黒?いやいや、夢幻色 『黒檀』

 アフリカのことをほとんど知らないから、いや、だからこそ、読みたいルポルタージュ文学。

 知り合いには、ブルキナファソへ海外青年協力隊として派遣されたり、紛争地帯などでボランティアの医師として活動している人がいる。その人たちを通して、アフリカの様子を垣間見る(小耳に挟む)ことはあっても、まったくと言っていいほど、その実情をおれはよくわかっていない。

 そんなおれにとって、アフリカは、2つの意味で「暗黒地帯」だ。第1に、そのイメージ。飢餓、貧困、紛争、軍事独裁、難民、子ども兵士、疫病、過酷な環境、スラム…もし自分がそこに生まれていたらあっけなく死んでいただろうと思わせる世界、というイメージ。第2に、アフリカの地で起きている諸問題の原因やその経緯、歴史をほとんど知らないという意味で。これは「空白」と呼ぶべきなのかもしれないけど、第1に挙げたイメージのせいで、その空白が、踏み込みがたい暗闇に思える。

 この一冊は、その「暗黒地帯」に、鋭くも温かい光を射し込んでくれる。


 よく「アフリカ」「アフリカ人」と十把一絡げにしているが、そんなふうに総称することは愚である、ということをまず、忘れてはいけない。アフリカ大陸、アフリカに生きる人々、アフリカにある文化は本当に多種多様で、カプシチンスキの言葉を引用してみれば、「一流の人類学者は、<アフリカ文化>や<アフリカ宗教>という言い方をけっしてしない。そんなものは実在せず、アフリカの本質とは、無限の多様性だと知っているからだ」。

 カプシチンスキ自身は、“白人”であると同時に、“ポーランド人”である。白人だから、植民地主義奴隷制度、500年間の屈辱…黒人に対する「白人の罪」の問題から逃れられない。一方で、ポーランド人からすれば、ポーランドはアフリカを植民地にしたことはないし、むしろ、かつては130年もの間、ロシア・プロイセンオーストリアによって分割統治されていた(つまり植民地化されていた)。だからカプシチンスキは、心から罪を認め、赦しを乞うことなどできないということも事実で、反論もしたくなる。しかし、黒人の側からすれば、白人=罪人であって、そんなのはたわ言にしか思えないはず。

 彼はこのことに関してはちょろっと触れた程度で、そのジレンマに苦しむ素振りを見せたりするわけでもないが、“同じ”白人でも、イギリス人やフランス人とは“違う”白人であるという事実で、アフリカの黒人たちも同じように、「アフリカ人」とひとくくりにはできないということを示そうとしたのかもしれない。そして、アフリカは、そのヨーロッパよりもはるかに多様かつ複雑である。よくヨーロッパはアフリカを「分割」したと言うけれど、事実はまったく逆で、何万とある氏族、民族、王国をたった50程度に、乱暴・野蛮な方法で「統合」したと言う方が正しいのだ。

 カプシチンスキはどうやって、そんなアフリカの姿を描いていくのか。彼は「文学的コラージュ」(←本人命名)という手法を使う。アフリカの至るところに実際に踏み込み、市井の人々と話を交わし、観察し、そうして、一つひとつ灯りを点けていくように時間と場所の異なるルポルタージュをいくつも書き、それらを並べて、そこから全体を、事実の奥にひそむ本質を浮かび上がらせていく。ちょうど衛星写真で夜の地球を撮ったときに、電気の灯りで各地の輪郭がわかるような感じかも。


 インド人ドクターのライオンや象のお墓の話(象は一番強く、偉大で、神聖な動物)に耳を奪われたり、「ルワンダ講義」なんかすごくわかりやすくて驚きだし、リベリアウガンダの国内事情をつぶさに見ていくことでその複雑さにめまいを覚え、「オニチャの大穴」はなんか笑えたり。そして、子ども兵士のサイクルや、国際間戦争ではなく内戦・内乱ばかりが起こっているその理由、奴隷制度の発祥とその拭いがたい傷跡など…アフリカで起きている諸問題の核心・根っこを、カプシチンスキは浮き彫りにしていく。アフリカの根本を抉り出してくる…。

 たとえば、自然環境。かの地では多くでは太陽が近い!情け容赦なく、ギラギラメラメラ照りつけてくる。随所でその「天然の火炙り」とでも呼べそうな炎暑、猛暑、白熱、灼熱具合の描写があって、正午前後の時間帯はとても日向にいれたもんじゃないらしい。その時刻は「世界が死んだように静まり返る時間」。日本だったら、太陽がギラギラしていると言っても、たぶん蝉の声が連想されるんじゃないかと思う。あっちじゃ、生き物は影の下でじっとしてやり過ごすほかない、それほどの炎熱。その太陽が、アフリカ大陸のあの過酷な環境をつくりだし、氏族や民族が無数に分化させていった。人類はアフリカの地で誕生したようだけど、もしかして、はじめは太陽から逃げるようにして移動していったのかもしれない。なんて空想まで抱いてしまった。読んでいるだけで咽喉が渇いてくる。

 また、時間という存在の在り方。人間の外部にあって測定可能で、直線的な流れで、時間に対して人間はいつも受身でしかいられない。これがヨーロッパ的な時間の在り方だ。一方で、アフリカにおける時間はそれとはまったく質を異にしている。時間は、出来事によって(人の行動があって)はじめて現われ、出来事が起こるか起こらないかは人間次第。たとえば対立する2つの軍があっても、もしも矛を交えなければ、戦闘は発生しない。その場合、時間はその存在を露わにせず、無いに等しい。アフリカの地にあっては、時間人間に対して受動的な存在であって、だから「時間通り」「定刻」といった考え方などなく、バスが発車するのは満席になった時、集会が始まるのは人が集まった時、となる。

 同じように、おれたちがふつう言うような歴史もない。「歴史」は口伝・口承、さまざまな過去は「昔むかし」で、そこに「時系列」という概念はない。歴史(神話)は一直線に一方向に並ぶことなく、地球の動きと同じように、回ってまわって、循環する。歴史は永遠のなかにある。


 カプシチンスキは、「銃撃されること四度、銃弾飛び交う最前線に立つこと十二回、革命・クーデターの目撃証人になること二十七回、ウガンダで脳性マラリアに罹り、体重が四十五キロにおちこんだこともあった」というような、尋常じゃない体験を幾度も幾度も潜り抜けてきた人だった…あな怖ろしや。

 アレクサンダー大王の故事、「ゴルディオスの結び目」のようにはいかないアフリカ事情の難しさと、同時にそのアフリカの多様性のおもしろさ、魅力、奥深さを、現地に足を運び、場数を踏んだからこその凄みと共に教えてくれる1冊。



黒檀 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

黒檀 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)