、「天罰」という言葉を聞いて「ありえない発言」「無思慮な発言」と一概には言えないと受け止めたのではないだろうか。


 「世界の中の日本」というマクロな視点と「日本の中の〜」というミクロな視点、どちらが良いか悪いか、正しいか間違っているかという話ではない。


 ものさしは一つではないということ。

*1:と思っていたら再当選したよ・・・ぶっちゃけ、石原よりも民意の方がおれはわからない。