『レスラー』再観賞/批評という援け

 割引きクーポンが配信されるのを見計らって借りに行こうかと思っていたけれど、待ちきれなくて借りてきてしまった。ダーレン・アロノフスキー(『ブラック・スワン』の監督)の『レスラー』。

 去年の秋のこと、なぜかやたらとDVDを借りてきては立て続けに映画を観ていた時期に「なかなかよかったよ」と友人に薦められたこともあり、その中の1つに『レスラー』もあった。が、そのときは「うん、けっこうよかったね」で終わっただけだった。それが再観賞したところ、ほろ苦い悲哀を味わえたりランディの姿に胸を突かれたりと愉しめた。

 そこで1回目と2回目のあいだで、「鑑賞者」としての自分にどういう変化があったのか、ちょっと振り返ってみた。


 とはいえ、キーになったのは何か、それはすぐにわかる。HowardHoaxさんのブログにアップされた本作に触れているエントリー、これを読んだのが大きい。というより、これを読んだの機に再観賞しようと思ったのだった。

-ダーレン・アロノフスキー『レスラー』と、映像の「正しさ」について― The Red Diptych

 このエントリーとてもよい。どうよいのかは…読んでみてもらうとして、そこでは作中のプロレスシーンの映像に関する、カット割りやカメラアングルなどについて詳細に述べられている部分などがあって、そのプロレスシーンのくだりで「プロレスとはどういうものか」ということにも言及されていた。

 ここを読んだことで「プロレスとはどういうものか」を知ることができたのは(たとえそれが触りに過ぎなくても)、プロレスの門外漢である自分にとってはおそらく、『レスラー』を鑑賞するうえで1つの大きな援けになったのだと思う。なぜなら、この映画はランディ(ミッキー・ローク)という“男”の物語なのだが、タイトルにもあるように、ランディは一人の男である以上に“レスラー”だからである。

 プロレスに関して、おれは足を運んだことがないのはもちろん、テレビでもちゃんと観たことはない。そしてプロレスと聞けば「テレビ中継されるプロレス」というイメージだった。しかし、HowardHoaxさんの言葉を借りれば、「TVでプロレスを見ると、まず間違いなくプロレスを誤解する。そこには、大げさでわざとらしい動きしかないように思える。しかし、ひとたび実際に会場で試合を見るならば、その不自然さは氷解する」。これを言い換えると、プロレスはテレビ中継ではなく、生で観られることを前提に成立するものだと(逆に、映像配信を前提として成立するのが総合格闘技らしい)。

 レスラーたちは一見すると大袈裟にも思える身振りをする―巨大な会場で遠くから見ている観客もいるのだから。ところがテレビ放映の映像がどういうものかといえば、最前列の観客よりも間近で彼らを映すものであり、そうするとレスラーは映っていても、その「動き」は映らない。これすなわち「試合が死ぬ」…なるほどそういうことなのかと、腑に落ちるものがあった。

 加えて、プロレスに「エンターテイメント」という言葉が使われていたことも目を引いた。おれはプロレスも、サッカーやバドミントンのような一般にいう「スポーツ」だと思い込んでいた。そのためもあってあのパフォーマンスのわざとらしさに違和感をもっていたし、『レスラー』をはじめて観たときも、控え室でレスラーたちが試合の段取りを打ち合わせているシーンで「え、そういうものなの??」と虚を突かれたものだった。プロレスにドサ周りがあったことも知らなかった。それほどにプロレス無知の状態で観たのだった。1回目のときにランディという人間をいまいち理解しきれず、もしくは、彼がプロレスに懸ける想いというのが掴みきれずに「けっこうよかったね」くらいの感想しか持ち得なかったのには、こうした原因があったのかもしれない。

 このような説明を素人にもわかるように作中に入れることはできなかったのかと考えてもみたけれど、まずもって『レスラー』は映画である。たとえば、小説やマンガといった言葉を使う比重が高い表現形式ならうまい具合に説明を加えることもできるかもしれないが、映画の表現形式は、第一に映像にある。また、ランディはプロレスの新人ではなくベテランであり、その世界では伝説的な人物でもあるので、下手に説明を入れるとそこにあるはずの“空気”を壊しかねないし、この映画のよいところは、プロレスのことに限らず「へんに言葉による説明を入れない」というところにもある。こんなふうに考えてみると、プロレスの基本的な知識は受け手があらかじめもっておくべきものだったのかもしれない。

 一応一言しておくと、『レスラー』という映画はプロレスを知っていなければまったく楽しめないものだ、というわけではない。むしろこの映画は知らなくても楽しめる。ただ同時に、主人公がランディという男であり、その男の物語であり、その人生は「プロレス抜きには語ることのできないもの」なので、プロレスとはどういうものか、といった前知識はもっておくに越したことはないなと思ったのである。

 で、再観賞していてHowardHoaxさんのエントリーに援けられたところは他にもあるのだが、ひとまずその話はここまでにして、話を少し転じたい。HowardHoaxさんのブログの内容というのは、別のエントリーでご自身が書かれていたのだけど、「書評ではなく批評」である。基本ネタバレで展開されている。


 「批評」と聞くと、おそらく多くの人にとって、あまりよいイメージではないのではないかと思う。事実、『レスラー』を薦めてくれた友人は批評“家”に関して「あの人種は好かん」と言っていたし、おれ自身、もし批評家に憧れるとかなりたいとか思うかと問われると、う〜ん…となるけれど、批評それ自体は有用、というより、なくてはならないものだと思う。そこで、批評について少し考えてみた。

 思うに批評というのは、「=批判(なにかの否定)」と受け取られがちであり(決して間違いでもないが)、ひいては「上から目線」「いちゃもん」「やっかみ」「揚げ足取り」、あるいは「悪口」とも思われることもある。また、その言説は基本的に長く、単なる「知識のひけらかし」「ペダンティック」という印象を受けることもある。

 試みに広辞苑(第六版)を引いてみると、「批評」の欄には「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること」とある。似たような言葉で「評論」だと、「物事の価値・善悪・優劣などを批評し論ずること。また。その文章」とあり、そのまま「評論家」を確認してみると「評論する職業の人。転じて、自分で実行しないで人のことをあれこれ言う人」と載っている。どうやら批評という言葉は評論家の転じた意味で捉えられがちのようだと推察される。この意味は「否定論ばかり口にする」というニュアンスがあると思われる。「批評」と「評論」のちがいは気にするほどではないと思うので、この否定的なニュアンスを念頭において、とりあえず、なぜ言説が長くなってしまうのか…たとえば、ここに別れ話をしている男女がいるとする。

 別れを切り出したのはどうやら女の方で、男はそうはさせじと粘っているよう。この場合、男は女に説明を求めるだろう―「なんでそんなことを言い出したのか」と。女は相手が納得できるように、筋道立ててその理由を説明しようと試みる…実際にはそうしなくても、少なくともそれを要求される。別れを切り出すということは、「今の男女としての関係の継続を否定する」ということである。

 まぁ、どんなに諄々と説明されても納得できないというのが別れ話なのだけど(笑)、「〇〇が好きだ」という場合は余計な説明など不要で、単に「好きだ」だけでよくても、逆に「嫌いだ」といった否定形の場合にはそうはいかないことが多い。単に「嫌いだ」と言うだけでは、単にわがままなだけ、無責任な感情論と思われたりする。つまり、否定的な姿勢を取るときにはちゃんとした説明を求められることが多い。

 それは相手が納得できるように、理路の通った説明をする必要に迫られるということ―論理に欠けているところがあったりすると説得力を失ってしまうから。その分どうしても言葉を尽くす必要が生じて、ひいてはある程度の量・長さも必要になってくる。例を挙げれば、進化論をはじめて科学的に提示したダーウィン『種の起源』。あれは実際に読んでみると、進化論そのものの説明は前半の1/3程度で、残りの2/3はその進化論に対して寄せられるであろう「反論」に対する「反論」というかたちになっている(さらにダーウィンは、それを通して開けたヴィジョンを描いてみせる)。

 で、わかりやすく説明するためには例を引き出してくる方がよかったり、その作品や理論が出てきた背景や経緯を触れるべきだったりするときも少なくない。要するに、たとえ話はもちろん、何かからの引用・援用を必要とすることもある。そもそも批評という行為そのものがある程度の知識や造詣という背景を必要とするものだろうと思う。

 いま見てきたことは否定的姿勢の場合だったけども、肯定否定いずれの批評にしても、それが見栄から来る根拠のない言説だったり、ただ牽強付会なだけであったりすれば、受け手は悪口とかペダンティック、ときにはオメデタイとか自画自賛としてしか受け取れない。これまでそういう批評家が少なくなかったのもしれない。

 しかし、たとえ批評家を否定したとしても、批評は否定しないほうがよいと思う。必要なものだと思う。

 “適切な、あるいは有用な”批評というのは、ラソンで譬えてみると、伴走者やコーチ、あるいはマラソンの途中にすっと水を渡してくれる人のようなものと思えばよいかもしれない。「ペースが乱れてるよ」とか「今のうちに水分補給しておけ」という“助言”を、「うっせー黙ってろ!」と無碍に退けるというのはちょっとちがう。

 もしくは、川や用水路なんかに、砂やら石やらゴミやらが詰まっていて水の流れが悪くなっているところに、スコップやシャベルなんかを持ってきて溝浚えをしてくれ、水の通りをよくしてくれたりする。みたいなイメージもある(とりわけそれが自分とは反対意見の場合に多い)。というのは、「素直に楽しめばよいじゃないか」という思う人もいるだろうけど、ときにその「素直さ」がネックになることもある―いつの間にか形成された固定観念や偏見、先入観に基づいた「素直さ」という場合もあると思うからで、詰まっている砂や石やゴミというのはつまり、固定観念や偏見や先入観のことである。

 (今のところ)個人的には批評をこんなふうに受け取っている。ところで批評のそもそも始まりは、「この作品の、どこが、なにが、あるいはどうして、おもしろいのか」と分析し、その作品の魅力や豊かさをより引き出そうとする行為だったと何かで読んだ憶えもある。

 批判することよりも誉めることの方が、実は難しかったりする。それは上述のように誉めるときには言葉をあまり必要としないことが多いからかもしれないし、同時に、短い言葉に説得力をもたせることもまた難しい。場合によっては、批判にさえ説得力をもたせられないということは誉めることもちゃんとできない、と言えるのかもしれない。


 前述したように『レスラー』再観賞に際して、HowardHoaxさんのエントリーという援けを得たことで、1回目よりも愉しめた。「プロレスとはどういうものか」という話は決してメインの話ではなくむしろ前置きくらいで、エントリー自体『レスラー』の話に収まらない主題に深まってゆくけれど、この映画を再観賞するに際して、プロレスがどういうエンタメか、その触りを知れたことだけでも大きかった。

 ランディが医者や勤務先の上司に本名で呼ばれることを嫌い、「ランディと呼んでくれ」という場面が何回かあるのだが、これはそのまま、彼がいかにプロレスに生きているか、レスラーとして生きようとしているかということを伺わせるし、スーパーの惣菜売り場で働くことになったときに楽しげに仕事をしてみせる彼の姿というのは、プロレスでの「観客を楽しませたい」という彼自身の気質と、レスラーとしての矜持を覗かせもする。これらは1回目のときもなんとなく感じ取ってはいたものの、やはり「なんとなく」の域を抜け出ていなかったと痛感した。

 また、彼のプロレスへの想いというのがより感じ取れたことで、「プロレスとその観客」という現実と、「家族のありうる(しかし実際には冷たかった)」現実とのあいだに置かれたランディの不器用さ具合というのも、1回目のときよりもよくわかったし、その分そこにある落差がひしひしと感じられて、「おれの居場所はあそこだ」という言葉に胸を突かれたりしたのだった。


 …振り返ってみると、こういうことだったのだろうと思う。やっぱり、こういう機が訪れたときは割引きクーポンなどとケチなことを言ってる場合と違うのだな、とあらためて思ったりもした。


<この場を借りてHowardHoaxさんに感謝申し上げます。ありがとうございます。>



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