トニオのもう一つの答え 『トニオ・クレーゲル』

 文学に限らず諸芸術・各種エンタメ、もしくは仕事や勉強など、必ずしも分量や時間で量ることのできるものではない。たとえば小説なら、長いわりになにも残らないこともあれば、短いけども一度触れるとどこまでも憑いてくるようなものもある。

 ある種の人にとっては、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』は「短いけども…」に当たるかもしれない。文庫で100ページ足らずのこの小説は、トーマス・マンの清涼ながらも苦味の効いた蒸留酒だと思う。


 この小説の話になると、芸術と市民気質のあいだで悩み葛藤する主人公のトマス・クレーゲル、もしくは朗らかで社交性もあり誰からも愛せられるような存在として描かれているハンス・ハンゼンやインゲボルグ・ホルム、この人たちやその関係なんかにとかく注目しがちだと思う。事実、はじめはそんな感じでおれも読んでいたので、たとえば、画家リザヴェータ・イヴァーノヴナが言い放つ一言、「あなたは道に迷った俗人なんです」という言葉によってトマスが“片付けられる”場面では、頭上からふいに大きな金盥を落とされたような衝撃を受けた。

 しかし。

 むしろこの小説を読むような人の大方はそのどちらでもなく、マグダレーナ・フェルメーレンをはじめ、上流の家の集まりで赤っ恥をかいた少尉殿、バルチック海上をすすむ船の上でえびのオムレツをどっさりと食したハンブルク生まれの若い商人。こういう人たちに当てはまるのではないだろうか。リザヴェータとの会話の場面で、トマスはそういう人たちに対する自分の見方を以下のように述べる。

 「不器用なからだと微妙な魂を持った人たち、まあいって見れば、いつもころびがちな人たち――詩を人生への穏やかな復讐とする人たちなのです。つまりいつもきまって、悩んでいる人、あこがれている人、あわれな人」

 あるいは、

 「芸術で腕を試そうとする人生ほど、あわれむべき姿があるでしょうか。ディレッタントであり、溌剌たる人間であって、しかもその上、折に触れてちょいちょい芸術家になれる、なんて思っている人たちほど、吾々芸術家が根本的に軽蔑する者はありません。(中略)その男(かの少尉殿)が悪いのです……自分の生命を代償としないで、芸術という月桂樹からたった一っ葉でも摘んで構わないと思った、迷誤の罰を感じていましたっけ。(中略)僕は……あの前科者の銀行家のほうに加勢しますよ」(カッコはおれ)

 とても直截的な発言である。2つ目の引用に関しては完全否定と言っても過言ではない。たとえば実際、少年時代のダンスの場面でも後半の舞踏会のシーンでも、フェルメーレン(と、そのそっくりさん?)に対して彼は顔を背けたりしている。


※以下ネタばれかも。


 で、こういう視点で読んでみると、後半の舞踏会の終盤、カドリールというワルツか何かがギャロップというステップかなんかで閉められようとしている最中にフェルメーレン(の、そっくりさん?)が烈しくぶっ倒れ、その彼女をそっと抱き起こしたときにトニオがかけた言葉、これが二重の意味をもつことに気づく。

「もう踊らないほうが好いでしょう、お嬢さん。」と彼は優しくいった。

 ここには文字通りの踊りと、もう一つの“踊り”とが掛けてあるのではないかと思う。というのも、すぐ前のページに戻って「われは寝(い)ねまし、されど汝(な)は踊らでやまず」という詩句が心に浮かんできた直後のトニオの内面の叙述を読むとわかるが、その一部を抜粋してみると、「――(トニオは)しかもそれでいて、踊らずにいられないのだ。敏活に自若として、芸術という難儀な難儀な、そして危険な白刃踊りをせずにはいられないのだ――」(カッコはおれ)。


 トニオは最後、これから先どのような姿勢でもって芸術に生きるかをリザヴェータへの手紙の中で語る。語られたことは同時にトーマス・マン自身の決意・答えでもある、という解釈や推測をしてもいいだろう。

 ただ、そうだとすると、トーマス・マンはもう一つ別の答えも潜ませていたのかもしれない。トニオがフェルメーレン(の、そっくりさん?)にかけた、先に引用した言葉がそれ。彼女のような類の人に対してそれまで冷めた態度だったトニオは、彼女を助け起こし、かつ、優しく(!)言ったのである。見ようによっては、先のリザヴェータの言葉に引けを取らないくらい強烈な言葉だと思う。

 皆がみんなトニオ(トーマス・マン?)のようには芸術の天賦の才をもつわけではないにもかかわらず今日でも読まれ続けているのには、トニオのことはもちろん、フェルメーレンのような存在にも実は焦点が当てられているからなのかもしれない。しかしまた、多くの人が「誤読」しているということでもあるかもしれない。


 翻訳はどちらでもいいと思う。どっちもいいと思う。



トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

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トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

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