地球ごと逆回転させる『銃・病原菌・鉄』と、女媧の盲目

 藤崎竜のマンガ『封神演義』を読んだことはありますか?「最初の人」たる女媧(異星人)はこの地球上で、世界を滅ぼす破壊力と世界を創り上げる力を持つ「四宝剣」でもって、幾度もこの世界を滅ぼしては創造するということを繰り返していた―彼女は自滅してしまった故郷の星の「文明」を再現しようとしていたのだ。しかし、どんなに精巧に遺伝子操作したり、厳密にタイミングを計って特定の人物に啓示を刷り込んだりしても、歴史はどこかで必ず「歪み」を生じてしまい、挙句まったくの別物になってしまう。だから彼女は破壊と創造を繰り返した。


 ★関連(先行)エントリー:諸文化の根にある文化と「いただきます」『栽培植物と農耕の起源』


あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?

 25年前、著者のジャレド・ダイヤモンド氏は、ニューギニア人の友人ヤリ氏にこのような問いを投げかけられた。著者は答えられなった。本書はその問いに対する25年後の答えの1つであり、糸口である。

 この問いをべつのかたちにしてみよう。1532年、コンキスタドール(征服者)のコルテスはインカ帝国の皇帝アタワルパを捕虜にし、それがインカ帝国の滅亡を導いた。なぜ、コルテスはインカ帝国を征服できたのだろうか。

 コルテスの背景にあった文明は、銃や騎馬といった武器や、外洋船をはじめとする発明・技術を発展させていた。冒険や征服に要する莫大な資金を提供しつづける集権的な政治機構ができあがっていた。字を読み書きする能力が普及していた(先駆者の記録や情報を活かすことができた)。あるいは、細菌に対する免疫をもっていた(ユーラシア大陸から送られてきた病原菌で命を落としたアメリカ先住民は、ヨーロッパ人の銃や剣の犠牲となって戦場で命を失った者よりもはるかに多かった)―しかし、これらは「直接的な原因」にすぎない。

 ここでさらに、問いのかたちを変えてみよう。なぜ、アタワルパがヨーロッパに渡り、スペインを征服するという逆の展開にはならなかったのか―言い換えると、なぜインカにはそれらが存在せず、ヨーロッパにはあったのだろうか……この本に書かれていることを基にすれば、女媧は、遺伝子とか意思といったいわば「内的要因」よりも、その前に「外的要因」に対してもっと気を配るべきだったのかもしれない。

歴史は、異なる人々によって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない。

 現代にあって、ヨーロッパ、あるいはユーラシア大陸の住民が他の大陸の住民よりも優位に立っているのはなぜなのか。その「究極的な要因」は、「大陸が南北ではなく、東西に拡がっていることにある」と、著者は述べる。


 先に挙げたようなコルテスのインカ征服を可能にした要因―タイトルの「銃」「病原菌」「鉄」というのはそれらを凝縮して表現したもの―は、このケースに限らず、移住者と原住民のあいだで同じような衝突が起こった場合、その成り行きを決定的にする(してきた)要因と本質的には同じである。

 「銃・病原菌・鉄」をもつコルテスの背景にあった文明の基礎と、アタワルパのそれとのあいだにあった決定的な差は、食料生産の規模(充実度)にあったと言ってよい。文明の形成には、食料生産によって、定住生活や食物の余剰・貯蓄が可能になることが前提になる。それらの結果として人口が増えるものだけど、これによって、さらに食料生産の規模も自己触媒的に拡大していく(食料を生産することで人口が増え、人口が増えることで食料がさらに必要になり…という、結果そのものがその過程の促進をさらに早める正のフィードバックが起こる)。

 この自己触媒が持続的に行われていく過程で、非生産者階級(神官とか大工とか)や都市が生まれ、発明や技術の発展が促されたり、集権的で大規模な政治機構が形成されたり、文字が普及していったりする。そして、ユーラシア大陸では農業が始まるのが他の大陸よりも早く、自己触媒という加速度的な効果もあって、その「はじめの一歩」の差が、16世紀にはあれだけの差に膨れあがっていた。

 とはいえ、食料生産(とその規模)も、自己触媒も、実のところまだ「間接的な要因(前提条件)」に留まる。そもそも、大陸によって「はじめの一歩」の時期にそのような差が生じたのは、なぜなのか。これを問わなければならない。農耕など食料生産が始まるための前提になっていたのは、「栽培化・家畜化可能な野生祖先種」「食糧生産に適した土地」である。それらの多様性や程度といった様相は地域によってもちろん異なり、また、この違いが地域による食料生産がはじまる地理的な時間差を決定づけもした。

 しかし、農耕が独自に発祥したのは、多くてもわずか9箇所に留まる。ここで思い出されるのは『栽培植物と農耕の起源』のエントリーに書いた「作物のグローバル化は(歴史時代・文明誕生以前から)ものすごかった」ということ。遥かな昔からいろいろな地域間で作物や農耕技術が連鎖的に伝播・拡散していったという現象・事実があり、裏を返すと、伝播があって初めて食糧生産がはじまった地域が大半でもあるのだ。

 その伝播に大きな影響を与えたのが、「大陸の大きさ」、ないし「大陸がどの方向に長いか」ということだった。「東西に長い」ということは「緯度が同じ」、つまり気候・生態系・降雨量・日照時間などに大きな差はない。これは栽培植物や家畜をべつの地域へ運ぶことを容易にすると同時に、運んだ後も比較的育成しやすいということである。また一般的に、栽培植物や技術などが移動するときには、同時に土器や文字や思想など、いろいろなものが一緒に伝播しやすい。一方で南北に長かった場合、環境が著しく変化するために地理的隔絶があり、ひいてはそれらの伝播が妨げられてしまった。


 ―というのが概略である。人間(あるいは文明)と環境とのこのような関係は、ポリネシアの島々を調査してみるとよくわかるのだという。太平洋の島々では、同じ人種でありながら、狩猟採集民に留まる集団から、ハワイのように王国を作りあげる集団まで多様な形態が見られた。それは少なくとも気候・地質・海洋資源・面積・地形・隔絶度の6点によって大きく左右された結果らしい(自己触媒の作用もそれがどこまで可能かはこれらの環境条件に左右される)。

 たしかに、たとえば同じ地域間でも文化の受け入れの程度が異なるといったような事実はあるけれど、地球規模で(マクロに)概観してゆくと、ポリネシアの島々で起きてきたことと同じことが世界中で見られた。著者は遺伝学、分子生物学、生物地理学、行動生態学、疫学、言語学文化人類学、考古学、古生物学、技術史・文字史・政治史といった歴史学など、様々な学問分野を横断、駆使してこれらを解き明かしている。ちなみにこの本は歴史の本だが、著者は進化生物学者(鳥類学者)らしい。

 ユーラシア大陸は他の大陸に比べて、栽培植物や家畜化可能な野生種が圧倒的に多様かつ豊富だったし(とりわけメソポタミア周辺は飛び抜けていた)、大陸が広く、かつ東西に長い。1532年の時点であれだけの差を生んだ原因はここにあり、白人が人種的・知的に優れていたからというわけではなかった―個人的な憶測だけど、これは日本列島を見ても言えることなのかもしれない。陸地が南北に長い東北以北は長らく「蝦夷地」と呼ばれ、国家は生まれなかった。あるいは、地理的・生態的差異の影響力が減った今でも日本海側の「裏日本」と呼ばれる地域は取り残されている感があるけれど、あの辺りがそうなってしまっているのは、新幹線が通っていなかったりして他の地域とのアクセスが悪いという「環境」が影響しているのではないだろうか…などと思った。

 ところで、このエントリーだけでこのことを知った人は、「それじゃ環境決定論みたいなものじゃないか」「人間の創造性を否定しているのか」と思ったりするかもしれないが、決してそういうことではないと著者自身がプロローグの時点で述べている。まず、人間に創造力がなければ、そもそも食料生産自体が起こらなかっただろう。また「決定論だ」と決めつけるのは短絡的な誤解であって、「原因の説明と、結果の正当性や是認とを混同してはいけない」。この本の試みは、心理学者が犯罪者の心理を、社会学者が大量殺戮の実態を、医学者が疫病の原因を突き止めようとするのと同じことであり、彼らは「因果の連鎖を断ち切るために、因果の連鎖を研究している」のである。

私は、過去1万3000年の歴史を、これらの章ですべて説明できるなどという幻想は抱いていない。たとえ、答えがわかっていたとしても、それを一冊の本で表すのは不可能である。ましてや、われわれはいまだ答えを知らない。本書はヤリの疑問の多くを解明するであろうと思われる複数の環境的要因を同定し、それについて述べているにすぎない。こうした要因をはっきりさせることによって、まだ解き明かされていない謎の重要性を認識することができ、その理解が今後の課題になるだろう。

 途中何度か、著者自らの手で、読者が勘違いしないように注意を促している部分がいくつかある。たとえば、プロローグの「この考察への反対意見」をはじめ、第6章の「食料生産の発祥」「時間と労力の配分」「農耕を始めた人と始めなかった人」、第8章「食料生産の開始を遅らせたもの」、第13章「先史時代の発明」、第17章「ヨーロッパ人の定住をさまたげるもの」等々、このあたりは読み流してはいけないところだ。また「歴史のワイルドカード」である個人や文化の特性が歴史にもたらす影響といった「まだ解き明かされていない謎」については、エピローグで述べられている。


 さて、歴史上環境が大きく影響してきたとはいっても、現代は地理的・生態的環境の差異の壁は過去に比べて低くなっているとは思う。しかし、文明ないし日常生活の根底には食糧生産という基盤が必要不可欠なものである。ということ自体はまったく変わらない(著者はこの点を―食料生産ないし栽培植物や家畜について、本書の1/3強の指数を割いて論じている。そしてこの部分が一番おもしろい)。

とりあえずメソポタミアを振り返ってみると、ここで人類初の文明が生じたのは、環境的に恵まれていたからだった―具体的には3つの点が挙げられる。農作物として育成できる(もしくは家畜として利用できる大型哺乳類などの)野生種が豊富だったということがまず1点。植物に関しては自殖植物が多かったというのがもう1点(主に雌雄同体の自家受粉をやってくれることで、自分たちに都合の良い形態(遺伝子)を引き継がせやすい→農耕生活へ移行しやすい)。

 また、地中海性気候(穏やかで湿潤な冬、長くて暑く乾いた夏)だったこと。この気候が人間の栽培にとって優位に働くのは、一年生植物(一年草に適した気候だからである。一年草というのは寿命が短いために、背丈ではなく種子をできるだけ大きく実らせ、子孫を残すためにエネルギーを使う。人間から見れば、食べにくく栄養分も低い樹皮や幹、茎ではなく、食料になる(栄養豊富な)種子を大きくしようとしてくれることはありがたいことである(12種類ある世界の主要作物のうち、6種類がこういう一年草である穀類とマメ類)。そういえば『栽培植物と農耕の起源』でも一年草の重要性に触れられていた―洪水のような災害などが起こった後、多年草では植えなおした後に食料の確保が長期間不可能になってしまうが、一年草だと実りまでの期間が短いので生活を建て直しやすいと。

 こんな感じにたまたま環境的に恵まれていた「肥沃三日月地帯」では、結果的に他の地よりも早く食料生産がはじまり、どこよりも早い段階で文明が誕生した。しかし、現在のかの地の「環境」はどうかと言えば…歴史が下るにつれ、メソポタミアではじまった農耕やその技術、そして権力の「中心」は、ヨーロッパの地へ移っていった。これはなぜだったのか。

 要するに、人間の営みによって、環境が変わってしまったからである。人間の「破壊」のスピードにその土地のもつ再生力が追いつかなかった。

環境は変化するものであり、輝かしい過去は輝かしい未来を保障するものではない。

 かつて肥沃三日月地帯と呼ばれ、また豊かな森林を有していたメソポタミアは現在、砂漠地帯もしくは灌木地帯になっている。農地を拡げるために開墾し、建築用・燃料用・加工製材用に森を際限なく伐採していったが(レバノン杉が有名ですね)、降雨量が少なく、森林は減る一方だった。家畜である大量のヤギも草地を食い荒らしてしまった。草木がなくなると土壌の侵食が進み、渓谷には土砂が堆積してしまって水の流れが悪くなる。灌漑農業が行われ、これも雨があまり降らないために、地表に塩分が蓄積していってしまった。

 新石器時代から近代に至るまでこれらの現象は進み続けた。その結果がああいうこと。ヨーロッパの西部および北部がメソポタミアのようになっていないのは、ヨーロッパ人がメソポタミアの住人より賢かったからではなく、単純に降雨量が多く、そのおかげで植物が再生しやすい土地だからだという。

 あるいは、家畜化可能だった野性祖先種が南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸に全然いなかったのは、家畜にできたかもしれない動物たちを、人間が大陸移動してきたときに狩り尽くしてしまったからではないかと考えられる。この大陸の動物たちは「人間は襲ってくるもの」ということを知らなかっただろうから、いとも容易く狩ることができたのだろうと…これは考古学的・地質学的に、化石を調べることによって推測されるらしく、というのは、人間が移住してきた時期と、少なくない種類の動物が突然に消えてしまう時期がほぼ一致していることが多いらしい。

 こんなふうに、人間は自分で自分の首を絞めきた。こういう事実を思い合わせると、藤崎版『封神演義』のあの女媧は、たとえ故郷の星と同じ「文明」を再現できたとしても、それが“自滅”してしまったものであるのなら、二度と同じことを繰り返さないためにも、どの道、「環境」という外的要素にももっと気を配らなければならなかった(裏を返せば、女媧は、己の力に対する過信と自己中心的にすぎる願望によってこの点に盲目になっていた)のかもしれない。そして、それは人間についても言えることなのだろうと思う。


 この本には他にもいろいろとおもしろい話(たとえば「必要は発明の母」ではなく、「発明は必要の母」だという話―文明という「発明」も似たようなものじゃないかと思う)や論点、もしくは疑問点もあるけれど、まずもって頭に留めておくべき問題は、これからの食料生産と、それを取り巻く「環境」をどう整えていくかということではないかと思う…というのも、価値観や生き方は人それぞれではあるけれど、この問題はすべての人にとって、遥かな昔から遥かな未来まで一貫して「生きる」うえで根底に流れつづける共通の課題であって、おそらく、今の社会(世界)でここが崩れてしまったら、価値観もクソもなくなる(「食料の欠乏→食料の奪い合い→戦争が起こる→核爆弾を使う→さよなら人類」なんてシナリオは陳腐だが、十分に起こりうると個人的には思う。石油や電気がなくても生きていけるけど、食べ物がなければ生きていけない)。

 あと、つい最近ニュースになっていたことで、足立区で高い放射線量が観測されたと。それで汚染された土をいくらか取り除いたと…足立区じゃなくてもそういう「被害」が至るところで起きていることは周知の通りだが、福島原発が爆発しなくて「最悪の事態は避けられた」とはたしかに言えても、土の放射能汚染って、実はそれだけで「最悪の事態」なんじゃないだろうか……

 と、思ったことはひとまず措いておき、次は、食料生産の要になっている栽培植物と切っても切り離せない「土」へと向かうことにする。具体的には、『土の文明史』と『大気を変える錬金術』の2冊を併せ読みして、加えて、ずっと読み損ねているダーウィンの『ミミズと土』もこの機に読もうかなと…つまり、地球規模からミミズサイズへ移行していく予定。

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

銃・病原菌・鉄〈下巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

銃・病原菌・鉄〈下巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

 おしまいに1つ。「いただきます」という言葉の意味に自分なりに合点がいってからこの方、食を意識するようになったというか、いろいろと食について思いをめぐらすことが多くなった。

 食は身近であることが当たり前、とわざわざ言うまでもないほど当たり前だからだと思うのだけど、人となりや生活・文化を如実に反映ていたり、ちょっと突いただけでも途端に時空を超えては連鎖反応を起こしていったりもするのでおもしろい。一方で、というかそれゆえに、これまで「食」に関して無関心でありすぎた自分を反省することしきりで、それというのも、大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、「食について考えること」≒「人間について考えること」なのではないか…という気がするのです。

 聞いた話によると、開口健は「心に通じる道は胃袋を通る」とよく口にしていたとか。