モーツァルトの音楽とある男の業 『アマデウス』

 『のだめカンタービレ』を一気読みしたのを機に再鑑賞。去年の夏にTOHOシネマズの「午前10時の映画祭」で一度観て、そのときは予想以上に長くて終盤では集中力が切れてしまっていたため(140分くらいだと思っていたら180分もあったことに後で知った。しかも休憩なし)とくべつ何かを思ったということはなかったのだけど、少し経ってからこの映画のサリエリの存在が頭に強烈に残っていることに気づいて、もう一度観てみようと思っていた。


 「天才」と聞いて、誰を思い浮かべるだろう。アリストテレスニュートンゲーテデカルトランボーアインシュタインダ・ヴィンチゴーギャンジミ・ヘンドリクス……日本人なら空海織田信長福地桜痴南方熊楠湯川秀樹三島由紀夫手塚治虫……最近だとスティーブ・ジョブズなんかを思い浮かべる人もいるかもしれない(ふと思ったけど、女性では誰だ…)。

 でも、「天才」の人物というよりも人物“像”、その性格・性向、要するに「天才って言われる人はこんなやつ」みたいなイメージだった場合はどうか。

 たぶん、その「天才のイメージを端的に現す天才」でけっこうしっくりくる人物として、「神童」と呼ばれていたことでも有名なモーツァルトが挙げられるのではないかと思う。スカトロ好きだったというのも有名な話だが、彼の曲には『俺の尻をなめろ』なんてタイトルのカノンもあるらしい(笑) 映画でも「神話の神は大理石のウンコでもしてろ」と吐き捨てるシーンがあった。

 この映画で、元宮廷音楽家サリエリが神父に向かって語るのは、彼の半生であり、モーツァルトの物語でもある。サリエリも実在した人物だが、描かれていることが事実というわけではないので注意。しかし映画は映画として、大作・名作の名にふさわしい出来。というか傑作。


 冒頭で「赦してくれ、モーツァルト!おまえを殺したのは私だ!赦してくれ!」と絶叫する老人・サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)は、かつて“音楽の都”ウィーンの地で宮廷音楽家としてヨーゼフ2世に仕えていた。彼はイタリアの田舎町に生まれ、子どもの頃に「神童」モーツァルトの噂を耳にし、憧れて、生涯を捧げると誓うほどの音楽への愛と神への敬虔な信仰心を胸にウィーンへ旅立ち、宮廷に仕えるまでになった。しかし、モーツァルト(トム・ハルツ)が現れたことでサリエリの人生は一変する。

 「天才と呼ばれる人は、日常では奇行が目立ったり、変態的だったり、迷惑な人間だったりする」なんてことはよく言われることだが、サリエリ自身はモーツァルトのことをはじめて出会うまで、あれだけすばらしい音楽を作曲しているのだから彼もすばらしい人格の持ち主なのだろうと思い込んでいた。それを裏切られた格好となったサリエリは幻滅と嫌悪の念を抱くが、同時に、モーツァルトの音楽のすばらしさ(「神の声による響き」「至高の美」とサリエリは称す)とその才能を一番に見抜き、そして理解してしまうために、嫉妬や憎悪、羨望や共感、悲しみのあいだで板ばさみになり、悶え、苦悩することになる。苦悩するほどに悪意が強まっていく。

 この「自分にはできないが、理解することだけはできる」という事実は自身が表現者である場合、絶対に認めがたいこと、恐ろしいことなのだろう。「音楽の真価を見抜ける」だけでもすごいことだと思うけど、サリエリは「自分の曲が後世に聴き継がれ、名声を残す」ことを切望していた。

 しかし、サリエリは結局は最後まで、モーツァルト個人のことを憎むことはできていなかったのだと思う。サリエリモーツァルトを通して“神の意志”を見ていたから。彼の言葉を借りれば、神は、「好色で下劣で幼稚な若造」に音楽の真の才能を与え、彼自身には「切望」とモーツァルトの「天分を見抜く能力」だけを与え、「声は奪い去った」ということだった。

 一方でモーツァルトの人生も途中から急降下しはじめる。モーツァルトは、『ショーシャンクの空に』でもアンディ・デュフレーンが刑務所の中で流したオペラ『フィガロの結婚』を満を持して公演したが、ヨーゼフ2世があくびをしてしまったことによってたった9回で打ち切りになってしまう。納得できないモーツァルトサリエリに向かって愚痴り、助けを請うシーンでのサリエリがかけた言葉は、彼が言っているだけに重みがある。

君は客を過大評価してる。ラストを盛り上げないと彼らは拍手をしてくれん。

 その後、借金が嵩み、酒におぼれ体調を崩していくモーツァルトは、父の死をきっかけに『ドン・ジョバンニ』を公演するが、これもたった5回で打ち切られる。実は裏でサリエリが手を引いた結果なのだが、反面、彼は5回ともすべて観に行っていた。彼はこのオペラの真価と、モーツァルトが精神的に父の亡霊に取り憑かれていることを見抜いていたし、また、このオペラを聴いたことで彼の内に決定的な狂気が生まれることになった。

 サリエリモーツァルトを殺すことで、憎くてたまらない神に勝利しようとするのである。

 モーツァルト殺害の布石として、サリエリは死んだ父親の仮想衣装に変装しモーツァルトに「レクイエム(鎮魂歌)」の作曲を依頼するが、最後の山場のシーンで結局は、この作曲を通してサリエリはそれまでとはまた違う意味で、“神の無慈悲”に打ちのめされることになる。

 モーツァルトの、「恥ずかしい」という言葉も胸をつく。


 生きているあいだにその真価を認められることなく、あるいは理解してもらえることなく、この世を去った芸術家は多い。いつの時代もそういうことは起こってきただろうし、それは彼らが時代を先取りしすぎていたということもあるかもしれないが、後世で認められたとしても、その真価を本当に理解できているのは、いつの時代であってもほんの一握りの人たちだけかもしれない。

 たとえば、今の時代を生きているおれたちはモーツァルトの曲をなんとなくスゴいとか良いとか感じているけれど、本当に理解できているのか、ちゃんとそこにあるものを感じ取れているのか、実際のところわからないというのが事実だろう。後世の人間だからといって、先代の作品、芸術を理解できるというわけではない。

 それに、この映画のモーツァルトは『フィガロの結婚』の公演を渋るヨーゼフ2世たちに向かって「政治なんか嫌いだ」と吐き捨て、サリエリが『魔笛』を誉めた際は自嘲気味に「あれは大衆オペラだ」とボソッと言っていた。もちろんモーツァルトが実際にこんなことを言ったのか、これらの言葉からうかがえる思いや信念をもっていたのかはわからないけど、創作者が本当に良いと思った作品は歓迎されない、ということに対する憤りとか諦めみたいなものもまた、いつの時代も変わらないのかもしれない。


 ラストシーンで老人サリエリは神父に向かって、にやりと笑い、こう言う。

あなたも世界中にいる凡人の一人だよ。私はその頂点に立つ凡庸なるものの守り神だ。

 それを聞いたとき、老人サリエリの話をずっと聴いていた神父のような顔をしている自分に気づく。実は、さりげなく、あの神父がいい味を出しているのだ。個人的にはヨーゼフ2世(ジェフリー・ジョーンズ)も観ていておもしろかった。


 タイトルの「業」の読みは「ごう」。ディレクターズ・カット版で180分、しかも休憩なしと長大だが、一見の価値あり。



アマデウス [DVD]

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