鳥の糞と、パラドックス

 春の陽光暖かな昼下がり、おれはコンビニへ向かって歩いていた。暇つぶしである。

 ふいに、目の前に白い物体が降ってきた。ヒヤッとしたのと同時に落ちたところへ目を移すとそれは、車のボンネットやルーフトップあるいは境内の石畳なんかでよく見かける、しかし普段目にするそれよりもみずみずしい、鳥の糞だった。

 鳥は人を狙って糞することもある。と、どこかで耳にしたことがある。

 見上げてみると、頭上の電線にカラスが1羽とまっていた。排泄元は奴に違いない。 今回は目の前であったこともあり、落ちてきた瞬間はたしかにヒヤッとした。が、その物体が何であるかを認めたとき、おれは内心ほくそ笑んだ―「あまい。おれに当てるのはなかなか難しいのだよ」

 鳥の糞が当たらないことに関しては、ちょっとした自信がある。

 これまでにも何度か(半年に1回ほどの頻度で)、鳥に糞を落とされかけてきた。ときにやや前方、ときに2、3歩後方、ときに真横。方位の違いはあれど「狙われたんじゃないか」と疑うことしばしば。 ところが、一度としてミラクルヒットを喰らったためしがない。

 あるとき、あまりに当たらないので逆に訝しんだ。一体なぜ糞は命中しないのか。「普段はあまり運が良いほうではないのに…まさか、こんなところで無駄に運を使ってるんじゃないだろうな…」、と、そこである一つの事実に思い至ったのだ。

 おれにはなかなか糞が当たらない。なぜなら、おれは運が悪いからだ…(!)

 受験のときに願掛けと称して、「キットカツ!」とか念じてみながらキットカットや豚カツを食べてみたりするのと同じような心理だろう。

 本命の受験や面接のようなここ一番の勝負に臨もうというときに限って、可哀想に、鳥の糞が命中したり犬の野グソを踏んづけたりしてしまう人が時折いるらしい。 そんなとき人は、思わず憤怒や悲嘆の感情を抱くものだろうが(歓喜する人はいないと思う)、それよりも大切なことがあることをたいていは忘れず、きちんと気持ちを切り替えようとする。前向きに、健気に、慰めるように…半ばヤケで、こう考える。


「糞がついている」→「フン=ウン(コ)」→「ウンは運」→「運がついている」…

→「今日はついてるぞ!」


 つまり、この伝でいくと、「糞」あらため「運」はおれにはつかないのである。

 「どこまでも不運な奴」とまでは豪語しないが、おれはあまり運が良いほうではないと思われる。例えば、初海外旅行でロストバゲージの憂き目に合う。宝くじは擦りもしない。通りすがりに肩ぶつかったのがおれだと勘違いされて殴られる。

 さておき、こうして1つのパラドックス(逆説)をおれは得た。そして例の自信を持つに至ったのである。



 運が悪い人は、鳥の糞が当たらない