女中が見た花柳界の流れ 『流れる』

 1950年代初頭の、花柳界遊郭)と置屋(芸妓の詰め所みたいなところで、住み込みもできる。キャバクラ嬢の派遣元みたいなところ…?)が舞台。この時代は車やカレーライスを「自動車」「ライスカレー」と呼ぶのが普通で、履歴書を筆で書き、千円札がまだ聖徳太子だったころである(全部映画の中に出てくる)。

 似たようなものだと溝口健二の『赤線地帯』を観たことがあるけど、あれとはまたちょっと違う“落ち方”だった。『赤線地帯』のほうは「だから、やばいって言ってんでしょまったく!」って感じで崩れてくる屋根を付け焼刃的に継ぎはぎしていくような忙しさがあった一方、こっちは「困ったわね。どうしたらいいのかしら…はぁ。やんなっちゃうわ」みたいな感じの、瓦屋根の瓦が一枚ずつだんだん落ちていくような落剥の光景だった。

 今風に言えば、『赤線地帯』ではソープ、『流れる』はキャバクラ、という感じの違いかと思われる。

 ちなみに時系列的に見ると、『赤線地帯』『流れる』の時代の3、4年後くらいから『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代になるようだ。


 礼儀正しくて、よく働きよく気が利く女中さん(田中絹代)が、つた奴(山田五十鈴)が営む「つたの屋」という置屋にやってくる。女中さんの名前は「梨花」というらしいが、そのときのつた奴やその娘の勝代(高峰秀子)たちの反応が時代を感じさせる。「梨に花ってなんと読むのよ」「めずらしい名前ね」「読みにくいわ」。というわけで女中さんは「お春」と呼ばれることになる。

 女中というのはある意味、「影」みたいな存在でもあるから、階級や先輩・後輩のような序列などをのあいだを行き来するため、いろいろな人に接し、見る機会が多い立場にある。この女中を通して見ることで、彼女を取り巻く人間たちの様子やその関係、置かれている状況を垣間見ることができるようになっている。それらを通して見えるのは、表向きは華やかに見える花柳界の、内実は廃れていく、その様だ。それはつた奴の言葉にも表れていると思う―「素人でも玄人でも関係ないのよ。今は」(たしかこのようなことを言っていた)。

 時代の流れに乗れる人たち。その流れに抗えず、身を任せることもできない人たち。

 その後、花柳界なんて言葉は聞かなくなったし(というかこの映画ではじめて知った)、今では遊郭的なものは、京都などにはたしかにあるけど、もはや伝統芸能みたいな域にある。町の風景や人々の服装、所作、言葉使いを見ていると(この映画だと、女中さんの年齢が45歳(!)というところからも)、5、60年ほどでずいぶん変わったんだなと思う。モノクロの邦画を観るたびにいつも思う。ただ、時代を感じるとは言っても、たかだか5、60年前の話とも言える。


 半世紀ほど前もそう変わらないんだなと思ったのは勝代の姿だった。彼女はたぶん20代前半くらいだと思うが、一度芸妓の仕事をやってはみたものの、自分には合わないと思った勝代に母親の仕事を継ぐ意志はない。だからといって何もせずにこのまま家にいるのはなんだか窮屈で、母子家庭で、置屋の先も長くはなさそうだから、なにか仕事をしなければとミシンの仕事を始めようとする。

 そのミシンの仕事を始める前に、勝代は、母親がお世話になった佐伯さん(仲谷昇)という男にこんなことを言っていた。落ちぶれかけている家の娘なんかの婿になろうなんて人はいないし、嫁にももらわないだろうと言った後のセリフだ。

結婚なんて夢のまた夢。それよりもね、これからどうやって生きていこうかってことの方が心配よ。

 これは今でも、あまり変わらないのでないかと思う。もしくは、この焦りのような不安は、この時代のころからはじまったものかもしれない。


 この映画は幸田文の同名小説が原作のようだけど、「流れる」ってタイトルは言い得て妙。

 あの置屋の女たちや女中さんは、あの後どうなったのだろう。
 

<この映画はid:kuwachann-2_0さんが「心に残る映画」で挙げられていたので知ることができました。いい映画でした。ありがとうございました。>



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